「22世紀型」へ。
長沼町に転居したのを機に別ブログを立ち上げていました(やってることはたいして変わらないですけど)。
題して、
『22世紀型野良人の雑多な日常』。
http://itogakiretatako.seesaa.net/
雑多な記録ですが、こちらもご覧ください。
映画『未来の食卓』が意図するものは何・・・?(後編)
(・・・つづき)
食品添加物(と一口に書くのも本当はすごく問題なのだけど)の使用量が増え、農薬が多用されるようになった背景をちゃんと考えなくてはならない。当然、そこにあるのは「社会の近代化」だ。
日本では戦後の近代化の過程において、農業も近代化し、化学肥料や農薬が多用される今の「慣行農法」が出来上がったわけだ(フランスではもう少し早い時期かもしれない)。
なぜ化学肥料や農薬がこのように不可欠になったか?
それは単純明快、農民の数が減って「消費者様!」の数が膨れ上がったからだ。1950年代までは日本の人口の半数近くが農民だった。だから、ちょこちょこ作ってちょこちょこ食べればよかった(実際今みたいな飽食・暴食もあり得なかったわけで)。
それが今じゃ約2%、ほんの一握り、いや一つまみの農民にゆだねちゃって、近代農法以外にどうやって食料を作るって言うのさ。食料輸入だってそりゃ必要でしょうよ(もっと言えば、日本の食料輸入はアメリカとの「契約」だったんだろうし)。
フランスの事情が十分わからないから日本について書くけど、話が単純じゃないのは、そうやって意図的に(国の政策として)自国の農業を軽視し工業化を図った末に経済発展があり(所得倍増計画!ってね)、それを支える「都市労働者のための」「安い食料を」「大量に」確保するシステムが構築されていった、という点。
食べ物なんかにお金かけるようなビンボーは嫌だ~!って言って、エンゲル係数を下げるように頑張ってきたわけでしょ。食べ物にかける時間もお金ももったいないって働いて、外貨を稼いでここまできたわけでしょ(他国の戦争まで利用してね)。
オーガニックがいいとか農薬が怖いとか自然が素晴らしいとか言う前に、今僕らが持ってるお金やモノ、それらとの交換条件として農薬や食品添加物の使用(そして環境破壊や低開発国からの搾取とかもね)があるという「現実」をふまえておくべきじゃないだろうか(それはきっと欧米諸国も同じだよね。いや欧米の方がずーっとひどいか)。
はっきり言えば、そんなに農薬が嫌なら、2人に1人が農民にならなきゃならない。いや5人に1人、10人に1人でもいいのかな。ともかく、農薬や添加物を頭から否定して「安全安心な食べ物をよこせ!」と言う前に、自分が農民になることを考えるのが筋ではないだろうか(でもオーガニックや自然食好きな人って結構自分が汗かくの嫌うんだよな、泥とかウンコ(←物質循環の鍵)とかも嫌がるし)。
まぁいきなりそれは無理だとしても、現代の食や農を問うのなら、せめて伝統的食文化や伝統的農法と引き換えに得た今の高度産業化社会自体を同時に問うべきだし、それによって得た自らの物質的豊かさを問うべきだろうと思う。
「社会の近代化や経済発展」と「農業の衰退や食の軽視」は抱き合わせのものだったんだし、それは「農薬や添加物の使用による大量生産・流通」に支えられたんだから。
そして、医療も同質だってことにも向き合わなきゃならない。
