月曜日です。
また1週間が始まります。
現在、堀紘一氏の「リーダーシップの本質」という本を読んでいます。
なかなかの名著で、自分だったらどうするか、自分ならどう考えるか、思い廻ることが色々とあるので、なかなか読み進むことが出来ません。
2回、3回繰り返し読んでも、恐らく学ぶことがあるでしょうし、もしかしたら今年のベスト3に入るかも。
やはり名経営者の名著は違うな、と言いたいところですが、じゃあ過去は名経営者と崇められていたけど、今は悪者と罵倒されている経営者の発言はどうでしょうか?
やはり犯罪を犯した経営者の言うことは当てにならないのでしょうか。
昔、私の母校である講演がありました。
その人は、大勢の学生に向かって言いました。
「何事も物事の本質を掴むことが大事。本質を掴んで離さなければ、それだけでは成功はしないだろうけど失敗もしない。つまり挑戦し続けることは出来るわけです」
「物事の本質を掴むとはどういうことか? 簡単に言えば、ボーリングのセンターピンです。センターピンを倒せば、ボーリングならストライクは狙える。端っこを狙ってストライクが取れますか?」
「本質を掴むことが、なぜ大切か? それは出発点であり、到着点だからです。目的があり、理由がある。目的が解れば理由が解るし、理由を解れば目的が解る。センターピンを倒せば、周りも自動的に倒れて、どんなに少なくても9本中4本は倒れるでしょう?」
この言葉は今でも、頭から離れません。
なるほどな、と思いました。
では、この発言は誰がしたのか?
元グッドウィル経営者の折口氏です。
現在の格差社会を生んだ張本人の一人のように言われていますし、その仕事内容は間違いなくそうだと思うのですが、しかし折口氏の発言の全てが否定されるべきでも無いと思います。
彼は確かに規制緩和というボーリングのセンターピンを倒し続けた訳で、そういう意味では実践者だったのかなぁ……とも思います。
で、実際の発言なのですが、物事の本質を知るということは本当に難しく、それをこうも簡単に表現されたことで、何か物事に取り組む時に「どうすれば良いか?」と考える時に、この言葉がふっと頭に浮かぶので、本当に助かります。
SEの仕事の中に要求定義・要件定義があるのですが、これは、
・システムで何(WHAT)を、なぜ(WHY)やりたいの?(目的)
・システムでどうやってやるの?(手段)
これを突き詰める作業になります。特に、WHAT・WHYを考えるに当たって、結局はシステムの本質を考える場合は、
「で、目的は何ですか?」
から考えると要求定義・要件定義はスムーズに進みます。
少し取り留めのない話題になっていますね、今日は。
まぁ、是非、何か新しい仕事に取り掛かる際、頭に描いてみて下さい。
「これのセンターピンはどこだ?」
日曜日です。
何にも縛られず、24時間、自分な好きなことに投資出来る1日です。
さて、以前、「好況よし、不況なお良し」の本当の意味というタイトルでブログを書きました。
それ以降、「好況よし」「不況良し」というキーワードで検索して、僕のブログを読んで下さる方が多いように思えて、大変有難いなぁ……と思うのですが、果たして、あれで真意が伝わっているのか不安な面も多々ありますので、今回、再度機会を設けて、再考したいと思います。
そもそも、松下幸之助氏は「好況よし、不況なお良し」という言葉をどういう意味で語ったのか? ということですが、ロジックは以下の通りです。
(1)産業は本来、好況も不況も関係無いはずだ
(2)なぜなら産業人の使命として、真にお客様の欲する物を製造するからだ
(3)したがって景気が好かろうが悪かろうが、商品の値段が5万でもお客様がその商品を欲すれば、それは売れる
(4)しかし好景気であれば、5万円の商品を利益割れの4万、3万で割る業者があるかもしれない
(5)しかし不景気であれば、値引くどころか、そういった業者は吹き飛んでしまう
(6)つまり好況であれば商品は売れて良し、そして不況であれば市場が適正化されてなお良し
恐らく、これ以上でも無ければ、これ以下でも無いと思います。
鍵になるのは、以下の点では無いでしょうか。
「真にお客様の欲する物を製造することこそ、産業人としての使命」
「好景気では闊達で、不景気では萎れた企業を相手にしてはいけない」
松下幸之助氏は究極的にドラスティックだったと言われていますが、こういう冷めた視点が、松下幸之助の「氷」の部分だったのではないかな、と思います。
最も、ロジックとして「これは明らかにおかしい!」という点は見受けられません。
企業は物を創り、お客様にそれを売る。売る際は少しの利益が出るような金額にする。
松下幸之助氏が言いたかったのは、お客様に買って欲しいがために、金額を下げる、利益率を圧縮するというのは本末転倒で、お客様に少しでも喜んでいただける商品を製造すること、ニーズを掴むことこそ使命だ―そう言いたかったのではないでしょうか。
そういう点で、ダイエーの中内氏と、膝を交えながら話しても折り合わなかった理由がよく解ります。
それぞれに哲学があって、どちらが良いとは言えないでしょうが、少なくとも「適正価格」と「安売り哲学」では交わりませんよねぇ。
ただ、これだけでは解けない問題が1つだけあります。
上記のロジックだと、1週間、1か月という期間だけを見てとれば、確かに筋は通ります。
しかし5年、10年という長いスパンで見れば、間違いなくお客様=消費者の欲する商品というのは移り変わります。
マズローの欲求ではないですが、人間の欲望は果てしなく、もっともっととせがむのが人間の本質です。
しかし松下幸之助氏の考え方だと、消費者の欲する商品がより高機能になった場合のキャッチアップがなかなか難しいと思うのです。
つまり、少なくともこのやり方だと消費者の変化に気付けない。
変化に気付けるのは、変化した後だと思うのです。
