最近、思うのですが……人間によって、器というか、器量って違うな、と痛感しています。
人間の器?
その器の中に、肉じゃがでも入れますか、と悪態付いていた私ですが。
器というか……。
つまり、上に立つ人間の心得とでも言うのでしょうか。
どうも、僕の身近にいる人間で、明らかに上に立ってはいけない人間がいる。
俺の頭の上に、足を乗せるな、と言いたくなる人間がいる。
平気で社員に辞めろと言う。
平気で社員を脅しにかかる。
平気で言っていること、やっている仕事内容が違う。
上に立つ人間の器量というよりかは、実質的に人間としてどうなのか、と思います。
最近では、9月末に退職する社員に対して、7月に退職を強要。
その理由が「給料が2か月安くなるから」だそうで。
最低ですな。
結局、偉くなるってことは、人の頭の上に立つということ。
人の頭の上に、足乗せてその上で仕事するってことなんだ。
いかにして、下で踏まれている人間の気持ちをくみ取るか。
それが人の上に立つ人間の使命だと思います。
会社は人で成り立ちます。
その人の頭の上に足を乗せる人間が、その下にいる人間を馬鹿にしてどうすんですか。
簡単に言います。
会社はステークホルダーのためにあります。
会社は株主のためにあると言う人がいます。
確かにそうですが、それが全てでは無いと思っています。それは言うならば、レンゲはラーメンの汁を吸うためにある、と言っているようなもので、ある意味で使途を限定することは問題を意図して矮小しているような気がします。
会社はもちろん株主のために存在しますし、当然そこで働く社員のために存在しますし、取引をしている会社のために存在します。
つまり、会社は会社だけでは生きることが出来ないと思っています。
そこで働く人、出資する人、金を払ってくれる人、商品を買ってくれる人。
そんな人達のお陰で、会社は成り立っています。
だからこそ、僕は思うのです。
会社は生きている。
いろんな人によって、生かされている。
つまり、浄土真宗の考え方で言う「他力本願」ですよね。
生かされている。
それなのに、会社が突然、株主に牙を剥いたり、社員を蔑にしたり、取引会社を騙したりすることがあります。
これはどういうことなのでしょうか?
株主が悪い?
ブルドックソース事件や、アデランス事件に代表されるような、いわゆるハゲタカ投資ファンドが、会社をその時点での企業価値でしか判断せず、勝手に売却しようとする。
社員が悪い?
派遣切りや雇い止めと言うけれど、派遣は最初から首になる前提で入社しているはずだし、雇用形態が違うから当然、正社員と派遣・請負は違う。
取引会社が悪い?
サブプライムローンに端を発する景況感の悪化で、今までの友好関係を築くより生き残る方が先。
確かにそうなのかもしれない。
しかし、その先に何があるのでしょうか。
会社は生かされている、と書きました。
それは人間と一緒です。
コミュニティから外れた、誰からも生かされない人間は、もはや「生きている」と言えない、と僕は考えます。
僕自身の思想として、生きているとは「生かしている」ことで実感出来る、と考えるからです。
企業も一緒ではないでしょうか?
誰かのため、何処かの企業のために存在するから、企業は生き続けることが出来る。
企業が必要とされなくなったとき、その社会的使命が無くなったとき、会社は必然的に倒産するのではないでしょうか?
つまり、会社が残り続けるには、時代に併せて変わり続けなければいけない。
株主や社員、取引会社の期待を裏切ってはいけない。
そう思っています。
いつからでしょう。
会社が、外国企業との競争という大義名分で、期待を裏切るようになったのは。
いつまででしょう。
会社が、夢や希望を語らずに、外国企業との競争を続けるのは。
株主や社員、取引会社が抱く期待。
それは「この会社ならやってくれる」という期待だと思います。
つまり、それは会社が語る夢と希望だと思うのです。
株主は、会社の夢や希望のチケットを買っていると思います。
僕はそれが「株」だと思うのです。
社員は、会社の夢や希望に胸を打たれて、そのために働くと思います。
さらにその舞台で自分を成長させるために働くと思っています。
取引会社は、会社の夢や希望の具体化・実現例に価値を感じて、関係を持つと思います。
バリューがあるから関係が築けると思います。
いつからか、夢や希望を語らなくなった日本。
夢や希望を持たなくなった日本人。
夢や希望がなくて、人間は生きられるのでしょうか?