先述の「農薬と医薬の違い」という問いに答えるなら、「ほぼ同じ」だよね。農薬はまぎれもなく「薬」であり、薬とは(化学合成物質だろうと漢方薬だろうと)動物の生理・機能に変化をもたらし時には死に至らしめるもの、だ。「薬」とはつまり「毒」の別称であり、「使い方」が違うに過ぎない。消毒液も腹薬も抗生物質も毒キノコもトリカブトもジャガイモの持つ毒性も農薬も、基本的には同じようなものだろう(もちろん「まったく同じ」ではないからこそ、それなりの利用の仕方があるわけで、そのためにはまず「農薬=毒=怖い」という短絡的思考から脱しなきゃならない。あと、一応言うけど、僕は農薬の使用を肯定しているわけじゃない。短絡的な思考や非科学的な扇動はむしろマイナスだと言いたいだけだ。現在の農薬の問題は、人間よりむしろ他の生物へのダメージだし、もっと問題なのは「農が自立できない営みになること」だと思っている)。
『未来の食卓』だなんて、なかなかのタイトルなだけに、このモヤモヤは大きい。本気で食や農の問題に取り組みたい人間にとって、このような映画は(期待しちゃう分だけ)歯ぎしりしたくなるような悔しい思いが伴う。安易なプロパガンダじゃ、世の中は変わらないだろ!って思うのさ。
本質的な社会の変化を望むなら、時間がかかろうとも着実にすすまなければならないと思う。そもそも問題は複雑なのだから、その複雑さを受け止めて、それぞれが迷わなきゃならない。
簡単に答えが出るものじゃない。こういった問題に曇りのない明確な「答え」を提示するような人や情報には、ちゃんと眉に唾をつけておきたい。繰り返し迷い、煩悶することこそが足腰を強くする。表面的なキレイゴトやスピリチュアルな言葉に騙されてる場合じゃないんだよ。
何度でも言っとこう。
「オーガニックは自然のまま」じゃないだろう。
「自然農は自然に優し」くはないだろう。
農は、どんな方法だろうと本来の自然への圧力だし、自然は人間への圧力だ。放し飼いだろうと家畜は家畜、喰う為に飼い殺しにしてることには変わりない。キレイゴトじゃない。そうやって今、人間は生きている。それを大前提にしなきゃ、始まらないんじゃないのかな。
でも、身の丈をわきまえてやる程度の「農」なら、自然はそれなりに受け入れてくれるはずだ、っても思う。人間だって一応自然の一部なんだから。
そうやって人間は何千年も「農」を続けてきた。自然は、人間を、農を受け止めてくれていた。
それにさ、そもそも自然は、人間ごときが上から目線で「保護」してあげられるような安っぽいものではないんじゃないのかなあ。
んで、「自然のままの食」がいいっていうんなら、野生の木の実とキノコを食べて生きなきゃね。狩猟採集生活ならホントに「自然」だよ。
映画『未来の食卓』が意図するものは何・・・?(前編)
「オーガニック」は「自然のまま!」か?!
「見たいなあ」と思いながら見に行けなかった映画の上映会が旭川であったので、ふらりと行ってきた。『未来の食卓』は、バルジャックという南フランスの小さな村のお話。村長が率先して学校給食を地元の有機農産物に変えた、というドキュメンタリーだ。
「なるほど、給食は確かに大きくしかも安定した買い手だし、教育効果も高いからオモシロい取り組みだな」と思って期待は大。チラシ(↑)も変にしつこくもなく、軽やかでいい感じ。
が、映画が始まって数分後に感じたのは、「これはドキュメンタリーではないんじゃないか?」ってことだった。かなり作りこまれた映像が多く、明らかに「ありのまま」を撮影したものではないように感じた。いや、だけどそもそもドキュメンタリーの定義なんて微妙だから、これがドキュメンタリー映画だろうとドキュメンタリー風の映画だろうと、さほど神経をとがらせるところでもない。問題は内容だ。そう思いなおした直後に現れた会話が上のものだ。
村のオジさんと子どもたちの会話なのだけれど、イベントか何かの資金稼ぎ(うろ覚えで失礼)のためにオーガニックのお菓子を売りにきた子どもたちに、オジサンが問う。
