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それもまた良し

関西のとあるベンチャーで働くSEのブログ。

日々のインプットから、アウトプットを定期的に行うことが目標です。主に組織論やドラッカーの話題が中心ですが、タイトルにもあるように「松下幸之助氏」のような互助の精神を持ち、社会人として成長出来る事が最大の目標です。

明日は、私用で定時に帰れないので先に書いておきます。


書きかけ……。
今日はなんだか気が付けば1日が終わっていました。

時間だけは、誰にでも平等に与えられた「神のお零れ」なのに、1分1秒を無駄にすることは、自分の人生を無駄にすることだと解っているのに、それでも1分1秒になかなか集中出来ない僕がいます。


仕事が嫌いなのではありません。
むしろ、好きです。

ただ、目的意識をいまいち持てないまま、仕事に取り組んでいることが問題だ、と思っています。
そういう意味で、いまいちだなぁ……と。



そう言えば、仕事の好き嫌い、という点で、こんな話があります。
仕事は天国でも地獄でもある、という話です。

仕事を強制的にやらされている、嫌々やっているという人は「地獄」。
仕事を主体的にやっている、自ら進んでやっているという人は「天国」。

つまり、心持ち次第では「天国でもあり地獄でもある」と思うのです。



しかし「仕事を何のためにやっているのか?」ということを考えると、主体的に自ら進んでやる仕事さえも【天下り天国】という言葉に代表されるように、本人天国他人地獄ということもあると思うのです。

自分さえ良ければいいんだ、という自己勝手な考え方で、自分だけの仕事天国を築くことだって、「天国と地獄」の考え方に基づけば可能だと思います。


いったい、誰のために、どのような仕事をするのか?


これを考えた時に、やはりエンドユーザ、消費者、お客様のための仕事をする―この考え方が大事だと思うのです。
逆に、この考え方に基づかないで仕事をしても、どんどん自己中心的な考え方でしか結果が出せず、最終的に市場から締め出されてしまうのではないでしょうか?



エンドユーザ、消費者、お客様のために仕事をする。
売上は、エンドユーザ、消費者、お客様から頂いた「お礼」、利益は「チップ」だと思うと、ますます頭を垂れて仕事をしようと思います。


エンドユーザ、消費者、お客様のために仕事が出来ることこそ天国。
自分のためだけに仕事をすることは地獄。

そんな気がします。



少し前、仕事は結果を残すことだと言いました。
結果とは何か?

これはつまり、エンドユーザ、消費者、お客様からチップを含めたお礼を頂けるような体制を築くことではないか?と最近は思います。

エンドユーザ、消費者、お客様のためになる。
自分の力にもなる。
組織の活性、永続性にもなる。


それが天国―だと言いたいですが、よくよく考えたら当たり前のことかもしれませんね。
リーダーシップを発揮するということは世間巷で散々と言われていますが、じゃあ「リーダーシップって何よ?」という点を聞いてみれば、10人いれば10人の答えがあると思います。

多様性重視の時代、なんて言われていますから、10人いれば10人の答えがあるでしょう。
10人が考える、10人にとってのリーダーシップ。


その全てをこなせる、100%のリーダーこそ完璧なリーダーだと思います。
しかし、そんなリーダーは果たして、存在するのでしょうか。



いることにはいるでしょう。
オバマ大統領とかね。

優れた政治センスと先見性、実行力、コミュニケーション力で、あらゆる人種を問わず「この人に任せれば、間違いない」と思わせることが出来る人間。

しかし、世の中、こんなリーダーばかりだと、自己啓発本が全く売れなくなってしまいます。
世の中の大抵の人間は、だらしがなくて、決断力も無くて、自分中心で、プライドが高いのではないでしょうか。


だから、そんな自分が嫌で「自分だけの、完璧なリーダー」を求めてしまうのではないでしょうか。



最近思うのですが、結局は周囲の期待というのは、しょせんその程度だと諦める事が肝心です。

周囲が期待するリーダーシップに応えようと必死になって努力しても、十人十色のリーダーシップですから5人が賛成すれば5人が反対することは当然です。

したがって、強烈な個性を発揮しようとすればするほど、好きと嫌いはハッキリすると思うのです。


しかも期待に応えれば応えられるほど、自己否定の上に成り立つ完璧な人間が目の前に現れるだけで、そりゃあ当然「面白くないなぁ」と思う人間も出てきます。



つまり、完璧を求めないこと。
完璧なリーダーなんていません。

リーダーが優秀な組織は、居心地が良いでしょうし、そんなリーダーになりたいと思うでしょう。
しかし組織はリーダーが優秀でなければ成立しないか? そんなことは無いと思うのです。

そもそも、優秀とは何か。それを考えなければいけません。


強烈なリーダーシップ?
カリスマ性?
皆をグイグイ引っ張る?