つまり、10人の人間がいて、10人中10人が「aが欲しい」と言ったとします。
じゃあ「a」を作りましょう、となって暫くして徐々に「やっぱりbが良い」と市場が変わったとしても、中には「aが欲しいなぁ」と言い続けている人がいてます。
松下氏の考え方の場合、お客様の欲する製品を製造することには着目していたとしても、ニーズの変更に適応していくことにはあまり頓着しているようには見えなかったので、結局10人中10人が「やっぱりbが良い」と市場が完全に変わった瞬間に「よっしゃbやな」と、次にbを製造する―そんな「真似した電器」の臭いがします。
ソニーの場合は、松下電器が「a」を創っている最中に「b」を製造し、お客様に披露して「うわーすげー、やっぱりbが良い」と言わせるのは上手いと思います。もっとも、ソニーはそれだけと言われれば、それだけなんでしょうが。
この泥沼思考というか、ある意味で「地方の家電製造会社」に留まりかねない思想を断ち切る魔法の言葉が、
「日に新た」
です。
今で言うところの「イノベーション」に当たるのではないでしょうか。
1日1日が新しい、1日1日が脱皮である、と。
昨日の考えは、今日古い。今日の考えこそ、新しい。
この考えこそ、上記のような「aを製造し続ける」という泥沼にはまる前に、「b」を製造出来る、つまり切り替えることが出来る、魔法の言葉だと僕は思います。
好況よし、不況なお良し。
これも恐らく、同様です。
不況がチャンスなのではなく、日常365日24時間ずっとチャンスなのです。
失敗したとしても、日に新た。
成功していたとしても、日に新た。
変化し続け、お客様と共に成長し続ける、日に新た。
そして常にキャッチアップしていれば、不況もなお良し、と言える余裕が出てきます。
自分自身に置き換えてみれば、不況を言い訳に製品が売れないことを正当化することを一旦止めることです。
どうせ売れない、の「どうせ」を、「なぜ」に変えて考える。
日に新た。
何をやっても売れない、の「やっても売れない」を、「やったら売れる」に変えて考える。
日に新た。
何にも縛られず、24時間、自分な好きなことに投資出来る1日です。
さて、以前、「好況よし、不況なお良し」の本当の意味というタイトルでブログを書きました。
それ以降、「好況よし」「不況良し」というキーワードで検索して、僕のブログを読んで下さる方が多いように思えて、大変有難いなぁ……と思うのですが、果たして、あれで真意が伝わっているのか不安な面も多々ありますので、今回、再度機会を設けて、再考したいと思います。
そもそも、松下幸之助氏は「好況よし、不況なお良し」という言葉をどういう意味で語ったのか? ということですが、ロジックは以下の通りです。
(1)産業は本来、好況も不況も関係無いはずだ
(2)なぜなら産業人の使命として、真にお客様の欲する物を製造するからだ
(3)したがって景気が好かろうが悪かろうが、商品の値段が5万でもお客様がその商品を欲すれば、それは売れる
(4)しかし好景気であれば、5万円の商品を利益割れの4万、3万で割る業者があるかもしれない
(5)しかし不景気であれば、値引くどころか、そういった業者は吹き飛んでしまう
(6)つまり好況であれば商品は売れて良し、そして不況であれば市場が適正化されてなお良し
恐らく、これ以上でも無ければ、これ以下でも無いと思います。
鍵になるのは、以下の点では無いでしょうか。
「真にお客様の欲する物を製造することこそ、産業人としての使命」
「好景気では闊達で、不景気では萎れた企業を相手にしてはいけない」
松下幸之助氏は究極的にドラスティックだったと言われていますが、こういう冷めた視点が、松下幸之助の「氷」の部分だったのではないかな、と思います。
最も、ロジックとして「これは明らかにおかしい!」という点は見受けられません。
企業は物を創り、お客様にそれを売る。売る際は少しの利益が出るような金額にする。
松下幸之助氏が言いたかったのは、お客様に買って欲しいがために、金額を下げる、利益率を圧縮するというのは本末転倒で、お客様に少しでも喜んでいただける商品を製造すること、ニーズを掴むことこそ使命だ―そう言いたかったのではないでしょうか。
そういう点で、ダイエーの中内氏と、膝を交えながら話しても折り合わなかった理由がよく解ります。
それぞれに哲学があって、どちらが良いとは言えないでしょうが、少なくとも「適正価格」と「安売り哲学」では交わりませんよねぇ。
ただ、これだけでは解けない問題が1つだけあります。
上記のロジックだと、1週間、1か月という期間だけを見てとれば、確かに筋は通ります。
しかし5年、10年という長いスパンで見れば、間違いなくお客様=消費者の欲する商品というのは移り変わります。
マズローの欲求ではないですが、人間の欲望は果てしなく、もっともっととせがむのが人間の本質です。
しかし松下幸之助氏の考え方だと、消費者の欲する商品がより高機能になった場合のキャッチアップがなかなか難しいと思うのです。
つまり、少なくともこのやり方だと消費者の変化に気付けない。
変化に気付けるのは、変化した後だと思うのです。
つまり、10人の人間がいて、10人中10人が「aが欲しい」と言ったとします。
じゃあ「a」を作りましょう、となって暫くして徐々に「やっぱりbが良い」と市場が変わったとしても、中には「aが欲しいなぁ」と言い続けている人がいてます。
松下氏の考え方の場合、お客様の欲する製品を製造することには着目していたとしても、ニーズの変更に適応していくことにはあまり頓着しているようには見えなかったので、結局10人中10人が「やっぱりbが良い」と市場が完全に変わった瞬間に「よっしゃbやな」と、次にbを製造する―そんな「真似した電器」の臭いがします。
