改めて、考えます。
組織って何でしょう。
これって、踊る大捜査線2の青島のラストの一言に集約されそうですよね。
「リーダーが優秀なら、組織も悪くない」
じゃあ、リーダーの優秀さって何で決まるんでしょうか。
最近の僕の悩みはそこなんです。
やっぱり、最近の答えは「成果を出すプロセスを把握し、結果を出すこと」でしょうか。
ある成果を出すために、Aを目指す、それがダメならB、それがダメならC、他にD。
成果を出す為には何をするべきかを把握していることが、リーダーの優秀さかな、と思います。
そして、最終的に成果を出すこと。
それがリーダーの優秀さかなぁ、と思います。
ただ、それだけだと、引き出しの多いリーダーが優秀ということになってしまう。
プロセスを1個しか知っていないけど、成果を出せるリーダー。
プロセスを複数知っているけど、成果を出せないリーダー。
だったら、成果が出せるリーダーですよね。
恐らくその次にプロセスだと思うんです。
恐らく何時までも、同じプロセスは通用しない。
そこで、今までは違う、新しいプロセスを発見出来るか。
そう言う意味で、変化出来るというのも重要な要素かな。
成果が出せる。
プロセスを知っている。
変化が出来る。
results.
process.
change.
今日は会社に居て、1日辛かったです。
久しぶりに鬱状態になったのかと思いました。
何だか、全員が全員、僕のことを馬鹿にしているように思えたんですね。
社員の人とすれ違う時も、社員の口元がニヤけているように思えて、それがまるで僕を馬鹿にしているように思えて、それで余計に自己嫌悪に陥ってしまう。
僕自身、精神的に強い方ではありません。
高校生の時に、イジメが原因で不登校になった時もそうなのですが、精神的に弱く、直ぐにいじけたり、クヨクヨしたり……頭の中で「いつまでも逃げたって仕方がない。ここは立ち向かうしかないんだ」という俺と、「立ち向かうことが辛いなら、逃げたって良いじゃないか。勝てば良いんだ、逃げることは負けることじゃない」という僕がいます。
結局、僕自身、まだ若く、一生懸命頑張っている時に、良くやったなと言われなかったら辛いんですよね。
凄くクールに見えて、ドライに見えて、それでいて依存心が強い。
周囲の人に対して、それを言うと、驚かれるだろうなぁ……。
こんなに辛いのは、たぶん、夢を持てていないからなんでしょうね。
仕事をしていて、満足感が無い。
飯を食うために仕事をするだけなら、コンビニのアルバイトでも良い。
けど、生きている以上、存在意義が僕には欲しい。
僕は結構、運命論者で、人間が生きているのは、何かをしなければいけないからだと、つまり、何かを為すために誰かに生かされている―そう思っています。
だからこそ、今の、無味乾燥で、人間の摩擦音が社内に木霊する雰囲気の中で、夢を持てていない自分が、仕事をすることが本当に辛い。
僕は夢を食いたい。
夢を食って、成長したい。
でないと、面白みが無い。
生きている意味が無い。
本当、どうしよ。
久しぶりに鬱状態になったのかと思いました。
何だか、全員が全員、僕のことを馬鹿にしているように思えたんですね。
社員の人とすれ違う時も、社員の口元がニヤけているように思えて、それがまるで僕を馬鹿にしているように思えて、それで余計に自己嫌悪に陥ってしまう。
僕自身、精神的に強い方ではありません。
高校生の時に、イジメが原因で不登校になった時もそうなのですが、精神的に弱く、直ぐにいじけたり、クヨクヨしたり……頭の中で「いつまでも逃げたって仕方がない。ここは立ち向かうしかないんだ」という俺と、「立ち向かうことが辛いなら、逃げたって良いじゃないか。勝てば良いんだ、逃げることは負けることじゃない」という僕がいます。
結局、僕自身、まだ若く、一生懸命頑張っている時に、良くやったなと言われなかったら辛いんですよね。
凄くクールに見えて、ドライに見えて、それでいて依存心が強い。
周囲の人に対して、それを言うと、驚かれるだろうなぁ……。
こんなに辛いのは、たぶん、夢を持てていないからなんでしょうね。