「オーガニックとは何?」
「う~ん、自然のまま!」
「いい答えだ」
…ん~?本当にこれで正しい食や農の理解が深まるのだろうか、とまず不満。これは、近代農法がどうこう言う以前の問題だ。
有機農法だろうと自然農だろうと、「自然のまま」ではないことを知るのはとても重要なことだと思う。自然のままではないからこそ、慎重な姿勢が必要になってくるのだから。キレイゴトは現実を虚ろにさせる。
そして、映画の中で「有機農業・オーガニックとは何か?」という根本的かつ最重要な問題は結局据え置かれたままだった(一応「土が大事」とかは言ってたし、価値ある言葉も結構散りばめられてはいたのだけど)。
そして、はっきりと不快だったのは、(ドキュメンタリー風に?)淡々とすすみながらも、かなり扇動的な場面が挿入されていたことだ。子どもの食事シーンで食べ物のアップが静止画となりその食べ物に入っている添加物・化学物質などが羅列されるのだけれど、そこに恐怖映画のようなBGMが被せられる。また、大型機械で農薬散布するシーンが暗ーい感じで繰り返されたり、そこに涙ながらに子どもが癌に侵されたことを語る母親の画をはさみこんだり…。
それらのシーンを見ながら僕が思いだしていたのは、太平洋戦争中に日本軍が中国内で犯した罪を凶弾していた人たちが、でっち上げの逸話や資料を(故意に)多用していた事実だ。その人たちの本心がどのようなものであったのかはわからない。けれど、結果として彼らの行為は事実を捻じ曲げ、真実をさらに闇に葬らせることにつながった。問題の本質をわからなくさせてしまった。そして、反戦や平和を訴えるだけでアカだとか左翼だとか自虐史観だとかラベリングをしたがる人たちに、恰好の攻撃材料を与えてしまった。「ほれ見たことか」と…。
たぶんそんなのは、お互いにやってきたことなのだろうと思う。プロパガンダの為には手段を選ばず、白でさえ黒と言いくるめる。灰色などは許さない。そんなのは珍しくない手段なのだろう(今でもね)。
けれど、そんな嘘では何も変わらない。(いや、この映画のカットは嘘はついていないかもしれないけど)いたずらに恐怖心をあおったり何かを「悪」に仕立て上げるやり方では、マシな「未来」をつくり得ないことは、これまでの失敗によって十分すぎるほどわかってきたはずじゃないか。
ワイドショーや週刊誌やネットの掲示板がいくら煽りたてようと、そんなもので動いた世論は刹那的な突風にしかならない。冷めれば終わり、だ。社会を変えていくには、たとえ目に見えぬほどの歩みでも、皆が本質をとらえて「煩悶」を繰り返した上で行動していくしかないんだと思う。
思考を止めさせるような扇動の仕方を用いるものは、内容がどうあれ、信用すべきじゃない。
そういう意味では、視聴後、僕にはこの映画に対し悪質な意図すら感じられた。一応言うけど、この村の取り組み自体は決して否定しない。むしろいろんな可能性を示唆するものだと思う。だからこそ、映画の作り手に対して不信感を持った。
農薬散布のシーンは特にひどい。フランスでは未だにあのようなやり方が少なくないのかもしれないけど、ことさらひどい例を挙げてその存在をまるごと否定するのはまったく科学的じゃないし、フェアじゃない。単純に「農薬=悪」という図式で語ったところで、それなりに知識のある人には簡単に論破されるに違いない(僕ですら「バカバカしい」と感じた)。
「農薬って何?」この質問に答えられる人が、オーガニック信仰者の中にどれだけいるだろうか。農薬の毒性と植物が持つ先天的な化学成分、どちらが怖いか?医薬と農薬の違いは何か?農薬は本当に(すべて)危険なのか?そして、映画の中で繰り返されるように、本当に癌の原因は農薬なのか?