生きれれば、それで良いのでしょうか。
では、生きているとは何なのか。
何のために生きているのか。
会社だって、そうです。
会社は生きています。
夢や希望が必要だと思うのです。
夢や希望を語る会社が、今こそ必要だと思うのです。
会社はステークホルダーのためにあります。
会社は株主のためにあると言う人がいます。
確かにそうですが、それが全てでは無いと思っています。それは言うならば、レンゲはラーメンの汁を吸うためにある、と言っているようなもので、ある意味で使途を限定することは問題を意図して矮小しているような気がします。
会社はもちろん株主のために存在しますし、当然そこで働く社員のために存在しますし、取引をしている会社のために存在します。
つまり、会社は会社だけでは生きることが出来ないと思っています。
そこで働く人、出資する人、金を払ってくれる人、商品を買ってくれる人。
そんな人達のお陰で、会社は成り立っています。
だからこそ、僕は思うのです。
会社は生きている。
いろんな人によって、生かされている。
つまり、浄土真宗の考え方で言う「他力本願」ですよね。
生かされている。
それなのに、会社が突然、株主に牙を剥いたり、社員を蔑にしたり、取引会社を騙したりすることがあります。
これはどういうことなのでしょうか?
株主が悪い?
ブルドックソース事件や、アデランス事件に代表されるような、いわゆるハゲタカ投資ファンドが、会社をその時点での企業価値でしか判断せず、勝手に売却しようとする。
社員が悪い?
派遣切りや雇い止めと言うけれど、派遣は最初から首になる前提で入社しているはずだし、雇用形態が違うから当然、正社員と派遣・請負は違う。
取引会社が悪い?
サブプライムローンに端を発する景況感の悪化で、今までの友好関係を築くより生き残る方が先。
確かにそうなのかもしれない。
しかし、その先に何があるのでしょうか。
会社は生かされている、と書きました。
それは人間と一緒です。
コミュニティから外れた、誰からも生かされない人間は、もはや「生きている」と言えない、と僕は考えます。
僕自身の思想として、生きているとは「生かしている」ことで実感出来る、と考えるからです。
企業も一緒ではないでしょうか?
誰かのため、何処かの企業のために存在するから、企業は生き続けることが出来る。
企業が必要とされなくなったとき、その社会的使命が無くなったとき、会社は必然的に倒産するのではないでしょうか?
つまり、会社が残り続けるには、時代に併せて変わり続けなければいけない。
株主や社員、取引会社の期待を裏切ってはいけない。
そう思っています。
いつからでしょう。
会社が、外国企業との競争という大義名分で、期待を裏切るようになったのは。
いつまででしょう。
会社が、夢や希望を語らずに、外国企業との競争を続けるのは。
株主や社員、取引会社が抱く期待。
それは「この会社ならやってくれる」という期待だと思います。
つまり、それは会社が語る夢と希望だと思うのです。
株主は、会社の夢や希望のチケットを買っていると思います。
僕はそれが「株」だと思うのです。
社員は、会社の夢や希望に胸を打たれて、そのために働くと思います。
さらにその舞台で自分を成長させるために働くと思っています。
取引会社は、会社の夢や希望の具体化・実現例に価値を感じて、関係を持つと思います。
バリューがあるから関係が築けると思います。
いつからか、夢や希望を語らなくなった日本。
夢や希望を持たなくなった日本人。
夢や希望がなくて、人間は生きられるのでしょうか?
