僕自身、面接に訪れる学生に対して何度も聞くのが「なぜ、あなたは働くのですか?」という質問。
大抵の学生が想定していない質問なのか、えーとか、あーうーと怯みみます。
そこで僕は「えーあーうーって、君は大平正芳か」と突っ込むのですが、そこで笑いも当然起きず。
だいたい返って来る答えの半分は「生きるため」「衣食住のため」という、何とも先が思いやられる言葉。
パナソニックをリストラされた50代のサラリーマンじゃないんだから、もう少し働くということに対して真剣に取り組めよなぁ、と心の中で思いながら、僕は笑顔で聞きます。
「じゃあ、なんで生きてんの?」
質問の意味が解らない学生は、ポカンとしていますが、この言葉は最大級の侮辱だなぁ、と最近は思い、なるべく言わないようにしています。
しかし、本質的に言えば生きたくても生きられない人間がいるのに、その一方で命を垂れ流している人がいる。
目的も無く生きるぐらいなら、臓器移植法が改正されたら、全ての臓器を提供するという意思を示して、臓器が傷付かないように、どうぞ死んでください、と思う。
生きるということは、本来、非常に辛く厳しいもんだと思うのです。
なぜなら生きるには目的があるし、理由があるなんて、そういう経済状況にあるから言える訳で、北朝鮮の人たちは、まず生きることに一生懸命だからです。
政府を批判すれば投獄される中国に、アメリカに勝手に政権転覆させられて再びカオスが到来したイラク。
そこに暮らす人々と比較して、どれほど不自由なく暮らせているか。
日本に生まれたという理由だけで、生きる目的や理由を見つけることが出来る。
もっと言えば、生き甲斐を探し出すことが出来る。
これは、本当にありがたいことなんです。
ただ、リーマンショック以降、素顔を見せた日本は、ある意味で「絶望国家」と化していますね。
派遣、請負の人たちは、解雇されてしまい、今後どのような人生プランを描けというのか。
介護か農業か漁業ぐらい……今まで日本が目を向けてこなかった分野ですね。
きっと、これから3年以内に、息子が父親に対してこんな風に言う風景が増えるのではないでしょうか。
「お父さんは、なぜ働いているの?」
「それはお前らを食わせるためじゃないか」
「だったら大学行くのは辞めて、コンビニで働くよ」
「えっ……なんで?」
「だって食うだけなら、コンビニで十分だし困らないもの」
「何を言ってんだ。大学に入って、会社に入って……」
「何で会社に入らないといけないの?何で働かないといけないの?」
「そりゃあ、食っていくためだろう」
「僕は1人で生きていくよ。1人なら、別にコンビニでも困らない。廃棄物持って帰れるし、飯には困らないと思う」
「そういう問題じゃない!」
「じゃあ、どういう問題なのさ?」
「そりゃ、お前、将来とか……」
「じゃあお父さんは将来のために働いているの?違うよね、さっき僕を食わせるためって言ってたよね」
「それは屁理屈だろう!」
「じゃあお父さんは、何のために働いているの?」
「それは……」
きっと、これから淘汰の時代になると思います。
真剣に生きているか、何となく生きているか。
生きる理由や目的があるか、生きる理由や目的が無いか。
ある奴は、今後どんどんプロフェッショナル化して、正社員として登用されると思う。
ない奴は、今後どんどんボーダレス化して、中国やインドなんかの低賃金野郎と同じ就労環境で働くことになると思う。
その時、初めて後悔するのだと思います。
生きるということは時間を燃焼している、ということを。
何も考えずに生きるということは、命の垂れ流しだということを。