ソニーの場合は、松下電器が「a」を創っている最中に「b」を製造し、お客様に披露して「うわーすげー、やっぱりbが良い」と言わせるのは上手いと思います。もっとも、ソニーはそれだけと言われれば、それだけなんでしょうが。
この泥沼思考というか、ある意味で「地方の家電製造会社」に留まりかねない思想を断ち切る魔法の言葉が、
「日に新た」
です。
今で言うところの「イノベーション」に当たるのではないでしょうか。
1日1日が新しい、1日1日が脱皮である、と。
昨日の考えは、今日古い。今日の考えこそ、新しい。
この考えこそ、上記のような「aを製造し続ける」という泥沼にはまる前に、「b」を製造出来る、つまり切り替えることが出来る、魔法の言葉だと僕は思います。
好況よし、不況なお良し。
これも恐らく、同様です。
不況がチャンスなのではなく、日常365日24時間ずっとチャンスなのです。
失敗したとしても、日に新た。
成功していたとしても、日に新た。
変化し続け、お客様と共に成長し続ける、日に新た。
そして常にキャッチアップしていれば、不況もなお良し、と言える余裕が出てきます。
自分自身に置き換えてみれば、不況を言い訳に製品が売れないことを正当化することを一旦止めることです。
どうせ売れない、の「どうせ」を、「なぜ」に変えて考える。
日に新た。
何をやっても売れない、の「やっても売れない」を、「やったら売れる」に変えて考える。
日に新た。
土曜日です。
今日1日は体をリフレッシュさせ、明日は試験勉強重点日と称して、ITパスポート試験とメンタルヘルスマネジメント試験合格を受けたレポート作成に勤しみます。
リフレッシュと言っても、まだまだ病み上がりなので、足を延ばして本屋に行って、スタバで本を読むぐらいでしょうかね。地味ですが……(笑)。
さて、WBCが3月にあるということで、スポーツ紙だけでなくテレビ等でも野球がクローズアップされていますが、野球に興味が無い人も、この球技ほど組織論に通じる球技はありませんので、せっかくですからこの機会に野球を知って欲しいと思います。
野球は9人の選手でやるスポーツだと言われがちですが、それだけでなく1人の監督と、十数人のコーチでやるものだと僕は思います。
グラウンドで戦うのは9人ですが、選手を指揮するのは監督ですし、選手のコンディションを整えるのは十数人のコーチです。つまり職場で戦う人間(=選手)、指揮する人間(=監督)、調整する人間(=コーチ)がいて、初めて野球が成り立つ訳です。
ただ、ここで「グラウンドの矛盾」が出てきます。
監督は組織が勝つために、試合を指揮します。監督の存在理由とは、試合に勝つことですから、当然と言えば当然です。
コーチは選手が勝てるために、試合に挑みます。コーチの存在理由とは、試合に勝つために選手のパフォーマンスを最大限に引き出すことですから、これも当然と言えば当然です。
では、選手はどうでしょうか?
実は選手の場合、結果を出すことが試合に勝つとは限りません。
野球は9人で戦うものですから、選手一人が4打数4安打4打点を叩き出したとしても、相手側がそれを上回る結果を残せば負けてしまいます。
つまり1人が100点で残り8人が0点なのと、9人全員が12点なのでは、100対108で、12点が勝利してしまいます。
これが「グラウンドの矛盾」です。
成績を残すことこそ勝利への近道だが、それが絶対では無いのです。
例えば横浜ベイスターズの村田選手はホームランキングになりましたが、チームとしては最下位ですし、楽天イーグルスの岩隈選手はMVP・沢村賞を受賞しましたが、チームは5位でした。
個人成績が、かならずしもチームを優勝に導かない―この矛盾が、実は野球の醍醐味であったり、組織論に通じたりします。
皆さんの組織でもあると思うのですが、ばりばりと結果を残すスーパー営業マンがいるのだけれど、組織全体で見れば利益はなかなか上向かない―そんなこと、ないでしょうか。
野村監督なんかは、これを「選手はグラウンドで自分のためにプレーするのではなく、チームのためにプレーをするんだ。それが結果として自分のためになる」と言っています。
つまり「グラウンドの矛盾」を解く鍵として、選手に「試合で結果を残すこと」よりも「試合に勝つこと」を求めており、勝つことに拘れば自然と「試合で結果を残せる」と説いています。
一方、落合監督なんかは「選手はグラウンドで自分のためだけにプレーしろ。結果を出すだけで良い。それをチームの勝利に結び付けるのは、監督の仕事だ」と言っています。
つまり「グラウンドの矛盾」を解く鍵として、選手に「試合に勝つこと」よりも「試合で結果を残すこと」を求めており、選手が残した結果を結び付けて勝利を生むのは「監督の仕事」と説いています。
僕にとっては、どちらも筋が通っていますし、どちらも奥の深い「監督論」であり「組織論」だと思います。
ただ言えることは、監督の考え方が違えば矛盾を解き解す方程式も違うということです。
山があれば、違う登山口でも頂点は同じように。
同じ「結末」を考えているのであれば、解き方はどちらでも良いような気がします。
組織も一緒ですよね。特に株式会社の場合、利益を出すことが「目的」ですよね。
大切なことは、選手に対してリーダーが何を求めているか、口に出していることではないでしょうか。
何を期待しているか。
何を職場で発揮して欲しいか。
リーダーがそれを知り、フォロワーに対してアプローチ出来ている組織ほど強い組織はありません。
自分のために仕事をしても、組織のために仕事をしても、それはどちらでも良いことです。
要は勝てば良いわけで、問題はそれを「誰が、どのように、勝利に結び付けるか?」が鍵だと思うのです。
思い巡らせて下さい。
皆さんの職場で、自分の役割を認識し、今、この瞬間、自分は何をすればよいか、理解出来て、率先してそれが出来ていますか?