生きれれば、それで良いのでしょうか。
では、生きているとは何なのか。
何のために生きているのか。
会社だって、そうです。
会社は生きています。
夢や希望が必要だと思うのです。
夢や希望を語る会社が、今こそ必要だと思うのです。
僕自身、面接に訪れる学生に対して何度も聞くのが「なぜ、あなたは働くのですか?」という質問。
大抵の学生が想定していない質問なのか、えーとか、あーうーと怯みみます。
そこで僕は「えーあーうーって、君は大平正芳か」と突っ込むのですが、そこで笑いも当然起きず。
だいたい返って来る答えの半分は「生きるため」「衣食住のため」という、何とも先が思いやられる言葉。
パナソニックをリストラされた50代のサラリーマンじゃないんだから、もう少し働くということに対して真剣に取り組めよなぁ、と心の中で思いながら、僕は笑顔で聞きます。
「じゃあ、なんで生きてんの?」
質問の意味が解らない学生は、ポカンとしていますが、この言葉は最大級の侮辱だなぁ、と最近は思い、なるべく言わないようにしています。
しかし、本質的に言えば生きたくても生きられない人間がいるのに、その一方で命を垂れ流している人がいる。
目的も無く生きるぐらいなら、臓器移植法が改正されたら、全ての臓器を提供するという意思を示して、臓器が傷付かないように、どうぞ死んでください、と思う。
生きるということは、本来、非常に辛く厳しいもんだと思うのです。
なぜなら生きるには目的があるし、理由があるなんて、そういう経済状況にあるから言える訳で、北朝鮮の人たちは、まず生きることに一生懸命だからです。
政府を批判すれば投獄される中国に、アメリカに勝手に政権転覆させられて再びカオスが到来したイラク。
そこに暮らす人々と比較して、どれほど不自由なく暮らせているか。
日本に生まれたという理由だけで、生きる目的や理由を見つけることが出来る。
もっと言えば、生き甲斐を探し出すことが出来る。
これは、本当にありがたいことなんです。
ただ、リーマンショック以降、素顔を見せた日本は、ある意味で「絶望国家」と化していますね。
派遣、請負の人たちは、解雇されてしまい、今後どのような人生プランを描けというのか。
介護か農業か漁業ぐらい……今まで日本が目を向けてこなかった分野ですね。
きっと、これから3年以内に、息子が父親に対してこんな風に言う風景が増えるのではないでしょうか。
「お父さんは、なぜ働いているの?」
「それはお前らを食わせるためじゃないか」
「だったら大学行くのは辞めて、コンビニで働くよ」
「えっ……なんで?」
「だって食うだけなら、コンビニで十分だし困らないもの」
「何を言ってんだ。大学に入って、会社に入って……」
「何で会社に入らないといけないの?何で働かないといけないの?」
「そりゃあ、食っていくためだろう」
「僕は1人で生きていくよ。1人なら、別にコンビニでも困らない。廃棄物持って帰れるし、飯には困らないと思う」
「そういう問題じゃない!」
「じゃあ、どういう問題なのさ?」
「そりゃ、お前、将来とか……」
「じゃあお父さんは将来のために働いているの?違うよね、さっき僕を食わせるためって言ってたよね」
「それは屁理屈だろう!」
「じゃあお父さんは、何のために働いているの?」
「それは……」
きっと、これから淘汰の時代になると思います。
真剣に生きているか、何となく生きているか。
生きる理由や目的があるか、生きる理由や目的が無いか。
ある奴は、今後どんどんプロフェッショナル化して、正社員として登用されると思う。
ない奴は、今後どんどんボーダレス化して、中国やインドなんかの低賃金野郎と同じ就労環境で働くことになると思う。
その時、初めて後悔するのだと思います。
生きるということは時間を燃焼している、ということを。
何も考えずに生きるということは、命の垂れ流しだということを。
大抵の学生が想定していない質問なのか、えーとか、あーうーと怯みみます。
そこで僕は「えーあーうーって、君は大平正芳か」と突っ込むのですが、そこで笑いも当然起きず。
だいたい返って来る答えの半分は「生きるため」「衣食住のため」という、何とも先が思いやられる言葉。
パナソニックをリストラされた50代のサラリーマンじゃないんだから、もう少し働くということに対して真剣に取り組めよなぁ、と心の中で思いながら、僕は笑顔で聞きます。
「じゃあ、なんで生きてんの?」
質問の意味が解らない学生は、ポカンとしていますが、この言葉は最大級の侮辱だなぁ、と最近は思い、なるべく言わないようにしています。
しかし、本質的に言えば生きたくても生きられない人間がいるのに、その一方で命を垂れ流している人がいる。
