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中朝事實(乾)
大正元年 素行会 發行
その2.リアリズム山鹿流
大正元年 素行会 發行
その2.リアリズム山鹿流
山鹿素行は寛永7年(1630年)わずか9歳にして大学頭を務めていた林羅山の門下として朱子学を学んだが、朱子学に疑問を持つようになった。素行は儒教の宇宙観である天円地方説を否定し、地球球体説、更に地動説を支持している。
これは元禄元年(1688年)に井口常範が「天文図解」を著す、約半世紀前のことである。
![]() 林羅山 |
![]() 山鹿素行 |
当時、江戸幕府の正学であった「朱子学」を批判したことから、承応年間(1652年~1655年)に素行は播磨国赤穂藩にお預けとなる。
それでも古文(古事記、日本書紀、万葉集など)の朱子学的な解釈を否定し、新しい学問体系を研究して、寛文9年(1669年)に中朝事実を著わした。朱子学の清国を中心に置いた「中華思想」ではなく、日本を中心とした「中朝思想」を提唱した。
延宝3年(1675年)、素行は許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。いかにもリアリストであった素行は「常の勝敗は現在なり」という言葉を残している。
元和2年(1616年)に明に代わって大淸國が成立したが、当時は先進国であった宋に広まった朱子学を学ぶ学者が多く、幕府の大学では、宋時代の服装までこだわっていたようだ。こうした風潮に、山鹿素行、伊藤仁斎、伊藤東涯、荻生徂徠、貝原益軒、中江藤樹、本居宣長、平田篤胤などが批判的であった。こうした考え方は「古学」または「国学」とも呼ばれている。
![]() 第五代将軍 徳川綱吉 |
![]() 大学頭家三代目 林鳳岡 |
![]() 古文辞学を標榜 荻生徂徠 |
![]() 赤穂藩筆頭家老 大石内蔵助 |
忠臣蔵(歴史的には赤穂事件)の中心人物である大石良雄(内蔵助)は延宝7年(1679年)に21歳で赤穂藩の正式な筆頭家老となった。大石内蔵助はすでに山鹿流兵法術を会得していたといわれる。
赤穂事件は、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩
が、元禄14年(1701年)に江戸城松之大廊下で、高家肝煎の吉良上野介義央 に対して刃傷 に及んだことが端緒となる。第五代将軍徳川綱吉の命で幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけた。
吉良は抜刀しなかったため「喧嘩」として扱われず「とがめ」はなかった。一方で、播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も幕府に明け渡すよう命じられた。この幕府の処断に浅野家家臣達は反発し、筆頭家老であった大石内蔵助を中心に「四十七士討入り」が行われた。
この討入りに江戸庶民が共鳴した。赤穂浪士の処分で、大学頭家三代目の林鳳岡と、「古文辞学」で朱子学を論駁 する荻生徂徠が、綱吉の前で赤穂事件の裁定における朱子学一辺倒による統治の功罪について論争した記録がある。
また明治政府で活躍した品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵などがいる。前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、境二郎、宍戸璣らも塾生であった。
![]() 高杉晋作 |
![]() 久坂玄瑞 |
![]() 伊藤博文 |
![]() 山縣有朋 |
![]() 品川弥二郎 |
![]() 山田顕義 |
![]() 木戸孝允 |
![]() 井上馨 |
![]() 乃木希典 |
若くして明治維新を成し遂げた長州藩出身者の多くが、吉田松陰を通して「中朝事実」の影響を受けたことに相違ない。なぜなら彼等は万世一系の天皇の元で「中朝事実」に違わぬように、権威と権力を分離した統治機構を作り上げて行ったからだ。
プラトン、アリストテレスに始まる西洋哲学書なども良いとは思うが、思想信条は別にして、少し難解だが日本人の教養として読んでおくべきではないだろうか。
特に政治や行政に関わる人であれば、単純な尊王論として捉えるのではなく、日本人特有の性質や行動原理、しいては日本の国体を知るうえで、多くの示唆が含まれていることに間違いないだろう。
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