出来ていない場合、それをリーダーに相談することが出来ますか?
今日1日は体をリフレッシュさせ、明日は試験勉強重点日と称して、ITパスポート試験とメンタルヘルスマネジメント試験合格を受けたレポート作成に勤しみます。
リフレッシュと言っても、まだまだ病み上がりなので、足を延ばして本屋に行って、スタバで本を読むぐらいでしょうかね。地味ですが……(笑)。
さて、WBCが3月にあるということで、スポーツ紙だけでなくテレビ等でも野球がクローズアップされていますが、野球に興味が無い人も、この球技ほど組織論に通じる球技はありませんので、せっかくですからこの機会に野球を知って欲しいと思います。
野球は9人の選手でやるスポーツだと言われがちですが、それだけでなく1人の監督と、十数人のコーチでやるものだと僕は思います。
グラウンドで戦うのは9人ですが、選手を指揮するのは監督ですし、選手のコンディションを整えるのは十数人のコーチです。つまり職場で戦う人間(=選手)、指揮する人間(=監督)、調整する人間(=コーチ)がいて、初めて野球が成り立つ訳です。
ただ、ここで「グラウンドの矛盾」が出てきます。
監督は組織が勝つために、試合を指揮します。監督の存在理由とは、試合に勝つことですから、当然と言えば当然です。
コーチは選手が勝てるために、試合に挑みます。コーチの存在理由とは、試合に勝つために選手のパフォーマンスを最大限に引き出すことですから、これも当然と言えば当然です。
では、選手はどうでしょうか?
実は選手の場合、結果を出すことが試合に勝つとは限りません。
野球は9人で戦うものですから、選手一人が4打数4安打4打点を叩き出したとしても、相手側がそれを上回る結果を残せば負けてしまいます。
つまり1人が100点で残り8人が0点なのと、9人全員が12点なのでは、100対108で、12点が勝利してしまいます。
これが「グラウンドの矛盾」です。
成績を残すことこそ勝利への近道だが、それが絶対では無いのです。
例えば横浜ベイスターズの村田選手はホームランキングになりましたが、チームとしては最下位ですし、楽天イーグルスの岩隈選手はMVP・沢村賞を受賞しましたが、チームは5位でした。
個人成績が、かならずしもチームを優勝に導かない―この矛盾が、実は野球の醍醐味であったり、組織論に通じたりします。
皆さんの組織でもあると思うのですが、ばりばりと結果を残すスーパー営業マンがいるのだけれど、組織全体で見れば利益はなかなか上向かない―そんなこと、ないでしょうか。
野村監督なんかは、これを「選手はグラウンドで自分のためにプレーするのではなく、チームのためにプレーをするんだ。それが結果として自分のためになる」と言っています。
つまり「グラウンドの矛盾」を解く鍵として、選手に「試合で結果を残すこと」よりも「試合に勝つこと」を求めており、勝つことに拘れば自然と「試合で結果を残せる」と説いています。
一方、落合監督なんかは「選手はグラウンドで自分のためだけにプレーしろ。結果を出すだけで良い。それをチームの勝利に結び付けるのは、監督の仕事だ」と言っています。
つまり「グラウンドの矛盾」を解く鍵として、選手に「試合に勝つこと」よりも「試合で結果を残すこと」を求めており、選手が残した結果を結び付けて勝利を生むのは「監督の仕事」と説いています。
僕にとっては、どちらも筋が通っていますし、どちらも奥の深い「監督論」であり「組織論」だと思います。
ただ言えることは、監督の考え方が違えば矛盾を解き解す方程式も違うということです。
山があれば、違う登山口でも頂点は同じように。
同じ「結末」を考えているのであれば、解き方はどちらでも良いような気がします。
組織も一緒ですよね。特に株式会社の場合、利益を出すことが「目的」ですよね。
大切なことは、選手に対してリーダーが何を求めているか、口に出していることではないでしょうか。
何を期待しているか。
何を職場で発揮して欲しいか。
リーダーがそれを知り、フォロワーに対してアプローチ出来ている組織ほど強い組織はありません。
自分のために仕事をしても、組織のために仕事をしても、それはどちらでも良いことです。
要は勝てば良いわけで、問題はそれを「誰が、どのように、勝利に結び付けるか?」が鍵だと思うのです。
思い巡らせて下さい。
皆さんの職場で、自分の役割を認識し、今、この瞬間、自分は何をすればよいか、理解出来て、率先してそれが出来ていますか?
出来ていない場合、それをリーダーに相談することが出来ますか?