仕事をしていて、満足感が無い。
飯を食うために仕事をするだけなら、コンビニのアルバイトでも良い。
けど、生きている以上、存在意義が僕には欲しい。
僕は結構、運命論者で、人間が生きているのは、何かをしなければいけないからだと、つまり、何かを為すために誰かに生かされている―そう思っています。
だからこそ、今の、無味乾燥で、人間の摩擦音が社内に木霊する雰囲気の中で、夢を持てていない自分が、仕事をすることが本当に辛い。
僕は夢を食いたい。
夢を食って、成長したい。
でないと、面白みが無い。
生きている意味が無い。
本当、どうしよ。
この1週間、ずっと悩んでいることがあります。
それは自分の出処進退について。
チーフ職という訳の解らない役職に就く筈が、土壇場になってオジャン。
しかも、ずっとチーフ職になるなら金くれ金くれと言い続けていたら、周囲から「あいつは何だ!」と言われる始末。
もし僕の仕事ぶりがお金を払うに値しないと言うのであれば納得するのですが、みんなが我慢しているからお前も我慢しろという下らない理由―。
鷲津さんの姿が思い浮かびます。
「日本は資本主義社会でしょ?お金を稼ぐことがいけないことでしょうか。いけないことでしょうか!」
そう啖呵切りたいです。
冗談じゃない、そう言いたい。
僕は、役職が上がるなら、その分給料を上げてくれ、と言っているに過ぎない。
役職が上がる、仕事内容が変わらない、だから給料は上がらない。それであれば、役職を上げる意味は無い。
役職が上がる、仕事内容も変わる、けど給料は上がらない。それであれば、辞退せざるを得ない。
役職というのは仕事内容に応じて分けられるべきだし、その仕事をするから、その役職になる。
それに見合った給料というのもある筈だ。
その理屈が解らないというのは、本当に参った。
ドラマ版、映画版「ハゲタカ」が万人に受ける理由がよく解ります。
この中で描かれている人間の不条理、強欲は全て、普遍的で、一般的な話なんですね。
だから、自己投影し易い。
旅館西之屋の、決して経営の上手くない西野昭吾。
彼に対して息子の治が「言ってやんなきゃ解んねんだよ!」と言う瞬間は、誰もが脳裏に、我儘で責任を取ろうとしない上司や役員の姿が思い浮かんだはずです。
サンデートイズの、強欲社長である大河内瑞恵。
彼女に対して鷲津が「会社は、あなたのおもちゃじゃない」と言う瞬間は、誰もが脳裏に、会社を自分の私物化にして、従業員を好き勝手に扱う役員の姿が思い浮かんだはずです。
大空電機の、伝説的名経営者である大木昇三郎。
彼が株主総会に送った手紙の一節に「大空には人と人とを繋ぐ、モノづくりという魂があります。会社を動かすのは、この魂です」という下りがありますが、この瞬間に、誰もが自分自身は何のために、今の会社で働いているのか、今の会社は何を目的として存在しているのかに思いが及んだはずです。
大空電機の株主総会で「誇りで飯が食えますか、誇りで業績が上がりますか、商品が売れますか」と鷲津が言う瞬間は、誰もが脳裏に、過去のシガラミに囚われ、新しいことに挑戦出来ないまま、組織そのものが衰退していく会社の姿が思い浮かんだはずです。
そしてアカマ自動車で社長の古谷に対して「会社も生き物なんです。夢や希望を持たないと生きていけないんです。……こういう時代だからこそ、夢や希望を語るリーダーが必要なんです!」と芝野が言う瞬間は、誰もが脳裏に、古谷社長と同じく上辺だけの経営理念を掲げ、「夢や希望なんかで飯が食える時代か」と小馬鹿にした組織の人たちが思い浮かんだはずです。
そう言う意味で、誰もが芝野や鷲津になれるはずです。
そして組織を再生出来るはずです。
今の僕の心の拠り所は、この1点に尽きます。
絶対に腐ってはいけない。
自分で限界を作ってはいけない。
やるんだ。
夢や希望を忘れてはいけないんだ。
自分なりの決着を、絶対に付けないといけない。
生きている理由は、そこにしかない。
だから頑張る。
重く考えちゃいけない。
けど、軽く考えてもいけない。
真摯に受け止めて、1つ1つやっていく。