あそこまで徹底して「農薬が悪い→だからオーガニックに!」「オーガニックって素晴らしい!」という作りこみをされると、(自分はもともと栽培に農薬も化学肥料も使わないけれど)何かウラがあるような気すらしてくる。誰かが儲けようとしているか、何かを隠そうとしているか、だ。
近年の温暖化&CO2悪玉論に怪しさを覚える人ならわかるだろう。エコエコいって問題を単純化・思考停止させて、もっと大きな問題(当然利権たっぷり)から煙に巻こうとしているとしか思えないアヤシさ(たとえば、「原子力発電はCO2を出さないクリーンなエネルギーです」とかさ。う~ん、そういやフランスはかなりの原発推進国じゃなかったっけ?)。環境問題の本質は温暖化に集約されるようなもんじゃないことじゃないくらい、まともな大人ならわかるはずだ。
人体や環境が汚染され続けていってるのは事実だろうと思う。今の子どもの体内汚染は、食事はもちろんのこと、母胎から引き継いだものも少なくないと考えられる(だから「農薬が癌の原因」みたいな話には無理がある。食べ物、医療、生活全般でしょ、原因は)。とはいえ、その「被害」の中核に食と農の問題があるのは疑いようがない。
けど、誰かが勝手にそうしたわけじゃないはずだ。煙草の副流煙とはわけが違う。…なぜこうなったんだい?それと引き換えに手にしたモノを数えてみろよ、って話になるのが筋じゃないだろうか。
・・・つづく。
雪の日に・・・ちょっとむかむか。
テレビを見る習慣はないのだけれど、たまに目に入った時にやっている報道番組で、経済問題を取り上げている割合が多い気がする。「100年に一度の不況」「デフレスパイラル」・・・。ふうん。
社会人学生として通っている大学の講義の中で『農作物流通論』というのがあるのだけれど、その授業でもしばしばそういった“現在の日本経済の危機的状態”ってヤツを(流通という視点から)大学教員がとうとうと語る。「戦後、このように農作物や食にまつわる変化し、現在はこうだ」と。彼が危惧する?のは、「日本の農業の衰退(後継者不足とか国内生産率低下とか)」「食文化の欧米化」「特定企業の寡占」「外食・中食化」等々・・・・。
聴いていて腹が立つのは、彼らがエラそーに分析しながらどんなに憂いだフリをしたところで、所詮は“他人事”って腹がありあり透けて見えることだ。いや今さら腹を立てるのも馬鹿なんだろうとは思う。評論家や学者、それも経済学者なんて存在は初めからそういうものなのだろうし。
ただ、100歩譲って他人事なのは放っておくとしても、そういった現状をちゃんと分析しないことは腹立たしいこと極まりない。それが商売じゃないの?何故こうなった・・・?ちゃんと理由があるはずだろう?!
・・・不況は自然現象か?農業がダメになっていくのは自然の摂理か?食が崩壊していくのは何故だ・・・?!
全部、理由があるはずだろうに。“農業の現状”は、1960年代の農基法を中心とした“近代化と農業切り捨て政策”という選択によるものじゃないか。決して、なんとなくこうなってきたわけじゃない。“日本は第1次産業を切り捨てて工業国を目指した”わけでしょ。食の欧米化だって外食化だって、全部一連の政策・選択の中で進んできたことだって、それは間違いだったって、もっとはっきり認めろよな。
僕が子どもの頃(1980年代)、学校で「エンゲル係数が下がることが豊かさ」と習った。食以外の物質の充実が豊かだって、さんざん教育されたんだ。だからこそ「“食の軽視”はオマエラが選んでやってきたことじゃないか!」・・・と、腹が立つわけだ。それを認めないまま、憂いでもしょうがないでしょうに。