今日は風邪をひいているため、有給でお休み。
と言っても、だいぶ回復してきています。
まぁ、今日1日、布団に入って本でも読みながら、体力の回復に努めます。
読んでいる本ですが、長銀最後の頭取・鈴木恒男氏の独白「巨大銀行の消滅」です。
長銀と言えば、98年の金融恐慌の際に、断末魔を上げながら焼失した巨大銀行であり、日本の護送船団方式が崩れ去った象徴ともいえます。
本の内容自体は面白くないのですが、素晴らしいくらいに理論武装されていて、だからこそこの人は「無罪」を勝ち取ったのだろうな……と思います。
98年と言えば、山一證券や北海道拓殖銀行など、様々な著名金融機関が破たんし、護送船団方式は崩壊したと当時のマスコミは報道し、僕もそうなのかな? と疑問半分で事の成り行きを見ていましたが、09年現在、都市銀行は三井住友・三菱東京UFJ・みずほの3つに収斂され、この中で見事に護送船団方式が守られているように思うのは僕だけでしょうか。
あの時、不良債権処理に対してドラスティックな改革を訴えた梶山氏・小泉氏。そしてソフトランディングを所望した小渕氏。金融危機が目の前に迫っているから、何事も早めにした方が良い!ってマスコミは言っていたけど、じゃあなぜ92年に宮沢氏が首相を務めていた頃、不良債権を抱える金融機関に対して公的資金を投入した方が良いと言った時に、マスコミや大蔵省は反対したのだろう? 96年の住専危機の時も、あれほど公的資金投入に反対したのはどうしただろう?
30年後を見通せる人間は誰もいないと思う。しかし、今日や明日のことしか考えられない人は、組織のトップに務まらないなぁ……とも思ってしまいますね。
結局、殆どの人が今日、明日のことを考えるのに一生懸命で、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後を考えられるのは仕事の時か、家を建てるために銀行からローンを組むプランを勧められた時。或いは独立を考えた時……でしょうか?
それでも組織の役職が上がるにつれて、より遠くを見渡しながら、1日1日を生きなければいけない。その業務に慣れていない人にとっては、極めて酷なことだと思います。
宮沢氏が総理大臣に就任したとき、自分は日本丸という巨大戦艦の艦長になったようなものだ、自分は進路を決めることに徹しよう、という思いに至ったそうです。
恐らく、宮沢氏はバブルの崩壊をつぶさに観察していて、この先は不良債権が足かせになると気付いていたのではないでしょうか。だからこそ92年という早い段階で、公的資金の投入を口走った。
しかし、公的資金と言えば税金ですから、国民が反対してしまった。
宮沢氏はビックリしたかもしれません。資金投入をしなければ、企業は倒産します。大規模企業であればあるほど連鎖倒産の輪が起きます。そうすれば失業者の数は多くなり、自然と治安の悪化を招きます。
全ては国民のためなのに、その国民から反対にあった―。
憮然としなかったでしょう。
しかし、それこそ、20世紀型組織としての「日本丸という巨大戦艦」の限界だったのでは?と僕は思います。
今でも覚えているのですが、大学の講義で「民主主義とは何か?」という話がありました。
僕は「多数決」だと返答しましたが、その講義を受け持っている教授が「それでは50点」だと言いました。
「民主主義とは、多数決をもって意見の洗い出しを行い、多数が少数を納得させる機会を生むこと。それが民主主義なんだ。ナチスは選挙の洗礼を浴びて、第1党になった。しかしそれは、国民が意見の洗い出しをしたに過ぎない。本来、後は国政の場でナチスが他の政党に対して、自党の政策を納得させる必要があったのだが―別の手段である、戦争を選んだ。だから、ナチスの誕生をファシズムという人もいるけど、あれは民主主義の暴走でしかないと思うんだな。イギリスのチャーチルは、民主主義は
最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである、と言ったけど、恐らくチャーチルは解っていたんじゃないかな? しょせん、多数が少数を納得させるためには、圧政か戦争か抑圧という手段しか無く、対話という仮面を被って横暴を振うしかないということを」
はたして。
宮沢氏は、国民に対して、官僚に対して、政治家に対して、公的資金注入の必要理由を説明出来たでしょうか。
恐らく日本丸の艦長として「あ、これはまずい。公的資金注入用意!」という命令しか出さなかったのではないでしょうか?
今の麻生首相もそうですが、組織のリーダーとは大抵にして「自分がリーダーなのだから、自分の命令に全員は従ってしかるべきだ」という観念に陥り易いものです。
しかし、組織は大抵、民主主義によって成り立ちません。ある目的を達成するために形成されたシステムでしかありません。従って、前回も話しましたが、案外、リーダーの命令が組織の論理に背くなら、命令が貫徹されない場合は洋々、あるのではないでしょうか。
しかし、リーダーにしか見えない景色、というものがあります。
組織のトップにしか見れない、感じ取れない世界があると思います。
言い換えれば、組織のリーダーは知っていて、それ以外は知らない。
だからこそ経営者は孤独、なんて言葉が喝破しているのかも知れませんが。
組織の論理は常に結果論で成り立っていて、今、目の前に起きている事象に立ち向かうために存在しているケースは稀有だと思います。
例えばAという事象に立ち向かい、Bという形態を取り、そしてCという最高の結果を得た。この時、組織は「今後、Cという結果を得続けるためにBという形態をとろう」と結論付けます。
これは確かに当然のことです。
利益を最大限に確保することが株式会社の使命ですから。
しかし、リーダーが「このままじゃヤバい。Dという形態に変えないと大変なことになる。今すぐ変更!」と言ったとして、今日明日に変わるか? と言えばNOです。
下手をすれば、解任というケースにも発展しかねません。
しかし、結果的にリーダーの意見が正しい場合は多く、組織はやがて滅んでしまいます。
一時期、組織の寿命は30年という話がありましたが、この30年間サイクルというのは、組織に襲いかかる津波のようなもの―リーダーが冷や汗垂らして「これはやばい!」と声を上げたサイクルなのではないでしょうか?