それは自分の出処進退について。
チーフ職という訳の解らない役職に就く筈が、土壇場になってオジャン。
しかも、ずっとチーフ職になるなら金くれ金くれと言い続けていたら、周囲から「あいつは何だ!」と言われる始末。
もし僕の仕事ぶりがお金を払うに値しないと言うのであれば納得するのですが、みんなが我慢しているからお前も我慢しろという下らない理由―。
鷲津さんの姿が思い浮かびます。
「日本は資本主義社会でしょ?お金を稼ぐことがいけないことでしょうか。いけないことでしょうか!」
そう啖呵切りたいです。
冗談じゃない、そう言いたい。
僕は、役職が上がるなら、その分給料を上げてくれ、と言っているに過ぎない。
役職が上がる、仕事内容が変わらない、だから給料は上がらない。それであれば、役職を上げる意味は無い。
役職が上がる、仕事内容も変わる、けど給料は上がらない。それであれば、辞退せざるを得ない。
役職というのは仕事内容に応じて分けられるべきだし、その仕事をするから、その役職になる。
それに見合った給料というのもある筈だ。
その理屈が解らないというのは、本当に参った。
ドラマ版、映画版「ハゲタカ」が万人に受ける理由がよく解ります。
この中で描かれている人間の不条理、強欲は全て、普遍的で、一般的な話なんですね。
だから、自己投影し易い。
旅館西之屋の、決して経営の上手くない西野昭吾。
彼に対して息子の治が「言ってやんなきゃ解んねんだよ!」と言う瞬間は、誰もが脳裏に、我儘で責任を取ろうとしない上司や役員の姿が思い浮かんだはずです。
サンデートイズの、強欲社長である大河内瑞恵。
彼女に対して鷲津が「会社は、あなたのおもちゃじゃない」と言う瞬間は、誰もが脳裏に、会社を自分の私物化にして、従業員を好き勝手に扱う役員の姿が思い浮かんだはずです。
大空電機の、伝説的名経営者である大木昇三郎。
彼が株主総会に送った手紙の一節に「大空には人と人とを繋ぐ、モノづくりという魂があります。会社を動かすのは、この魂です」という下りがありますが、この瞬間に、誰もが自分自身は何のために、今の会社で働いているのか、今の会社は何を目的として存在しているのかに思いが及んだはずです。
大空電機の株主総会で「誇りで飯が食えますか、誇りで業績が上がりますか、商品が売れますか」と鷲津が言う瞬間は、誰もが脳裏に、過去のシガラミに囚われ、新しいことに挑戦出来ないまま、組織そのものが衰退していく会社の姿が思い浮かんだはずです。
そしてアカマ自動車で社長の古谷に対して「会社も生き物なんです。夢や希望を持たないと生きていけないんです。……こういう時代だからこそ、夢や希望を語るリーダーが必要なんです!」と芝野が言う瞬間は、誰もが脳裏に、古谷社長と同じく上辺だけの経営理念を掲げ、「夢や希望なんかで飯が食える時代か」と小馬鹿にした組織の人たちが思い浮かんだはずです。
そう言う意味で、誰もが芝野や鷲津になれるはずです。
そして組織を再生出来るはずです。
今の僕の心の拠り所は、この1点に尽きます。
絶対に腐ってはいけない。
自分で限界を作ってはいけない。
やるんだ。
夢や希望を忘れてはいけないんだ。
自分なりの決着を、絶対に付けないといけない。
生きている理由は、そこにしかない。
だから頑張る。
重く考えちゃいけない。
けど、軽く考えてもいけない。
真摯に受け止めて、1つ1つやっていく。
映画「ハゲタカ」を3回見ました。
何回見ても、芝野の「こんな時代だからこそ、夢と希望を語るリーダーが必要なんです」というセリフは胸に刺さりますね。
ドラマ版から見ている人は解ると思うのですが、映画版の劉一華やアカマ自動車の古屋社長は、言わばドラマ版の西野であり大空電機の社長でありサンデートイズの社長です。
つまり、演者が変わっているだけで、基本的な役割というのは不変に近いと思っています。
しかしこれは、ドラマ版に対するオマージュと言うよりも、時代が変わっても、大友監督が言うような「ジェネレーションギャップは起き続ける」ことの証明だと考えるべきではないでしょうか。