目的も無く生きるぐらいなら、臓器移植法が改正されたら、全ての臓器を提供するという意思を示して、臓器が傷付かないように、どうぞ死んでください、と思う。
生きるということは、本来、非常に辛く厳しいもんだと思うのです。
なぜなら生きるには目的があるし、理由があるなんて、そういう経済状況にあるから言える訳で、北朝鮮の人たちは、まず生きることに一生懸命だからです。
政府を批判すれば投獄される中国に、アメリカに勝手に政権転覆させられて再びカオスが到来したイラク。
そこに暮らす人々と比較して、どれほど不自由なく暮らせているか。
日本に生まれたという理由だけで、生きる目的や理由を見つけることが出来る。
もっと言えば、生き甲斐を探し出すことが出来る。
これは、本当にありがたいことなんです。
ただ、リーマンショック以降、素顔を見せた日本は、ある意味で「絶望国家」と化していますね。
派遣、請負の人たちは、解雇されてしまい、今後どのような人生プランを描けというのか。
介護か農業か漁業ぐらい……今まで日本が目を向けてこなかった分野ですね。
きっと、これから3年以内に、息子が父親に対してこんな風に言う風景が増えるのではないでしょうか。
「お父さんは、なぜ働いているの?」
「それはお前らを食わせるためじゃないか」
「だったら大学行くのは辞めて、コンビニで働くよ」
「えっ……なんで?」
「だって食うだけなら、コンビニで十分だし困らないもの」
「何を言ってんだ。大学に入って、会社に入って……」
「何で会社に入らないといけないの?何で働かないといけないの?」
「そりゃあ、食っていくためだろう」
「僕は1人で生きていくよ。1人なら、別にコンビニでも困らない。廃棄物持って帰れるし、飯には困らないと思う」
「そういう問題じゃない!」
「じゃあ、どういう問題なのさ?」
「そりゃ、お前、将来とか……」
「じゃあお父さんは将来のために働いているの?違うよね、さっき僕を食わせるためって言ってたよね」
「それは屁理屈だろう!」
「じゃあお父さんは、何のために働いているの?」
「それは……」
きっと、これから淘汰の時代になると思います。
真剣に生きているか、何となく生きているか。
生きる理由や目的があるか、生きる理由や目的が無いか。
ある奴は、今後どんどんプロフェッショナル化して、正社員として登用されると思う。
ない奴は、今後どんどんボーダレス化して、中国やインドなんかの低賃金野郎と同じ就労環境で働くことになると思う。
その時、初めて後悔するのだと思います。
生きるということは時間を燃焼している、ということを。
何も考えずに生きるということは、命の垂れ流しだということを。
プロフェッショナルって、何でしょう。
ちょっと調べてみますと、おおよそは以下の意味で使われているようです。
ある分野において、専門的知識や技術を有していること。
広範囲の人々によって行われる分野において、それを職業にしている人。アマチュアの対義語。
真っ先に思い浮かぶのが、アマチュアとしての対義語。
いわゆる高い専門性で飯を食っている人たちのことです。
プロ棋士とかプロ野球選手とか……。
でも、フィギュアスケートの浅田選手は、区分的にはアマらしいですし、アマチュアだからと言って専門性が低い、或いは技量が高くないとも言えません。
僕自身としての捉え方は、中村邦夫と同じで、誰しもが今日、プロフェッショナルになれると思っています。
誰もがプロフェッショナルになれる時代、すなわち誰もが高い専門性を発揮し、知識や技術で優位に立てる時代こそが今日であると考えます。
ただ、それだけだと「新しい革袋」だけでなり、実際の中身が伴っていないと意味が無いとも思います。
つまり新しいワインではなく、古いワインを入れても仕方が無いでしょう。
新しいワイン―それは、心構えだと思っています。
昨日、今日と刑事・平塚八兵衛の物語がドラマ化されていますが、ここに「新しいワイン」があるように思えました。
実際描かれているのは、平塚氏のプロフェッショナル度合い、いわゆる表面で見て取れる専門性であり、新しい革袋かもしれませんが、物語の最後で、3億円事件の時効9か月前に、平塚氏が辞任した背景がさらりと触れられています。
それは、3億円事件は、今までの捜査手法では手に負えない「新しい犯罪」であることに平塚氏が気付き、時効になる前に、新しい人間が捜査した方が良いだろうと、自らの職を賭して、新しい人材に捜査を依頼した―というものです。
つまり、平塚氏は警察を辞めた理由は、新しい捜査を行うためだった―。
これこそプロフェッショナルではないでしょうか。
このブログを読んでいる人には1回や2回、経験があると思いますが、年輩・先輩の人に心の中で「そのやり方は通用しないんだよ」と毒づいたことはありませんか?