ちなみに、この30年サイクル、産業構造の転換にも合致するそうです。
組織は生き物だと言われています。
別に声を発しません。
意志を表すこともありません。
ただ、組織に生きる人間の心に宿ると僕は思います。
前にも言いましたが、松下電器で3年暮らすのと、ソニーで3年暮らすのとでは、全く違う別人格になるのと同様で組織はその組織で暮らす人間の心に宿ります。
つまり、組織を生かすも殺すも、自分自身だと思うのです。
だからこそリーダーの意見に耳を貸す心のゆとりも必要だと思うのですが、これを言うとリーダーの横暴にどう耐えるんだ!という野次がよく出るので困ります。
この鍵は、宗教にあると思うのですが、それはまた別の機会に。
ともかく、絶対というものは存在しませんから、これ!と決めてかかると痛い目に会います。
何より自分の心で「こうなんだ!」と決めつけてしまうと、そういう組織になってしまいます。
これかもしれないが、こういうケースもあるかもしれないな。ここは、用心だ。
自分はこれ、と決めてかかって仕事にかかるから、これじゃなかった場合に止めてもらう人を用意しよう。
そう心掛けて、組織に入って欲しいと思います。
と言っても、だいぶ回復してきています。
まぁ、今日1日、布団に入って本でも読みながら、体力の回復に努めます。
読んでいる本ですが、長銀最後の頭取・鈴木恒男氏の独白「巨大銀行の消滅」です。
長銀と言えば、98年の金融恐慌の際に、断末魔を上げながら焼失した巨大銀行であり、日本の護送船団方式が崩れ去った象徴ともいえます。
本の内容自体は面白くないのですが、素晴らしいくらいに理論武装されていて、だからこそこの人は「無罪」を勝ち取ったのだろうな……と思います。
98年と言えば、山一證券や北海道拓殖銀行など、様々な著名金融機関が破たんし、護送船団方式は崩壊したと当時のマスコミは報道し、僕もそうなのかな? と疑問半分で事の成り行きを見ていましたが、09年現在、都市銀行は三井住友・三菱東京UFJ・みずほの3つに収斂され、この中で見事に護送船団方式が守られているように思うのは僕だけでしょうか。
あの時、不良債権処理に対してドラスティックな改革を訴えた梶山氏・小泉氏。そしてソフトランディングを所望した小渕氏。金融危機が目の前に迫っているから、何事も早めにした方が良い!ってマスコミは言っていたけど、じゃあなぜ92年に宮沢氏が首相を務めていた頃、不良債権を抱える金融機関に対して公的資金を投入した方が良いと言った時に、マスコミや大蔵省は反対したのだろう? 96年の住専危機の時も、あれほど公的資金投入に反対したのはどうしただろう?
30年後を見通せる人間は誰もいないと思う。しかし、今日や明日のことしか考えられない人は、組織のトップに務まらないなぁ……とも思ってしまいますね。
結局、殆どの人が今日、明日のことを考えるのに一生懸命で、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後を考えられるのは仕事の時か、家を建てるために銀行からローンを組むプランを勧められた時。或いは独立を考えた時……でしょうか?
それでも組織の役職が上がるにつれて、より遠くを見渡しながら、1日1日を生きなければいけない。その業務に慣れていない人にとっては、極めて酷なことだと思います。
宮沢氏が総理大臣に就任したとき、自分は日本丸という巨大戦艦の艦長になったようなものだ、自分は進路を決めることに徹しよう、という思いに至ったそうです。
恐らく、宮沢氏はバブルの崩壊をつぶさに観察していて、この先は不良債権が足かせになると気付いていたのではないでしょうか。だからこそ92年という早い段階で、公的資金の投入を口走った。
しかし、公的資金と言えば税金ですから、国民が反対してしまった。
宮沢氏はビックリしたかもしれません。資金投入をしなければ、企業は倒産します。大規模企業であればあるほど連鎖倒産の輪が起きます。そうすれば失業者の数は多くなり、自然と治安の悪化を招きます。
全ては国民のためなのに、その国民から反対にあった―。
憮然としなかったでしょう。
しかし、それこそ、20世紀型組織としての「日本丸という巨大戦艦」の限界だったのでは?と僕は思います。
今でも覚えているのですが、大学の講義で「民主主義とは何か?」という話がありました。
僕は「多数決」だと返答しましたが、その講義を受け持っている教授が「それでは50点」だと言いました。
「民主主義とは、多数決をもって意見の洗い出しを行い、多数が少数を納得させる機会を生むこと。それが民主主義なんだ。ナチスは選挙の洗礼を浴びて、第1党になった。しかしそれは、国民が意見の洗い出しをしたに過ぎない。本来、後は国政の場でナチスが他の政党に対して、自党の政策を納得させる必要があったのだが―別の手段である、戦争を選んだ。だから、ナチスの誕生をファシズムという人もいるけど、あれは民主主義の暴走でしかないと思うんだな。イギリスのチャーチルは、民主主義は
最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである、と言ったけど、恐らくチャーチルは解っていたんじゃないかな? しょせん、多数が少数を納得させるためには、圧政か戦争か抑圧という手段しか無く、対話という仮面を被って横暴を振うしかないということを」
はたして。
宮沢氏は、国民に対して、官僚に対して、政治家に対して、公的資金注入の必要理由を説明出来たでしょうか。
恐らく日本丸の艦長として「あ、これはまずい。公的資金注入用意!」という命令しか出さなかったのではないでしょうか?
