実家で目にした父親克服の記録 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

ASD(自閉症スペクトラム)
愛着障害当事者から
"幸せになるための心理セラピスト"
鹿島じゅんです。

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私の愛着障害に関する生育歴
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今日、実家から帰宅しました。

実家とはいえ、
30年近く離れてしまっていては、
そこはもう他人の家。

2〜3年ごとに引っ越しているとはいえ、
勝手が分かっている自分の家が、
やはり落ち着きます。

そして。

実家で目にするものは、
マルトリートメント(肉体的、精神的虐待を含む不適切な養育)
を受けて育った私には、
やはり少し、
心を痛めてしまうものもあり。

出来れば処分して欲しい、
と願うものもあります。

そんな中で。

今回の帰省で一番、
私の心を揺さぶったもの。


8年ほど前に、
もう使わないからと実家にあげた、
食器乾燥機。

母に食器乾燥機を使わないかと話をして、
欲しいと言われて持ってきた、この乾燥機を、
台所に設置し終わった時に、
台所にやってきた父親が私に怒鳴って言った一言。

「勝手にこんなもの置きやがって!!」

そう言って父は、
台所に置いていたこの食器乾燥機を払い退けようと、
乱暴に腕で横殴りにしたのでした。

台所にはガチャ!ガチャ!!と物がぶつかる、
暴力的な音が響き渡りました。

私は勝手に置いたのではありません。

いつも台所仕事をしている母に、
必要かどうかを聞いて、
"いる"と言ったから持ってきたのです。

食器乾燥機を"こんなもの"と表現した父は、
普段、居間でご飯を出されるのを座って待つばかりで、
なかなか箸が出てこないと、
冗談めかしてはいるものの、

「俺に素手で食べろっていうのか?」

などと言って箸を催促し、
けれど決して、
自分で箸を取りにはこない人でした。

私はそんな人に対して、
食器乾燥機が要るかなどと、
確認はしませんでした。

父はきっと、
そのことが気に入らなかったのでしょう。

父の言った「勝手にこんなもの置きやがって」という言葉には、

"俺の許可を取らずに"という、
無言の言葉が含まれていました。

なぜ私がそんな風に感じたかというと。

暴力的な父の態度に対して、
私が、

「何でそんなことするの?!」

と非難した時に父は、

「俺のやることが気に入らないなら出て行け!!」

と言ってきたからでした。

そして、この言葉は、
私が子供の頃から、
父が自分の意見を家族に受け入れられなかった時に、
よく言っていた言葉でもありました。

(子供の頃はこの言葉のせいで、よく自分の感情を呑み込みました)

私は子供の頃から、
父親によく家を追い出される子供でした。

私が幼い時には、
母、兄、私といった、
私が小学生くらいになると、

幼児期に家を追い出された時には、
生きて行けないと恐怖を感じていましたが、
すでに小学生の頃には、
家を出ていくことを夢想していた私にとって、
暴力を伴わなず合法的に家を出られるなら、
それは願ってもないことでした。
(小学生の頃、家を追い出されても、
必ず父は後から迎えにきたために、
実際に家を出ることはありませんでした)

私は就職し、社会人として働くことで、
幼い頃からずっと夢にみていた、
安心安全な居場所を手に入れることが出来、
しかもこの食器乾燥機を渡した8年前は、
子供も成人していて、
親に子育てで協力をお願いすることも、
無くなっていたため、
親から縁を切ると言われても、
私は全く困ることは無かったのですが、
毎回父親の機嫌により怒鳴られながらも、
それでも折につれ、
実家に顔を出し続けたのは、

私が父親を見放してしまっては、
自分本位な性格から人に相手にされず、
親しい人が遊びに来るわけでもない父親と、
それに付き合わされている母親が、
孤独で可哀想だと思ったからでした。

けれど、
この食器乾燥機を腕で払い除け、
私にいつものように、

「出て行け!!」

と怒鳴った父親に対し、
私はいつもと違う態度を取りました。

「分かった、じゃあね」

私は怒るでも泣くでもなく、
淡々とそう言うと、
自分の荷物を取り上げて家を出ました。

そんな私の後を、
母が慌てて追いかけてきました。

「お父さんにはお母さんがよく言っておくから、
本当に帰らなくてもいいじゃない」

私が父親の出て行けという売り言葉を、
ずっと買わなかったのは、
子供の頃に受けた父親の暴力に対し、
心が縛られていたこともあるのですが、
それ以上に、
自分だけ安全な場所に逃げることで、
1人間に立たされて残される母親が、
可哀想だという気持ちと、
不機嫌な父親に母親が当られるのは、
避けたいという気持ちがあったからでした。

でも、
この時の父は体力的に衰えていて、
私はこの時は、
実家から車で1時間ほどの距離に住んでいたため、
私は母親に対してもずっと、

「父親に何かされたらすぐに迎えにくるから連絡してね」

と言い続けていました。

だから、この態度に踏み切ったのです。

あなた(父親)の出て行けの言葉は、
いつまで私に有効だと思ってるんですか?

私が言うことを聞いて"あげて"いたのは、
父に対する私の優しさなのだと。

私は父親の暴力的な態度に対して、
もう屈する必要は無いのだと、
自分に知らしめるためでもありました。

私は引き止める母に対し、

「あんなことを言われてまで、この家に来たくない」

と伝えて、
そのまま本当に自分の家に帰りました。

その時、私は、
本当にこれで実家に顔を出すことが無くなっても、
それでいい、と思っていました。

父から電話があったのは、
それから3日後のことでした。

「あの時は悪かった」

生まれて初めて、
父から謝罪の言葉を聞いた瞬間でした。

父はすでに73歳を超え、
私は35歳を超えていました。

そして、これが、
私が父親からの支配を抜けた、
瞬間でもありました。

その謝罪の言葉の後、

「また家に遊びに来ていいぞ」

と上から目線で言ってきたのは、
きっと父の、
なけなしのプライドだったのでしょう。

父親の言葉の通り、
実家を出ていったあの時の私は、
昨日、その台所で、
母親と自分に対してお雑煮を作る日が、
来るとは思っていませんでした。

(普段、あまり料理をしないので、出来に全く自信の無かった雑煮)

これが私の人生の、
大きなターニングポイントの1つでした。

覚悟を固めた時に、
人生は大きく動く。

そんなことを思い出させてくれた、
今回の帰省となりました。