幕末史跡巡り2012年12月 -京都- Part10 | 以蔵のblog

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大河ドラマ「新選組!」放送以来から現在まで新選組…幕末にはまってます。さらに最近は宇宙に夢中…

連日のBlog更新、今月の更新回数は見事2桁!!いつ以来かと調べてみたら…2011年1月(13回)以来!!
低レベル(?)な称賛はここまでとして…w早速、本題に入ります。
前回は、島原をメインに紹介しましたが、島原のメインストリートである花屋町通を東へ大宮通に戻り、大宮通をひたすら北上、すると四条大宮に辿りつく。四条大宮駅を始点として、今回の目的地を案内をすると、大宮通を南へ下り、1本目の交差点を右(西)へ曲がり、綾小路通をひたすら西へ突き進む。およそ10分程(そんなにかからないかな…!?)歩くと、終点、壬生に辿りつく。
壬生はまさに新選組発祥の地。史跡が多いので2回に分けて紹介します。今回はあるテーマに基づき、史跡紹介をしたいと思います。そのテーマとは、大河ドラマ「新選組!」がきっかけで大ブレークした新選組副長・山南敬助、その山南の最後です。山南敬助は今でこそで有名な隊士の1人ですが、実は謎が多い人物。出生~死に至るまで、同時代史料があまりに少ないこともあり、とにかく謎だらけ(^_^;)。だから、今に伝わる、どこまで真実かもわからないような定説をもとに話を進めていきます。
まず、綾小路通を西に進み、坊城通にぶつかるT字路の東南角にある旧前川邸へ…

以蔵のblog-前川邸跡1
綾小路通から見る旧前川邸。入口には「誠」の旗が…朝早くから壬生を訪れたのですが、すでに観光客がいっぱい…なので場所はすぐ分かりますw。ここは、新選組の母体と言える浪士組の分宿先のひとつで、後に新選組(壬生浪士組)の屯所のひとつとなった場所。芹沢鴨が生存していた頃は、主に近藤派が占有していたとされる。現在でも相当広い邸宅だが、当時はもっと広かったそうだ。隊士が増えた新選組にとって、屯所として、もってこいの場所だったと言えようw。写真目の前、窓格子奥の一室は、芹沢派だった野口建司が切腹した部屋とされる。テーマは山南なのに、いきなり野口の話で申し訳ないが…(^_^;)。
以蔵のblog-前川邸跡2
旧前川邸は、普通に人が暮らしている民家なので、もちろん内部は非公開。だけど、押し寄せる新選組ファンのことを思ったのか…長屋門を潜り玄関付近までは入ることができ、現在では新選組グッズの販売などをしている。初めてここに来た時(新選組!が放送してた頃)は、長屋門さえ潜れなかったのをふと思い出す…その時の閉鎖感を思うと、よくぞここまでサービス精神旺盛な場所へと発展したものだw
以蔵のblog-前川邸跡3
T字路から南、坊城通沿いの旧前川邸を眺める。家、塀、家と連なっているけど、すべて旧前川邸、その広さがわかるかな!?。手前が野口が切腹した部屋、そして塀の奥の家こそが、山南敬助が切腹したと伝わる部屋である。当時は、あの山南の恋人・明里との悲しみの別れで有名な窓格子があったが、通りの邪魔になるとの理由で取り外してしまったらしい…ひじょうに残念である。でも、山南が切腹したとされる部屋は現存しており、山南の命日(3月)にはその部屋で「山南忌」が開催されている。その日のみ旧前川邸内に入れるわけだ。この行事も大河放送以降に毎年開催されるようになった、新選組の中で一番大河効果が大きかったのは山南かもしれない。
定説では、山南は尊王攘夷思想が強く、佐幕に傾倒していく新選組に危機感を持ち、近藤を説得しようと試みるが受け入れられず…また隊士の増加により壬生屯所が手狭になったため近藤、土方らは西本願寺への移転を計画するが、これに山南は異を唱えた…何もかも疎んじられるようになった山南は、日に日に憂鬱になり、ついには隊を脱走する。だが、山南はあっけなく大津で、追手に指名された沖田総司に捉えられ、抵抗することなくあっさり屯所に戻っている。そして、隊規違反により切腹を命じられた山南は「ありがたき幸せ…」と言い、見事に切腹して果てる。その中に切腹前の恋人・明里との別れのエピソードも入るわけだが、これらは後年になって出現した話であり、それが定番化して現在に至る。創作された感がかなり強い話とされてはいるが、それを否定できる根拠がないのも事実である。山南の死の原因については、当事者のみぞ知るといったところだ。
これについては、過去に個人的検証をしているので、興味のある方は以下をご覧ください。
新選組!と史実part10   新選組!と史実part10(番外編)

以蔵のblog-肥後藩邸跡
旧前川邸から坊城通を南へ進み、仏光寺通を左(東)に曲がり、壬生川通との交差点の南西角にある肥後藩屋敷跡。柵の中にあるので、見落としそうだけど、石碑もある。何故、肥後藩!?って思うけど、山南の死に関連するかもしれない唯一の同時代史料(日記)が、当時この屋敷の留守居役をしてた人物から発見されているからである。その留守居役の日記の中で新選組のことに触れている日付が元治2年2月22日。まさに山南の命日である元治2年2月23日の前日…この日に日記に書きとめておきたくなるほど、傍から見ても異常だと思った出来事が起こっていたのである。その内容は、その日新選組40名~50名が完全武装で抜き身の槍をかかげて息を切らしながら肥後藩屋敷前を通り過ぎたとあり…余程の事だったとある。屯所からも近いことから、日頃新選組を見慣れていたはずであろう人が「余程の事」と思うのだから、かなり異様な光景だったのだろう。山南の死と直接結び付く言葉は出てこないものの、この日に新選組の中での大きな出来事と言えば山南脱走しかない…まさに、この隊士達こそ脱走した山南の追手だったのではないか!?
同時代史料が見出せない山南脱走についての真相解明の一歩前進と言えるかもしれない。
さて、山南関連については話し出すと切りがないので…肥後藩屋敷跡から壬生川通を北上し、綾小路通を右(東)へ戻ると、通り沿い左側(北)に光縁寺がある。

以蔵のblog-光縁寺1
光縁寺。ここの住職曰く新選組オフィシャル墓所らしいw。その通り、20数名の新選組隊士がこの墓所に眠っている。
以蔵のblog-光縁寺2
ここで一番注目されるのは、何と言っても山南の墓。墓石はけっこうボロボロで、時の流れを感じさせる。
住職の話だと、当時は現在の位置よりもっと北、ちょうど嵐山線が走る線路上辺りに山南の墓は建っていたらしい。ってことは、実際、土葬された山南が眠っているのは、線路の下ということになる。
以蔵のblog-光縁寺3
山南の墓の横には沖田氏縁者の墓が建っている。この縁者というのは、沖田総司内縁の妻だと推測されているのが一般的だけど、山南の恋人・明里の墓だと推測されてもいる。確かに山南の墓の横に建っているので、そう思えなくもないが、ならば何故「沖田氏縁者」!?。この墓についても当事者のみぞ知る…これに尽きる。沖田と言っても、沖田総司と全く関係ない可能性もあるし、さらには新選組とさえ関係ない可能性もある。でも、一般的に新選組の墓案内で必ずと言っていいほど、紹介される墓である。

かなり長文になってしまいましたが、今回はここで終わりとします。次回は壬生編Part2です。

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