それもまた、皆が勝手に決めた「イメージ」でしかなく、逆に「個性の尊重」「民主制に基づいた合意の上で行動」と思う人がいると思うのです。

結局、リーダーとはかくあるべきという「完全性」自体が、自分という枠に雁字搦めになったリーダーでしかないと思うのです。



完璧なリーダーはいない。
その出発点に立って、皆が求めるリーダーシップでなく、皆を支えるリーダーシップが求められる気がします。

「~して欲しい」という個人のヒーロー願望を逆手に取って、「~したい」という欲望を活性化すること。
すなわち個人それぞれがヒーローという戦略です。

リーダーは、そのお手伝いをすればよいのではないでしょうか。
なんて思います。

考えがいまいちまとまっていませんが、今日はここまで。
今日は自宅でDVDを見ることにしました。

1つは「20世紀少年」。
もう1つは「放送禁止」。

良いインプットをしたと思います。
いつも本を読んだり、記事を読んだりすることがインプットの根源だったので、たまには映像も良いですね。


以下に、気になったことを幾つか。


・宗教は人を救うものであり、人を滅ぼすものである
 ⇒仕事が強制なら地獄であるが、仕事が快楽なら天国である

・国家としての権力の根源はどこに
 ⇒統治者としての求心力は、大抵が戦争か宗教

・会社・組織の求心力は?
 ⇒リーダー。カリスマ性?

・考えろ、疑え
 ⇒目の前にある真実が、事実を積み重ねたものとは限らない

・当たり前は、当り前ではない
 ⇒積み重ねられた出来事があって、当り前になっている

・真実は常に創造される
 ⇒聖書

・事実は常に記憶される
 ⇒記憶からねつ造されるのが真実、だからこそ疑え

・権力は常に真実を基にしている
 ⇒だからこそ、権力は腐敗する、絶対的な権力は絶対的に腐敗する

・行動力、数字だけは真実とは限らない
 ⇒決算書のやらせ、ねつ造は昔からある

・真実はどこに?
 ⇒自分の目で見る
責任を取る。
これって、どういう意味なのでしょうか。


今日、こんなことがありました。
在る部署から「今回から、この制度を変更します。依頼するときはA部署に依頼し、A部署からB部署に依頼があってから初めて、成り立つ仕組みです」という全社メールが来ました。

えらい煩雑な仕組みやな、と思う反面、コスト管理の面から言えば仕方が無いのかな、と思っていたらA部署を統括する事業部長から「メールで公表する前に、なぜこういう制度にすると一報貰えなかったのでしょうか?」という全社メールがありました。

つまり、ある部署はA部署の許可を得ずに、勝手に制度に取り込んだ訳です。
しかも申請内容上、1時間~2時間は絶対に時間が掛かる作業です。


1日8時間労働だとして、その4分の1が、その仕事で埋められる可能性がある。
しかも利益も売上も出ない、社内業務。

それに許可も無く、勝手に仕事を推し進める。
いったいどういう神経をしているのかと、その部署を疑ってしまいました。



結局は制度は1から見直すそうですが、なぜこういう事態になってしまったのか、誰がその制度改変責任者なのか曖昧なまま、その部署の末端の人間がメールで「すいませんでした」と言って、お終い。

何が、どう「すいません」なのか。
全く解りません。

それもまた良し、とはとてもじゃないですが言えません。



一度、似たようなことがあった時に、ある先輩に、
「この問題を生んだ責任者は誰?」
と聞いたことがあります。

その先輩は、
「いないよ」
と言いました。

「いない。だって、責任者がいたら処罰するだけやろ?」

つまり誰も責任を取りたくないから、責任者を置かない、というのです。
正直、腰が抜けるというか、眩暈がしました。



本当に、皆さんに問いたいです。
責任の無い、責任を背負わないで済む仕事はこの世に存在するのでしょうか。

仕事をする、ということは結果に責任を負う、ということです。
どんな末端の仕事に携わったと言えども、末端なりの結果を出している筈であり、その結果に責任を負う必要があるはずです。


責任を負う=会社を辞める。

そう考える日本の風潮ですが、僕は責任を負うことは、赤字の事業を黒字に転換する、悪い結果を良い結果に修正する、という意味もあると思います。



結果は出します、責任は取りません、では野糞垂れ流しであり非常に気持ちが悪いと思うのです。
何かをする、何かを成すということは、それに対する責任を持つこと。

これだけは肝に銘じて、仕事に取り組んでいきたいと思います。



「それもまたええやないか」



この魔法の言葉は、責任から逃げる言葉では無いのです。
結果を受け入れ、責任を取るための言葉なのです。