ついでに言うと、デフレ云々を語る人々の頭には、“経済は永遠に成長し続けるもの”という幻が植えつけられているんだろうと思う。
いいじゃないか、どんどん小さくなっていけば。
第2次、第3次産業に仕事がないなら、種を播けばいい。鍬を持てばいい。森に入ればいい。貨幣への依存度を減らしていけば、現状がなんとかなるだけじゃなく、10年後の世界をもっとマシなものにできる。GDPが下がることを否定的に見るような感性で、いつまでいく気だ?欧米の繁栄も日本の経済成長も、全部誰かの屍の上に築いたものじゃないか。
僕は全然、経済に長けてはいないが、それでも今の社会の直接的な癌が“膨張した金融経済”と“自由貿易”だってことくらいはわかる。
銀行の利回りが小さいことを嘆くな。株価の変動がどうだっていうんだよ。お金がお金を生む構造自体が異常なんだって気づけよ。
・・・などと思いながら、今朝もCoccoちゃんに会いに行く。
ほっとするんだなあ。ありがとう。
冬になり、産卵率は落ちている(もっともまだ95%が80%になった程度)。気温の低下もあるけれど、鶏の産卵は日照時間に影響を受けるものだから(産卵率を維持するには14時間以上の日照が必要らしい。だからプロの卵やさんは今の時期、朝の2時から鶏舎に電気をつける)これは当然の変化で、むしろホッとしている。とはいえ、置き水が凍るような小屋でも、彼女たちは相変わらず元気だ。雪の降り始めに小屋の外に散歩に出られなくなって多少欲求不満が高かったようだけど、今はまた落ち着いている。あきらめたみたいだな。
冬は静かに、自分の体を維持することに努める。産卵なんてボチボチで・・・。生物として当たり前のことをそのまま受け入れられるのは僕が生産農家じゃないからだ(まぁそれ以前に、毎日卵を産むようなおかしな生き物にされちゃってんだけれど)。
これが商売になればそうはいかなくなる。餌を高タンパクにし、環境を整え、高産卵率を維持しなければならなくなる。どんどん「反自然」にせざるを得なくなる。それが農“業”の本質。だから根っこの部分では農業を肯定はできないのだけれど、今の社会の中で農業からこそ発信できることもある、と思ったりもする。
問題は“これ以上やってはいけない”線引きをできるかどうか、かな。その基準となるのは、やっぱり「生命力への信頼」なんだろうと思う。近代農業がダメなのは、それができないからだと最近強く思う。
ちょっとガンバリすぎっす。
ウンコの問題、ウンコが問題?
お手軽バイオトイレ、一応1日1回は攪拌&観察を続けている。
けど、最近はあまり劇的な変化がない。
先日、水分が減ってかなり引き締まったウンコをバラしてみたら、ほとんど繊維質の塊になっていた。
ウンコの臭いは全くない。腐葉土の匂いに近い。
この先はたぶんなかなか分解は進まないのだと思う。
攪拌が大事なのは、空気を送って好気性菌を元気にするだけじゃなく、分解が進みやすいようにウンコをバラす為なのだと実感。
それにしても、バイオトイレってのはうまくできている。
餌である食物繊維の分解は結構速い。比べてオガクズ(木)の分解はとてもゆっくりだから、菌類の住処として塩梅がいい。餌と住処がうまい具合に混ざり合うのが大事なんだろうな(湿度と温度は当然だけど)。
第三糞を投入後、試しに培養した“愛媛ai‐2”を入れてみた。
電気は使いたくないけど、まあ実験なので、小型の電気あんかで保温してみる。
さて、あらためて言うまでもなく、問題はウンコなのだと思っている。
ウンコ問題は、環境問題の“核”のひとつであり、22世紀型生活を試行するにおいて非~常に重要なポイントだ。
そもそも、上下水道の整備はインフラ改善の基本とされ、低開発国に対する支援でも必ず取り上げられる。