しかし、お解りだとは思うのですが、そのやり方が通用していた時代があったのです。
時代が変わるにつれて、通用しなくなることがあります。
しかも、プロフェッショナルとして究めようとしている道が、時代遅れになることがあります。
その時に、はっきりと後輩に後を任せることが出来るか? が、新しいワインの心意気ではないでしょうか。
確かに、プロフェッショナルの道を極めることは重要です。
しかし平塚氏の場合、使命は「犯人を逮捕すること」であって「刑事の勘に基づいて捜査すること」ではない。
しかし平塚氏は新しい捜査手法を知らないがために、犯人を逮捕するために、職を辞した。
これが、新しいワインの心―プロフェッショナルの心だと思います。
皆さんには、出来ますか?
ちょっと調べてみますと、おおよそは以下の意味で使われているようです。
ある分野において、専門的知識や技術を有していること。
広範囲の人々によって行われる分野において、それを職業にしている人。アマチュアの対義語。
真っ先に思い浮かぶのが、アマチュアとしての対義語。
いわゆる高い専門性で飯を食っている人たちのことです。
プロ棋士とかプロ野球選手とか……。
でも、フィギュアスケートの浅田選手は、区分的にはアマらしいですし、アマチュアだからと言って専門性が低い、或いは技量が高くないとも言えません。
僕自身としての捉え方は、中村邦夫と同じで、誰しもが今日、プロフェッショナルになれると思っています。
誰もがプロフェッショナルになれる時代、すなわち誰もが高い専門性を発揮し、知識や技術で優位に立てる時代こそが今日であると考えます。
ただ、それだけだと「新しい革袋」だけでなり、実際の中身が伴っていないと意味が無いとも思います。
つまり新しいワインではなく、古いワインを入れても仕方が無いでしょう。
新しいワイン―それは、心構えだと思っています。
昨日、今日と刑事・平塚八兵衛の物語がドラマ化されていますが、ここに「新しいワイン」があるように思えました。
実際描かれているのは、平塚氏のプロフェッショナル度合い、いわゆる表面で見て取れる専門性であり、新しい革袋かもしれませんが、物語の最後で、3億円事件の時効9か月前に、平塚氏が辞任した背景がさらりと触れられています。
それは、3億円事件は、今までの捜査手法では手に負えない「新しい犯罪」であることに平塚氏が気付き、時効になる前に、新しい人間が捜査した方が良いだろうと、自らの職を賭して、新しい人材に捜査を依頼した―というものです。
つまり、平塚氏は警察を辞めた理由は、新しい捜査を行うためだった―。
これこそプロフェッショナルではないでしょうか。
このブログを読んでいる人には1回や2回、経験があると思いますが、年輩・先輩の人に心の中で「そのやり方は通用しないんだよ」と毒づいたことはありませんか?
しかし、お解りだとは思うのですが、そのやり方が通用していた時代があったのです。
時代が変わるにつれて、通用しなくなることがあります。
しかも、プロフェッショナルとして究めようとしている道が、時代遅れになることがあります。
その時に、はっきりと後輩に後を任せることが出来るか? が、新しいワインの心意気ではないでしょうか。
確かに、プロフェッショナルの道を極めることは重要です。
しかし平塚氏の場合、使命は「犯人を逮捕すること」であって「刑事の勘に基づいて捜査すること」ではない。
しかし平塚氏は新しい捜査手法を知らないがために、犯人を逮捕するために、職を辞した。
これが、新しいワインの心―プロフェッショナルの心だと思います。
皆さんには、出来ますか?
横浜ベイスターズがエラいことになっています。
今日の段階で借金20です。
どうやら、このままのペースで進めば、100敗しかねないとか。
横浜は大矢監督を休養させ、田代氏が代行して務めていますが、とりあえず横浜が弱いのは「監督の力量」だけでは無いことがはっきりしたようですね。
もし、ここで田代氏をさらに休養させるようなことになれば、二度と誰も、横浜の監督を務めることはないでしょう。
そう言う意味では、まず、大矢監督を休養させることで、事態の収拾をはかろうとした横浜の首脳陣に「ざまあみろ」と言ってみたいですね。
さて、ここで考えなければいけない点は、組織の勝利に対する執着と、人材育成についてです。
組織は勝たなければいけません。勝ち続けなければいけない訳です。
しかし、勝ち続けようと思えば思うほど、難しくなってしまいます。
なぜなら、勝つための選手構成は、年月によって変わってしまうからです。
勝利に拘ってしまうあまり、同じ選手ばかりで勝利を狙ってしまえば、新陳代謝が行われず、組織は必ず停滞してしまいます。
つまり、最強の組織とは、勝ち続けながら、勝つための選手を育成できる組織です。
今の横浜に、それが出来るでしょうか。
これから勝ち続けることは出来るのでしょうか。
現状の戦略で、勝利することは出来るのでしょうか。
はっきり言って、難しい。
投手陣が崩壊しているに等しく、01年の近鉄のように、それを補えるぐらいの打撃力があれば、まだ良いかも知れませんが、マシンガン打線はもう死にました。
であれば、勝つための選手育成はどうでしょうか。
横浜から有望な選手が、どれくらいあらわれているでしょうか?
