実家とはいえ、
30年近く離れてしまっていては、
そこはもう他人の家。
2〜3年ごとに引っ越しているとはいえ、
勝手が分かっている自分の家が、
やはり落ち着きます。
そして。
実家で目にするものは、
マルトリートメント(肉体的、精神的虐待を含む不適切な養育)
を受けて育った私には、
やはり少し、
心を痛めてしまうものもあり。
出来れば処分して欲しい、
と願うものもあります。
そんな中で。
今回の帰省で一番、
私の心を揺さぶったもの。
もう使わないからと実家にあげた、
食器乾燥機。
母に食器乾燥機を使わないかと話をして、
欲しいと言われて持ってきた、この乾燥機を、
台所に設置し終わった時に、
台所にやってきた父親が私に怒鳴って言った一言。
「勝手にこんなもの置きやがって!!」
そう言って父は、
台所に置いていたこの食器乾燥機を払い退けようと、
乱暴に腕で横殴りにしたのでした。
台所にはガチャ!ガチャ!!と物がぶつかる、
暴力的な音が響き渡りました。
私は勝手に置いたのではありません。
いつも台所仕事をしている母に、
必要かどうかを聞いて、
"いる"と言ったから持ってきたのです。
食器乾燥機を"こんなもの"と表現した父は、
普段、居間でご飯を出されるのを座って待つばかりで、
なかなか箸が出てこないと、
冗談めかしてはいるものの、
「俺に素手で食べろっていうのか?」
などと言って箸を催促し、
けれど決して、
自分で箸を取りにはこない人でした。
私はそんな人に対して、
食器乾燥機が要るかなどと、
確認はしませんでした。
父はきっと、
そのことが気に入らなかったのでしょう。
父の言った「勝手にこんなもの置きやがって」という言葉には、
"俺の許可を取らずに"という、
無言の言葉が含まれていました。
なぜ私がそんな風に感じたかというと。
暴力的な父の態度に対して、
私が、
「何でそんなことするの?!」
と非難した時に父は、
「俺のやることが気に入らないなら出て行け!!」
と言ってきたからでした。
そして、この言葉は、
私が子供の頃から、
父が自分の意見を家族に受け入れられなかった時に、
よく言っていた言葉でもありました。
私は子供の頃から、
父親によく家を追い出される子供でした。
私が幼い時には、
母、兄、私といった、
私が小学生くらいになると、
幼児期に家を追い出された時には、
生きて行けないと恐怖を感じていましたが、
すでに小学生の頃には、
家を出ていくことを夢想していた私にとって、
暴力を伴わなず合法的に家を出られるなら、
それは願ってもないことでした。
(小学生の頃、家を追い出されても、
必ず父は後から迎えにきたために、
実際に家を出ることはありませんでした)
私は就職し、社会人として働くことで、
幼い頃からずっと夢にみていた、
安心安全な居場所を手に入れることが出来、
しかもこの食器乾燥機を渡した8年前は、
子供も成人していて、
親に子育てで協力をお願いすることも、
無くなっていたため、
親から縁を切ると言われても、
私は全く困ることは無かったのですが、
毎回父親の機嫌により怒鳴られながらも、
それでも折につれ、
実家に顔を出し続けたのは、
私が父親を見放してしまっては、
自分本位な性格から人に相手にされず、
親しい人が遊びに来るわけでもない父親と、
それに付き合わされている母親が、
孤独で可哀想だと思ったからでした。
けれど、
この食器乾燥機を腕で払い除け、
私にいつものように、
「出て行け!!」
と怒鳴った父親に対し、
私はいつもと違う態度を取りました。
「分かった、じゃあね」
私は怒るでも泣くでもなく、
淡々とそう言うと、
自分の荷物を取り上げて家を出ました。
そんな私の後を、
母が慌てて追いかけてきました。
「お父さんにはお母さんがよく言っておくから、
本当に帰らなくてもいいじゃない」
私が父親の出て行けという売り言葉を、
ずっと買わなかったのは、
子供の頃に受けた父親の暴力に対し、
心が縛られていたこともあるのですが、
それ以上に、
自分だけ安全な場所に逃げることで、
1人間に立たされて残される母親が、
可哀想だという気持ちと、
不機嫌な父親に母親が当られるのは、
避けたいという気持ちがあったからでした。
でも、
この時の父は体力的に衰えていて、
私はこの時は、
実家から車で1時間ほどの距離に住んでいたため、
私は母親に対してもずっと、
「父親に何かされたらすぐに迎えにくるから連絡してね」
と言い続けていました。
だから、この態度に踏み切ったのです。
あなた(父親)の出て行けの言葉は、
いつまで私に有効だと思ってるんですか?
私が言うことを聞いて"あげて"いたのは、
父に対する私の優しさなのだと。
私は父親の暴力的な態度に対して、
もう屈する必要は無いのだと、
自分に知らしめるためでもありました。
私は引き止める母に対し、
「あんなことを言われてまで、この家に来たくない」
と伝えて、
そのまま本当に自分の家に帰りました。
その時、私は、
本当にこれで実家に顔を出すことが無くなっても、
それでいい、と思っていました。
父から電話があったのは、
それから3日後のことでした。
「あの時は悪かった」
生まれて初めて、
父から謝罪の言葉を聞いた瞬間でした。
父はすでに73歳を超え、
私は35歳を超えていました。
そして、これが、
私が父親からの支配を抜けた、
瞬間でもありました。
その謝罪の言葉の後、
「また家に遊びに来ていいぞ」
と上から目線で言ってきたのは、
きっと父の、
なけなしのプライドだったのでしょう。
父親の言葉の通り、
実家を出ていったあの時の私は、
昨日、その台所で、
母親と自分に対してお雑煮を作る日が、
来るとは思っていませんでした。
これが私の人生の、
大きなターニングポイントの1つでした。
覚悟を固めた時に、
人生は大きく動く。
そんなことを思い出させてくれた、
今回の帰省となりました。