不適格な糞尿処理によって感染症などが増大するのは確かだし、衛生に対する配慮が必要なのは認めるけれど、安易な近代化は人間の感性に重大な損失をもたらすと、僕は感じている。
それは、“有限性と関係性の忘却”だ。
アフリカで生活していた時、毎朝の水くみが日課だった。
朝汲んできたタンク数杯の水で、一日生活する。無くなれば、また汲んでこなきゃならない。
近くに井戸があればラッキーだけど、たいていはそれもただじゃないし、遠くから何十分もかけて運んでこなきゃならない場所がほとんどだ。
近くに井戸がない場所では、洗いものは池の水を使っていたし、飲み水や炊事用には雨水を溜め、沸かして使っていた。
コップ一杯の水で洗顔から歯磨きまでできるようになった。
暖かければ沼に行って水浴びをしたし(ついでに洗濯も)、寒い時期にはバケツ一杯の水を温めて浴びた。当然、そのための焚き木も採ってこなきゃならない。
すべてが“有限”だった。
天気がいい日に、水たまりで洗濯をする(その間に水浴び、一石二鳥!)。
時々町に行って宿に泊まると、水道の蛇口をひねるだけで溢れるように水がジャバジャバと出続けるのを見て、大真面目に驚き、不思議に感じてしまった。
「この水はどこからきたんだろう?」
「なんでなくならないんだろう?」
水洗トイレは、水が有限であることを忘れさせ、ウンコが“目の前から消えたからといって無くなったわけじゃない”ことを忘れさせる。
自分の存在が、自分の行為が、必ず他とつながっていることを忘れさせる。
「目の前から消えればそれでいい」とする水洗トイレの思考は、外部不経済を垂れ流し、第三者に負荷を与え搾取し続けることで成長してきた近代社会の象徴にさえ見えてくる。
ウンコを1回流すのに使われる10ℓの水を浄化するのに、いったいどれだけのエネルギーが使われるのか?
最近はようやく“利用”が再考され始めたけれど、下水管を通して集められたし尿のほとんどは、未だ“巨大な廃棄物”だ。
そもそも、自然界にゴミなど存在しないし、糞尿放置だって何も問題じゃない(人間の場合、分解不可能な“量”であることが問題)。
糞尿は、他者の生命をかたち作っていたものであり、他者の生命の糧となるもの。
ウンコは、物質循環のひとつの場面にすぎない。
本来、すべてはつながっていて、“共生関係”にある(でも“環境に優しい”なんて言い方は、本当のことを見えなくさせる。優しいわけじゃない。それが美しいのは、真の合理性に基づいているからだ。
そして、それを思い出させてくれるのが、ウンコであり、微生物。
僕を宿主とする何兆もの微生物。僕を取り囲む無数の微生物。
目には見えないそれらの存在を感じることで、自分が“共生”していることを思い出せる。
ウンコに向き合うことで、僕らは忘れてしまいかけた“本当の合理性”を思い出せるんじゃないか。
そうだ。
アフリカの生活で体感した“有限性”について書いたけれど、本当は、“有限なわけじゃない”ことも実感していた。
長い目で見れば、そっちの方(アフリカ式)が本当は“無限”なんだ。
限りあるように見えて、本来水はちゃんと循環してくれる。
死体やウンコが森を育ててくれる。
お金に換算し、不経済を外部に垂れ流しちゃうからわからなくなるけれど、近現代生活が実は思いっきり危うい有限性をひた隠しにして営まれてるだけだ。
これは、不衛生で後進的・・・?
水遊びもすれば、魚釣りもする。食器洗いももちろん同じ水を使う。すべては湖を中心にまわる。
うまく循環すれば、終わりはない。
環から逸脱すれば、自ずと破たんしていく。
きっと、そういうふうに世界はできている。
いただきます!
