今日は風邪をひいているため、有給でお休み。
と言っても、だいぶ回復してきています。
まぁ、今日1日、布団に入って本でも読みながら、体力の回復に努めます。
読んでいる本ですが、長銀最後の頭取・鈴木恒男氏の独白「巨大銀行の消滅」です。
長銀と言えば、98年の金融恐慌の際に、断末魔を上げながら焼失した巨大銀行であり、日本の護送船団方式が崩れ去った象徴ともいえます。
本の内容自体は面白くないのですが、素晴らしいくらいに理論武装されていて、だからこそこの人は「無罪」を勝ち取ったのだろうな……と思います。
98年と言えば、山一證券や北海道拓殖銀行など、様々な著名金融機関が破たんし、護送船団方式は崩壊したと当時のマスコミは報道し、僕もそうなのかな? と疑問半分で事の成り行きを見ていましたが、09年現在、都市銀行は三井住友・三菱東京UFJ・みずほの3つに収斂され、この中で見事に護送船団方式が守られているように思うのは僕だけでしょうか。
あの時、不良債権処理に対してドラスティックな改革を訴えた梶山氏・小泉氏。そしてソフトランディングを所望した小渕氏。金融危機が目の前に迫っているから、何事も早めにした方が良い!ってマスコミは言っていたけど、じゃあなぜ92年に宮沢氏が首相を務めていた頃、不良債権を抱える金融機関に対して公的資金を投入した方が良いと言った時に、マスコミや大蔵省は反対したのだろう? 96年の住専危機の時も、あれほど公的資金投入に反対したのはどうしただろう?
30年後を見通せる人間は誰もいないと思う。しかし、今日や明日のことしか考えられない人は、組織のトップに務まらないなぁ……とも思ってしまいますね。
結局、殆どの人が今日、明日のことを考えるのに一生懸命で、1ヶ月後、3ヶ月後、1年後を考えられるのは仕事の時か、家を建てるために銀行からローンを組むプランを勧められた時。或いは独立を考えた時……でしょうか?
それでも組織の役職が上がるにつれて、より遠くを見渡しながら、1日1日を生きなければいけない。その業務に慣れていない人にとっては、極めて酷なことだと思います。
宮沢氏が総理大臣に就任したとき、自分は日本丸という巨大戦艦の艦長になったようなものだ、自分は進路を決めることに徹しよう、という思いに至ったそうです。
恐らく、宮沢氏はバブルの崩壊をつぶさに観察していて、この先は不良債権が足かせになると気付いていたのではないでしょうか。だからこそ92年という早い段階で、公的資金の投入を口走った。
しかし、公的資金と言えば税金ですから、国民が反対してしまった。
宮沢氏はビックリしたかもしれません。資金投入をしなければ、企業は倒産します。大規模企業であればあるほど連鎖倒産の輪が起きます。そうすれば失業者の数は多くなり、自然と治安の悪化を招きます。
全ては国民のためなのに、その国民から反対にあった―。
憮然としなかったでしょう。
しかし、それこそ、20世紀型組織としての「日本丸という巨大戦艦」の限界だったのでは?と僕は思います。
今でも覚えているのですが、大学の講義で「民主主義とは何か?」という話がありました。
僕は「多数決」だと返答しましたが、その講義を受け持っている教授が「それでは50点」だと言いました。
「民主主義とは、多数決をもって意見の洗い出しを行い、多数が少数を納得させる機会を生むこと。それが民主主義なんだ。ナチスは選挙の洗礼を浴びて、第1党になった。しかしそれは、国民が意見の洗い出しをしたに過ぎない。本来、後は国政の場でナチスが他の政党に対して、自党の政策を納得させる必要があったのだが―別の手段である、戦争を選んだ。だから、ナチスの誕生をファシズムという人もいるけど、あれは民主主義の暴走でしかないと思うんだな。イギリスのチャーチルは、民主主義は
最悪の政治であるが、今まで存在したいかなる政治制度よりマシである、と言ったけど、恐らくチャーチルは解っていたんじゃないかな? しょせん、多数が少数を納得させるためには、圧政か戦争か抑圧という手段しか無く、対話という仮面を被って横暴を振うしかないということを」
はたして。
宮沢氏は、国民に対して、官僚に対して、政治家に対して、公的資金注入の必要理由を説明出来たでしょうか。
恐らく日本丸の艦長として「あ、これはまずい。公的資金注入用意!」という命令しか出さなかったのではないでしょうか?
今の麻生首相もそうですが、組織のリーダーとは大抵にして「自分がリーダーなのだから、自分の命令に全員は従ってしかるべきだ」という観念に陥り易いものです。
しかし、組織は大抵、民主主義によって成り立ちません。ある目的を達成するために形成されたシステムでしかありません。従って、前回も話しましたが、案外、リーダーの命令が組織の論理に背くなら、命令が貫徹されない場合は洋々、あるのではないでしょうか。
しかし、リーダーにしか見えない景色、というものがあります。
組織のトップにしか見れない、感じ取れない世界があると思います。
言い換えれば、組織のリーダーは知っていて、それ以外は知らない。
だからこそ経営者は孤独、なんて言葉が喝破しているのかも知れませんが。
組織の論理は常に結果論で成り立っていて、今、目の前に起きている事象に立ち向かうために存在しているケースは稀有だと思います。
例えばAという事象に立ち向かい、Bという形態を取り、そしてCという最高の結果を得た。この時、組織は「今後、Cという結果を得続けるためにBという形態をとろう」と結論付けます。
これは確かに当然のことです。
利益を最大限に確保することが株式会社の使命ですから。
しかし、リーダーが「このままじゃヤバい。Dという形態に変えないと大変なことになる。今すぐ変更!」と言ったとして、今日明日に変わるか? と言えばNOです。
下手をすれば、解任というケースにも発展しかねません。
しかし、結果的にリーダーの意見が正しい場合は多く、組織はやがて滅んでしまいます。
一時期、組織の寿命は30年という話がありましたが、この30年間サイクルというのは、組織に襲いかかる津波のようなもの―リーダーが冷や汗垂らして「これはやばい!」と声を上げたサイクルなのではないでしょうか?
ちなみに、この30年サイクル、産業構造の転換にも合致するそうです。
組織は生き物だと言われています。
別に声を発しません。
意志を表すこともありません。
ただ、組織に生きる人間の心に宿ると僕は思います。
前にも言いましたが、松下電器で3年暮らすのと、ソニーで3年暮らすのとでは、全く違う別人格になるのと同様で組織はその組織で暮らす人間の心に宿ります。
つまり、組織を生かすも殺すも、自分自身だと思うのです。
だからこそリーダーの意見に耳を貸す心のゆとりも必要だと思うのですが、これを言うとリーダーの横暴にどう耐えるんだ!という野次がよく出るので困ります。
この鍵は、宗教にあると思うのですが、それはまた別の機会に。
ともかく、絶対というものは存在しませんから、これ!と決めてかかると痛い目に会います。
何より自分の心で「こうなんだ!」と決めつけてしまうと、そういう組織になってしまいます。
これかもしれないが、こういうケースもあるかもしれないな。ここは、用心だ。
自分はこれ、と決めてかかって仕事にかかるから、これじゃなかった場合に止めてもらう人を用意しよう。
そう心掛けて、組織に入って欲しいと思います。