映画のオープニングは、劉があたかも中国の赤いハゲタカ=新しく登場した鷲津のように描かれており、演出もドラマ版のものと極めて近く撮影されています。
しかし時間が経つにつれ、劉は鷲津なのではなく、鷲津を「コピーしている」に過ぎないことが発覚します。つまり、ドバイで鷲津の女性パートナーが言ったような「模倣品」ということですね。
どれだけ優れたコピーでも、本物には勝てない。
本物に勝てないコピーは、コピーで終わる。
実際、劉は鷲津が描いた壮大な戦争の前に呆気なく戦死してしまいます。
それはまるで、ハイパークリエイションの西野が、権力の階段から呆気なく蹴落とされたように。
しかし、最後の最後で、劉の、アカマ自動車に対する想いが本物であることが明らかになります。
鷲津の「劉は、あなたですよ」という言葉に代表されるように。
いったい、劉は何者なのか。
恐らく劉は、映画を見ている「皆さん」なのではないでしょうか。
各世代の代弁者―それが、この映画で描かれた劉一華の役割なのかもしれません。
つまり、あの部長はやり方が古いんだ、あの課長は昔の成功体験を引きずっている、あの係長は昔のような苦労が出来ない、あの一般職は努力というものをしない―各世代が異なる世代に対して抱く不平や不満を、人物に応じて使い分け、見事に炙り出しているのが劉一華なのかもしれません。
その一方で、古谷社長は旧世代の雇われサラリーマンが見事に演じられており、非常に興味深い。
例えばブルーウォールパートナーズのTOB価格が2200円になり、株主が一気に劉に靡こうとしている状況において、古谷社長は「株主は金のことしか考えていない、企業を長期的な視点で育てようなんて思っていない」と怒り狂います。
しかし、それに対して「旧世代を擁護しつつも、変革しなければいけないことを理解している企業再建屋」である芝野は「企業を経営するのは経営者の役目です!」と一括する。
つまり会社を育てるのは経営者の役目であり、株主はそれを支援するために株を購入している。しかし現状は、株主は劉に靡いており、その理由は経営者が本来の役割である会社の育成を放棄しているからではないか―芝野の頭の中にはその疑問がずっとあったのでしょう。
また、ラストで飯島頭取に引導を渡される古谷は、鷲津にその場で「じゃあお前だったらどうするんだ!」とキレてしまいます。そこで鷲津は「私は……ファンドマネージャーでしかない」と言うのですが、その反応にさらに古谷はブチ切れて「汚ねぇ」「マスコミといっしょじゃねぇか」と、鷲津を口汚く罵ります。
結局、ここでも経営者としての役割が、古谷には見えていない訳です。
各世代とのバトルが描かれる劉と、旧世代の代表のような存在である古谷。
さらに、夢も希望も無く「誰か」ですら無い守本。
閉鎖的な市場から―しかも自分が開拓してきたはずの市場から締め出された鷲津。
そして、企業再生家として、従業員に対して夢と希望を与えたい芝野。
この映画では、それぞれが、それぞれに役割を持って、成長し、或いは破綻している。
しかし破綻と言っても、劉のように土壇場まで運命に抗い、貪欲に成長しようとする者もいる(そういう意味で、劉は自身が言ったような、運命に抗わない賢いものでは無いのかもしれない)。
改めて思うと、古谷監督はジェネレーションギャップを描きたかったと言ったけど、正確にはジェネレーションの違いが各人が担うべき役割に対する認識のギャップへと消化し「それが出来ないなら降りろ」「若造が偉そうなことを言うな」という齟齬が生じる過程を描いた映画なのかもしれません。
その点で言うと、やはり「責任」という言葉が浮かびます。
鷲津や芝野が果たさなければいけない責任。
古谷が果たさなければいけない責任。
では、国の行く末の責任は誰が取るのでしょうか。
政治家?
官僚?
いや、国民なのではないでしょうか。
日本という国に住んでいる以上、果たさなければいけない義務は納税だけではない筈です。
継承しなければいけない技術。
伝え続けなければいけない文化。
こんな国に誰がした。
その落とし前を、皆さんはもう付けていますか?