毎日、3~4回Cocco部屋を見に行く。
朝7時半(たいていは夜勤終了後)は餌やり。時々タマゴあり。
10時ころ、タマゴを取りに。この時間が一番多くて、タマゴ部屋でいきんでる姿もよく見かける。「ポロン!」と産み落とされる場面にも何度か遭遇。うれしい。
午後1時ころ、もう一度タマゴを見に。タマゴを産むのはたいてい午前中なので、この時間はあんまりない。なので、様子を見つつ、草をやったり遊んだり(それから、彼女たちの交尾態勢に応えてあげたり。一応、手ですが…)。
夕方、もう一度餌やりと様子見に。寝る前にお腹を満たしたいらしいので。
毎回、僕の足音を聞きつけると「来た来た~!!」って感じで騒ぎ始めるのが面白い。腹が減ってるから、って理由だけでもなさそうで、餌が残っていても大騒ぎしながら扉のそばに集まってくる。少なくても彼女らにとって“不快な存在”ではないようだ。相変わらず肩や背中や頭に乗りたがるし(そこらへんがどうにも難しい。“かわいがる”という行為と"喰う“という行為が同居する、妙な感じ。まずは、自分の精神の動きも要観察だな)。
とりあえず、毎日「ありがとう!ありがとう!」と感謝してはいる。
(彼女たちからしたら、僕はタマゴ泥棒だからなあ)
さて、10月1日に記念すべき初卵をいただいてからちょうど2週間。順調に数は増えてきている。
10月 1日 1個
2日 1個
3日 2個
4日 1個
5日 2個
6日 2個
7日 2個
8日 2個
9日 2個
10日 3個
11日 3個
12日 3個
13日 5個
14日 8個!
だんだんいい卵になってくる。
ダンボールで作ったタマゴ部屋は、あっという間に破壊されたので、ちゃんとしたのを作った。
崩壊寸前・・・
彼女たちの破壊力はすさまじい。以前、ちょっと留守にするので、少し大きめな発砲スチロールの箱に3日分の餌を入れたことがある。戻って来て見たら、発砲の切れ端だけが残っていた。つついて破壊して、食べてしまったのだ!ストレスがかかり、一歩間違うとイジメがひどくなったり殺し合いをしてしまうのもよくわかる。家畜化された鶏だからなのかもしれないけれど、やりだしたら徹底的にやる、かなりシビアな性質を彼女たちは持つ。
困ったことが一つ。
本当は止まり木で寝る習慣をつけさせなきゃならなかったのに、うまくいかなくて、未だに集まって地べたで寝ている。数が多くなるとそれで圧死してしまうらしいから、これはすごく大事な習慣みたいだ。
だいだらぼっち(仮名)の9羽程度ならその心配はないのだけれど、今度は夜、新しく設置されたタマゴ部屋で寝ようとする傾向にあるみたいなのだった。
そうすると、タマゴを産みたい子が部屋に入れずに、そこらへんに産み落としてしまったりするのだった。
何とかしなければ。
習慣は大事だーっ!!
速報!!!
今朝、夜勤の仕事を終えて、エサをやるために鶏小屋へ行ってみると・・・・
…あっ!!
タマゴっ!!!
これが、記念すべき初タマゴだ。
そういえば、しばらく前から兆候があった。何となく賑やかというか、落ち着かないというか。
で、背中をなでると、何羽かは、交尾の姿勢をとってきていたのだ。
う~ん、これは明らかに発情している。
「準備OKよ!」
(写真じゃ今イチわからないけど、姿勢を低くして、ここからちょっとおしりを上げるのだった)
生後4ヶ月半くらいだし、そろそろかなあ、と思ってはいた。
「そろそろ落ち着いて卵を産むためのタマゴ部屋を作っておかなきゃ」と思いつつ、後まわしにしていたら、「もー待ってられないわ!」と産んでしまったのだった。ごめんよ~。
と、言うことで、あわててタマゴ部屋を設置。
(みんなヒジョーに興味を持って、つついたり乗ろうとしたりするんだけど、わかってんののかなあ?タマゴ部屋ですよ、コレは)
二日目。
昨日の午後、早くも第二糞を投入していた(けっこう大物)。
今朝またもよおしたのだけれど、分解の状態や速度をちゃんと確認する必要があるし、トイレの容量(オガクズ3ℓくらい)を考えると毎日入れるのは危険な気もして、今回は泣く泣く水洗トイレを使用。
まずはしばらく我慢して、昨日のモノがどうなっていくのかを観察したいと思う。
で、今日の状態。
明らかに、モノは小さくなっている!