今の麻生首相もそうですが、組織のリーダーとは大抵にして「自分がリーダーなのだから、自分の命令に全員は従ってしかるべきだ」という観念に陥り易いものです。
しかし、組織は大抵、民主主義によって成り立ちません。ある目的を達成するために形成されたシステムでしかありません。従って、前回も話しましたが、案外、リーダーの命令が組織の論理に背くなら、命令が貫徹されない場合は洋々、あるのではないでしょうか。
しかし、リーダーにしか見えない景色、というものがあります。
組織のトップにしか見れない、感じ取れない世界があると思います。
言い換えれば、組織のリーダーは知っていて、それ以外は知らない。
だからこそ経営者は孤独、なんて言葉が喝破しているのかも知れませんが。
組織の論理は常に結果論で成り立っていて、今、目の前に起きている事象に立ち向かうために存在しているケースは稀有だと思います。
例えばAという事象に立ち向かい、Bという形態を取り、そしてCという最高の結果を得た。この時、組織は「今後、Cという結果を得続けるためにBという形態をとろう」と結論付けます。
これは確かに当然のことです。
利益を最大限に確保することが株式会社の使命ですから。
しかし、リーダーが「このままじゃヤバい。Dという形態に変えないと大変なことになる。今すぐ変更!」と言ったとして、今日明日に変わるか? と言えばNOです。
下手をすれば、解任というケースにも発展しかねません。
しかし、結果的にリーダーの意見が正しい場合は多く、組織はやがて滅んでしまいます。
一時期、組織の寿命は30年という話がありましたが、この30年間サイクルというのは、組織に襲いかかる津波のようなもの―リーダーが冷や汗垂らして「これはやばい!」と声を上げたサイクルなのではないでしょうか?
ちなみに、この30年サイクル、産業構造の転換にも合致するそうです。
組織は生き物だと言われています。
別に声を発しません。
意志を表すこともありません。
ただ、組織に生きる人間の心に宿ると僕は思います。
前にも言いましたが、松下電器で3年暮らすのと、ソニーで3年暮らすのとでは、全く違う別人格になるのと同様で組織はその組織で暮らす人間の心に宿ります。
つまり、組織を生かすも殺すも、自分自身だと思うのです。
だからこそリーダーの意見に耳を貸す心のゆとりも必要だと思うのですが、これを言うとリーダーの横暴にどう耐えるんだ!という野次がよく出るので困ります。
この鍵は、宗教にあると思うのですが、それはまた別の機会に。
ともかく、絶対というものは存在しませんから、これ!と決めてかかると痛い目に会います。
何より自分の心で「こうなんだ!」と決めつけてしまうと、そういう組織になってしまいます。
これかもしれないが、こういうケースもあるかもしれないな。ここは、用心だ。
自分はこれ、と決めてかかって仕事にかかるから、これじゃなかった場合に止めてもらう人を用意しよう。
そう心掛けて、組織に入って欲しいと思います。
自分にとっては当たり前のことなのに、友人に聞けば「当たり前ではない」ことはよくあります。
これを常識を持っていない、と切り捨てることは簡単なのですが、自分の組織では当たり前なのに、他の組織では「当り前ではない」となると、事情が変わります。
組織の論理―とでも言うのでしょうか。
ある組織内でしか通用しない、組織内だけのロジック。
新入社員は、誰よりも早く出社する。
新入社員は、先輩社員の机を拭く。
新入社員は、全員の肩を揉まないといけない。
新入社員は、何事も「はい」と言わなければいけない。
新入社員は、粉飾決算をしなければいけない―なんて。
このブログを見ている人は、殆どが企業に勤める人でしょうが、思い当たる点は幾つかあると思います。
特に転職経験のある人にとっては、これは何度も経験することではないでしょうか。
組織色に染める、とでも言うのかも知れません。
性格も考え方も全く一緒の人間が、松下電器で3年間働くのと、ソニーで3年間働くのとでは、全く違う人間になるように、一概に組織の論理が悪いとは言えないと思います。
しかし、それが粉飾決算に繋がる、社内いじめに繋がると、マスコミは急に「組織の論理が優先された」と非難を浴びせます。
つまりは、常識や法に違反しなければ良いのでしょうが、例えば大規模粉飾決算で話題になったカネボウの場合は、粉飾は数十年にわたって行われ続けていた訳で、なぜ「粉飾に反対しなかったのか?」と言えば「言える雰囲気では無かった」「それが当然だと思っていた」「反対したのだが……」という声が圧倒的です。
組織の論理は特に、法に反するだけでなく、人間の意志をも亡くす。
恐ろしいものです。
オムロンの立石氏が一時期、盛んに言っていた「大企業病」も組織の論理が優先され、非合理が当たり前になり、それを誰も疑わなくなってしまうことが、病態を悪化させていたのではないでしょうか。
だからこそ、疑うことが大切だとは思うのですが、気が付けば右手人差し指を天高くあげ「ともだちー!」と20世紀少年よろしく言っている人たちが多い世の中―なかなか難しいのかもしれません。
春は別れの季節であり、出会いの季節です。
組織との別れでもあり、出会いでもあります。
今までのやり方で通用しなくなることもあると思います。
その時は、「組織」を1つの原因にすると、案外解り易いと思います。
組織とは、弱い人間を5人集めて強くする、いわばシステムみたいなものだと思っています。
弱い人間を強く見せるために、それなりにマニュアル化がされています。
実は、そのマニュアル化こそ「組織の論理」のエッセンスが詰まっているのではないかと思うのですが、ともかく、そのシステムで強くなっているのですから、その組織から離れたとしても、同じやり方で対応しようと思っても、当然だと思います。
しかし、当然ですが、通用する可能性はなかなか低いでしょう。
その時に、どうするか?