何回見ても、芝野の「こんな時代だからこそ、夢と希望を語るリーダーが必要なんです」というセリフは胸に刺さりますね。
ドラマ版から見ている人は解ると思うのですが、映画版の劉一華やアカマ自動車の古屋社長は、言わばドラマ版の西野であり大空電機の社長でありサンデートイズの社長です。
つまり、演者が変わっているだけで、基本的な役割というのは不変に近いと思っています。
しかしこれは、ドラマ版に対するオマージュと言うよりも、時代が変わっても、大友監督が言うような「ジェネレーションギャップは起き続ける」ことの証明だと考えるべきではないでしょうか。
映画のオープニングは、劉があたかも中国の赤いハゲタカ=新しく登場した鷲津のように描かれており、演出もドラマ版のものと極めて近く撮影されています。
しかし時間が経つにつれ、劉は鷲津なのではなく、鷲津を「コピーしている」に過ぎないことが発覚します。つまり、ドバイで鷲津の女性パートナーが言ったような「模倣品」ということですね。
どれだけ優れたコピーでも、本物には勝てない。
本物に勝てないコピーは、コピーで終わる。
実際、劉は鷲津が描いた壮大な戦争の前に呆気なく戦死してしまいます。
それはまるで、ハイパークリエイションの西野が、権力の階段から呆気なく蹴落とされたように。
しかし、最後の最後で、劉の、アカマ自動車に対する想いが本物であることが明らかになります。
鷲津の「劉は、あなたですよ」という言葉に代表されるように。
いったい、劉は何者なのか。
恐らく劉は、映画を見ている「皆さん」なのではないでしょうか。
各世代の代弁者―それが、この映画で描かれた劉一華の役割なのかもしれません。
つまり、あの部長はやり方が古いんだ、あの課長は昔の成功体験を引きずっている、あの係長は昔のような苦労が出来ない、あの一般職は努力というものをしない―各世代が異なる世代に対して抱く不平や不満を、人物に応じて使い分け、見事に炙り出しているのが劉一華なのかもしれません。
その一方で、古谷社長は旧世代の雇われサラリーマンが見事に演じられており、非常に興味深い。
例えばブルーウォールパートナーズのTOB価格が2200円になり、株主が一気に劉に靡こうとしている状況において、古谷社長は「株主は金のことしか考えていない、企業を長期的な視点で育てようなんて思っていない」と怒り狂います。
しかし、それに対して「旧世代を擁護しつつも、変革しなければいけないことを理解している企業再建屋」である芝野は「企業を経営するのは経営者の役目です!」と一括する。
つまり会社を育てるのは経営者の役目であり、株主はそれを支援するために株を購入している。しかし現状は、株主は劉に靡いており、その理由は経営者が本来の役割である会社の育成を放棄しているからではないか―芝野の頭の中にはその疑問がずっとあったのでしょう。
また、ラストで飯島頭取に引導を渡される古谷は、鷲津にその場で「じゃあお前だったらどうするんだ!」とキレてしまいます。そこで鷲津は「私は……ファンドマネージャーでしかない」と言うのですが、その反応にさらに古谷はブチ切れて「汚ねぇ」「マスコミといっしょじゃねぇか」と、鷲津を口汚く罵ります。
結局、ここでも経営者としての役割が、古谷には見えていない訳です。
各世代とのバトルが描かれる劉と、旧世代の代表のような存在である古谷。
さらに、夢も希望も無く「誰か」ですら無い守本。
閉鎖的な市場から―しかも自分が開拓してきたはずの市場から締め出された鷲津。
そして、企業再生家として、従業員に対して夢と希望を与えたい芝野。
この映画では、それぞれが、それぞれに役割を持って、成長し、或いは破綻している。
しかし破綻と言っても、劉のように土壇場まで運命に抗い、貪欲に成長しようとする者もいる(そういう意味で、劉は自身が言ったような、運命に抗わない賢いものでは無いのかもしれない)。
改めて思うと、古谷監督はジェネレーションギャップを描きたかったと言ったけど、正確にはジェネレーションの違いが各人が担うべき役割に対する認識のギャップへと消化し「それが出来ないなら降りろ」「若造が偉そうなことを言うな」という齟齬が生じる過程を描いた映画なのかもしれません。
その点で言うと、やはり「責任」という言葉が浮かびます。
鷲津や芝野が果たさなければいけない責任。
古谷が果たさなければいけない責任。
では、国の行く末の責任は誰が取るのでしょうか。
政治家?
官僚?
いや、国民なのではないでしょうか。
日本という国に住んでいる以上、果たさなければいけない義務は納税だけではない筈です。
継承しなければいけない技術。
伝え続けなければいけない文化。
こんな国に誰がした。
その落とし前を、皆さんはもう付けていますか?
入社した時の思いはどこにいったの?と言った経営者がいます。
金儲けのためだけなら、そんな社員はいらない、と言った経営者がいます。
今のうちの会社に、夢や希望は抱けません。
お金にしか魅力がありません。
それで僕は正直、腐りかけています。
そんな人間に鞭を打つかのように「夢や希望の無い社員はいらない」ですか。
夢や希望を無くしたのは僕らじゃない。
会社の方じゃないんですか?
金儲けのためだけなら、そんな社員はいらない、と言った経営者がいます。
今のうちの会社に、夢や希望は抱けません。
お金にしか魅力がありません。
それで僕は正直、腐りかけています。
そんな人間に鞭を打つかのように「夢や希望の無い社員はいらない」ですか。
夢や希望を無くしたのは僕らじゃない。
会社の方じゃないんですか?