これはたぶん水分がオガクズに吸収されたり蒸発したりしたためにカサが減ったものと思われるが、確実に小さくはなっていた。
今後、このモノがちゃんと分解されていくことを想像すると、オモシロくてたまらない。
だって、ウンコと一緒に何かの薬や菌を入れて「処理」するわけじゃなく、ウンコがウンコ自身の力によって分解し(まぁウンコというか微生物なんだけど)、無機物化していくのだから!
つまり、ウンコはただの廃棄物・物体ではなく、イキモノでもあったのだ。
知識として、“人間の体にはたくさんの菌類が住んでいる”ことや“腸内細菌が発酵分解してくれるから人間は食べた物を吸収できる”こと、そして“ウンコの半分は腸内細菌の死骸”なんてことは一応知っていた。けど、やっぱり実感はなかった。だって見えないんだから。
でも、こうしてウンコをまじまじと観察していると、なんだかとても妙な気分になってくる。
このウンコは、僕の体内から出てきたものだけれど、そもそもは僕が食べたイキモノたちであり、これ自体がイキモノたちの塊でもあるのだ。ウンコ。…で片づけられない存在じゃないか。
ヤバい。
不思議な連帯感、愛おしさまで湧いてきている。
実を言うと、「移植ごてで攪拌」する予定が、素手で攪拌している。攪拌というより、オガクズから掘り出している。
それは見ようによっては、宝物をそうっと取り出すかのような作業だろうと思う。
ウンコ、明日はどうなっているだろう?
待ち遠しくてたまらない。
(ウンコの臭いはほとんどない。一応トイレ自体を大きめの段ボールに入れて保管しているけど、その段ボールを開けた時に臭うのはオガクズの臭いだけ)
新しい仲間。
前からやりたかったバイオトイレに着手。
僕はてっきり何らかの菌を投入するものだと思っていたけれど(実際そうするやり方もあるけれど)、バイオトイレの基本はオガクズだけらしい。大便に含まれる腸内細菌が発酵菌になるわけだ。
今回はとりあえずの実験なので、思いっきり簡易にやってみる。
スーパーで貰ってきたダンボールに厚手のビニール袋、その中にオガクズともみ殻を入れるだけ。
小便を入れると水分過多で面倒なので、大便のみでやってみようと思う。攪拌も、装置を作るのが面倒なので、移植ごてでかき混ぜることにする。
(迷ったが、一応オガクズで被覆した後の写真を掲載)
がんばれ、僕の腸内細菌たち(名前は知らない)!!
ついでに先日入手したEM菌でコンポストを作ってみる。
ミミズ箱も未だ活躍中だが、不十分なのでEMさんにも働いてもらうことにしたのだ。
これまた段ボールとビニール袋という簡易方式。
畑の土を入れ、穴を掘ってヌカを一振りして残飯を投入。EMさんを振りかけて軽く混ぜた後、土をかぶせておく。
1週間くらいでほとんど堆肥化するらしいが、果たしてどうか(気温が低くなって来ているから発酵は進みにくいか?)。
さらに調子にのって、以前より気になっていた発酵菌「愛媛ai-2」を培養してみる。
作り方は以下の通り。
① ヨーグルト(50g)、納豆(4粒)、ドライイースト(4g)、砂糖(50g)を水(900ml)に入れ、よく混ぜる。
② 30℃くらいで1週間ほど保管。
ホントは30℃に保たなければならないんだけど、とりあえず常温に置いている。が、1時間くらいで早くも発酵が始まり、ついフタを締めすぎてたペットボトルがパンパンになっていた。危ない危ない(またバイオテロになるところだった・・・)。
フタを開けると「シュワ~!!」っと二酸化炭素が出た。その後もちいさな音でずっと「シュウー…」って鳴ってるし水流が起きてるし、菌類が活発に繁殖しているのが聴覚・視覚的にもわかって面白い。
・・・まあこれを何に使うかはまだ決めてないんだけど・・・。