映画「ハゲタカ」を3回見ました。
何回見ても、芝野の「こんな時代だからこそ、夢と希望を語るリーダーが必要なんです」というセリフは胸に刺さりますね。
ドラマ版から見ている人は解ると思うのですが、映画版の劉一華やアカマ自動車の古屋社長は、言わばドラマ版の西野であり大空電機の社長でありサンデートイズの社長です。
つまり、演者が変わっているだけで、基本的な役割というのは不変に近いと思っています。
しかしこれは、ドラマ版に対するオマージュと言うよりも、時代が変わっても、大友監督が言うような「ジェネレーションギャップは起き続ける」ことの証明だと考えるべきではないでしょうか。
映画のオープニングは、劉があたかも中国の赤いハゲタカ=新しく登場した鷲津のように描かれており、演出もドラマ版のものと極めて近く撮影されています。
しかし時間が経つにつれ、劉は鷲津なのではなく、鷲津を「コピーしている」に過ぎないことが発覚します。つまり、ドバイで鷲津の女性パートナーが言ったような「模倣品」ということですね。
どれだけ優れたコピーでも、本物には勝てない。
本物に勝てないコピーは、コピーで終わる。
実際、劉は鷲津が描いた壮大な戦争の前に呆気なく戦死してしまいます。
それはまるで、ハイパークリエイションの西野が、権力の階段から呆気なく蹴落とされたように。
しかし、最後の最後で、劉の、アカマ自動車に対する想いが本物であることが明らかになります。
鷲津の「劉は、あなたですよ」という言葉に代表されるように。
いったい、劉は何者なのか。
恐らく劉は、映画を見ている「皆さん」なのではないでしょうか。
各世代の代弁者―それが、この映画で描かれた劉一華の役割なのかもしれません。
つまり、あの部長はやり方が古いんだ、あの課長は昔の成功体験を引きずっている、あの係長は昔のような苦労が出来ない、あの一般職は努力というものをしない―各世代が異なる世代に対して抱く不平や不満を、人物に応じて使い分け、見事に炙り出しているのが劉一華なのかもしれません。
その一方で、古谷社長は旧世代の雇われサラリーマンが見事に演じられており、非常に興味深い。
例えばブルーウォールパートナーズのTOB価格が2200円になり、株主が一気に劉に靡こうとしている状況において、古谷社長は「株主は金のことしか考えていない、企業を長期的な視点で育てようなんて思っていない」と怒り狂います。
しかし、それに対して「旧世代を擁護しつつも、変革しなければいけないことを理解している企業再建屋」である芝野は「企業を経営するのは経営者の役目です!」と一括する。
つまり会社を育てるのは経営者の役目であり、株主はそれを支援するために株を購入している。しかし現状は、株主は劉に靡いており、その理由は経営者が本来の役割である会社の育成を放棄しているからではないか―芝野の頭の中にはその疑問がずっとあったのでしょう。
また、ラストで飯島頭取に引導を渡される古谷は、鷲津にその場で「じゃあお前だったらどうするんだ!」とキレてしまいます。そこで鷲津は「私は……ファンドマネージャーでしかない」と言うのですが、その反応にさらに古谷はブチ切れて「汚ねぇ」「マスコミといっしょじゃねぇか」と、鷲津を口汚く罵ります。
結局、ここでも経営者としての役割が、古谷には見えていない訳です。
各世代とのバトルが描かれる劉と、旧世代の代表のような存在である古谷。
さらに、夢も希望も無く「誰か」ですら無い守本。
閉鎖的な市場から―しかも自分が開拓してきたはずの市場から締め出された鷲津。
そして、企業再生家として、従業員に対して夢と希望を与えたい芝野。
この映画では、それぞれが、それぞれに役割を持って、成長し、或いは破綻している。
しかし破綻と言っても、劉のように土壇場まで運命に抗い、貪欲に成長しようとする者もいる(そういう意味で、劉は自身が言ったような、運命に抗わない賢いものでは無いのかもしれない)。
改めて思うと、古谷監督はジェネレーションギャップを描きたかったと言ったけど、正確にはジェネレーションの違いが各人が担うべき役割に対する認識のギャップへと消化し「それが出来ないなら降りろ」「若造が偉そうなことを言うな」という齟齬が生じる過程を描いた映画なのかもしれません。
その点で言うと、やはり「責任」という言葉が浮かびます。
鷲津や芝野が果たさなければいけない責任。
古谷が果たさなければいけない責任。
では、国の行く末の責任は誰が取るのでしょうか。
政治家?
官僚?
いや、国民なのではないでしょうか。
日本という国に住んでいる以上、果たさなければいけない義務は納税だけではない筈です。
継承しなければいけない技術。
伝え続けなければいけない文化。
こんな国に誰がした。
その落とし前を、皆さんはもう付けていますか?