もし、それら両方が出来ていない場合、誰に責任の所在があるのでしょうか。
誰が責任を果たせていないのでしょうか。
組織とは人で構成されます。
そして人は組織の中で、それぞれの役割を担い、その役割に課せられた責任を果たそうとします。
そこに、肩書きが付きます。
肩書とはその人の偉さを意味するのではなく、その人が担わなければいけない役割を意味するものです。
踊る大捜査線2で、青島が「リーダーが優秀なら組織も悪くない」と言い切った醍醐味は、ここにあります。
リーダーという役職に就く人間が、リーダーシップを発揮さえすれば、解決できる問題は五万とあります。
それが出来ない人間がリーダーになるから、組織は硬直するんです。
横浜の現状は、球団経営が出来ないTBSに、全ての本質があるのではないでしょうか。
一番良いのは、資生堂かサントリーに球団を買って貰うように頭を下げるか、球団経営の手腕がある人に来てもらうかのどちらかしか、もう生き残る術が無いと思います。
今日の段階で借金20です。
どうやら、このままのペースで進めば、100敗しかねないとか。
横浜は大矢監督を休養させ、田代氏が代行して務めていますが、とりあえず横浜が弱いのは「監督の力量」だけでは無いことがはっきりしたようですね。
もし、ここで田代氏をさらに休養させるようなことになれば、二度と誰も、横浜の監督を務めることはないでしょう。
そう言う意味では、まず、大矢監督を休養させることで、事態の収拾をはかろうとした横浜の首脳陣に「ざまあみろ」と言ってみたいですね。
さて、ここで考えなければいけない点は、組織の勝利に対する執着と、人材育成についてです。
組織は勝たなければいけません。勝ち続けなければいけない訳です。
しかし、勝ち続けようと思えば思うほど、難しくなってしまいます。
なぜなら、勝つための選手構成は、年月によって変わってしまうからです。
勝利に拘ってしまうあまり、同じ選手ばかりで勝利を狙ってしまえば、新陳代謝が行われず、組織は必ず停滞してしまいます。
つまり、最強の組織とは、勝ち続けながら、勝つための選手を育成できる組織です。
今の横浜に、それが出来るでしょうか。
これから勝ち続けることは出来るのでしょうか。
現状の戦略で、勝利することは出来るのでしょうか。
はっきり言って、難しい。
投手陣が崩壊しているに等しく、01年の近鉄のように、それを補えるぐらいの打撃力があれば、まだ良いかも知れませんが、マシンガン打線はもう死にました。
であれば、勝つための選手育成はどうでしょうか。
横浜から有望な選手が、どれくらいあらわれているでしょうか?
もし、それら両方が出来ていない場合、誰に責任の所在があるのでしょうか。
誰が責任を果たせていないのでしょうか。
組織とは人で構成されます。
そして人は組織の中で、それぞれの役割を担い、その役割に課せられた責任を果たそうとします。
そこに、肩書きが付きます。
肩書とはその人の偉さを意味するのではなく、その人が担わなければいけない役割を意味するものです。
踊る大捜査線2で、青島が「リーダーが優秀なら組織も悪くない」と言い切った醍醐味は、ここにあります。
リーダーという役職に就く人間が、リーダーシップを発揮さえすれば、解決できる問題は五万とあります。
それが出来ない人間がリーダーになるから、組織は硬直するんです。
横浜の現状は、球団経営が出来ないTBSに、全ての本質があるのではないでしょうか。
一番良いのは、資生堂かサントリーに球団を買って貰うように頭を下げるか、球団経営の手腕がある人に来てもらうかのどちらかしか、もう生き残る術が無いと思います。