それこそ、その人の進化が問われる時だと思うのです。
例えば、会社に着く。
そうして、9時から18時まで、何をするか構成するのは良いかも知れません。
自分の頭で構成して、無駄だと思ったものは改善する。省く。無くす。
そうでもしないと、生まれてしまったものを、組織はなかなか無くそうとはしません。
なぜか?
それは、組織までも無くなってしまうのではないか?と組織が疑うからだと僕は思っています。
組織の論理から脱却する必要は決して無いと思います。
大抵の場合、企業の成長の吸引力は「組織の論理」だからです。
しかし、企業の衰退の原因もまた、大抵が「組織の論理」が発生源です。
必要なことは組織の論理にいながら、その論理を外から見つめて、常に軌道修正を行うことが大切だと考えています。
言わば、定期的なメンテナンスですね。
仕事が上手くいかないと悩むなら、自分の力量が無いと悩んでから、組織を疑って下さい。
100%の力を発揮出来る人間が50%しか発揮出来ないような構造になっていることもあります。
それを、120%発揮出来るように修正してみては、如何でしょうか。
これを常識を持っていない、と切り捨てることは簡単なのですが、自分の組織では当たり前なのに、他の組織では「当り前ではない」となると、事情が変わります。
組織の論理―とでも言うのでしょうか。
ある組織内でしか通用しない、組織内だけのロジック。
新入社員は、誰よりも早く出社する。
新入社員は、先輩社員の机を拭く。
新入社員は、全員の肩を揉まないといけない。
新入社員は、何事も「はい」と言わなければいけない。
新入社員は、粉飾決算をしなければいけない―なんて。
このブログを見ている人は、殆どが企業に勤める人でしょうが、思い当たる点は幾つかあると思います。
特に転職経験のある人にとっては、これは何度も経験することではないでしょうか。
組織色に染める、とでも言うのかも知れません。
性格も考え方も全く一緒の人間が、松下電器で3年間働くのと、ソニーで3年間働くのとでは、全く違う人間になるように、一概に組織の論理が悪いとは言えないと思います。
しかし、それが粉飾決算に繋がる、社内いじめに繋がると、マスコミは急に「組織の論理が優先された」と非難を浴びせます。
つまりは、常識や法に違反しなければ良いのでしょうが、例えば大規模粉飾決算で話題になったカネボウの場合は、粉飾は数十年にわたって行われ続けていた訳で、なぜ「粉飾に反対しなかったのか?」と言えば「言える雰囲気では無かった」「それが当然だと思っていた」「反対したのだが……」という声が圧倒的です。
組織の論理は特に、法に反するだけでなく、人間の意志をも亡くす。
恐ろしいものです。
オムロンの立石氏が一時期、盛んに言っていた「大企業病」も組織の論理が優先され、非合理が当たり前になり、それを誰も疑わなくなってしまうことが、病態を悪化させていたのではないでしょうか。
だからこそ、疑うことが大切だとは思うのですが、気が付けば右手人差し指を天高くあげ「ともだちー!」と20世紀少年よろしく言っている人たちが多い世の中―なかなか難しいのかもしれません。
春は別れの季節であり、出会いの季節です。
組織との別れでもあり、出会いでもあります。
今までのやり方で通用しなくなることもあると思います。
その時は、「組織」を1つの原因にすると、案外解り易いと思います。
組織とは、弱い人間を5人集めて強くする、いわばシステムみたいなものだと思っています。
弱い人間を強く見せるために、それなりにマニュアル化がされています。
実は、そのマニュアル化こそ「組織の論理」のエッセンスが詰まっているのではないかと思うのですが、ともかく、そのシステムで強くなっているのですから、その組織から離れたとしても、同じやり方で対応しようと思っても、当然だと思います。
しかし、当然ですが、通用する可能性はなかなか低いでしょう。
その時に、どうするか?
それこそ、その人の進化が問われる時だと思うのです。
例えば、会社に着く。
そうして、9時から18時まで、何をするか構成するのは良いかも知れません。
自分の頭で構成して、無駄だと思ったものは改善する。省く。無くす。
そうでもしないと、生まれてしまったものを、組織はなかなか無くそうとはしません。
なぜか?
それは、組織までも無くなってしまうのではないか?と組織が疑うからだと僕は思っています。
組織の論理から脱却する必要は決して無いと思います。
大抵の場合、企業の成長の吸引力は「組織の論理」だからです。
しかし、企業の衰退の原因もまた、大抵が「組織の論理」が発生源です。
必要なことは組織の論理にいながら、その論理を外から見つめて、常に軌道修正を行うことが大切だと考えています。
言わば、定期的なメンテナンスですね。
仕事が上手くいかないと悩むなら、自分の力量が無いと悩んでから、組織を疑って下さい。
100%の力を発揮出来る人間が50%しか発揮出来ないような構造になっていることもあります。
それを、120%発揮出来るように修正してみては、如何でしょうか。