基本的にマスメディアというのは、反自民党ではなく、反政権与党である。
つまり、反権力思想であり、そこには60年70年安保思想があると僕は見ている。
その観点から見てみると、今ほど政権がバッシングを浴びるのは、マスコミが「今回は森政権時代よりも、政権交代の可能性がある」と見ているからだろう。
思い起こせば、森政権での総選挙は、本当に異常だった。
あの時、マスコミは「森自民党には投票するな」と言わんばかりの報道に溢れていた。
それでも、自公保で過半数の議席を獲得した。
それを思い起こせば、小沢氏の「自民党はしぶとい」の指摘は、間違いなく当たっている。
今回の都議選においても、自民党の敗戦は想像していたよりは「議席を確保していたのでは」と思っている。
共産党と自民党が減って、民主党が躍進している。
公明党は現状維持。
中選挙区では自民はそこそこだが、小選挙区では1勝6敗(5敗でしたっけ?)。
東京選出の与謝野さんが危機感を抱いたのも、解らなくはない。
しかも今回は、選挙の大義が民主党にある。
解り易いキャッチフレーズがある。
「政権交代するべきか、否か」
このフレーズは胸に刺さる。
つまり現状のままで良いなら自民党に投票して下さい、しかし、変えたいなら民主党に投票して下さい。
そう国民に問えば良いのである。
しかし、ここであえて断言しておきます。
自公で過半数は取れないでしょうが、民主党は間違いなく第1党にはなれても、過半数は取れないと思う。
なぜなら民主党は「政権交代するべきか、否か」と問えない、いや問う戦略が取れないからです。
この手法は小泉氏が取った戦略であり、国民に選択肢が与えられているように見せかけて、カレー味のうんこ食うか、うんこ味のカレー食うか、お前らどっちか選べ、という、選択が2つに見せかけて1つしか無い戦略なのだが、これが民主党は絶対出来ない。
だって、子供だもの。
言い方悪いですがね。
僕の予想では、480議席中。
民主党220議席。
自民党180議席。
公明党30議席。
国民新党5議席。
共産党5議席。
社民党3議席。
その他37議席。
その他の中でも、平沼グループが5議席、渡辺新党が5議席程度じゃなかろうかと。
つまり民主党は、足りない20議席を、国民新党、社民党を足しても10議席不足する計算になり、渡辺新党、平沼グループを足してもギリギリ足りるような、何とも危うい状態での鳩山政権が発足するのではないかと今のところ考えています。
この事態で、誰が一番得をするか?
自民党を離党するのは、はっきり言って得策じゃないと思うんです。
一番得をするのは、自民党に最後まで残った奴だと思います。
つまり我慢強く、忍耐強い奴。
まず、麻生氏が選挙の責任を取って辞任。
そこで中川(売国奴)……じゃない(秀)らへんが、小池百合子を担ぐ。
一方で、思い切って若手を担げ!という声が出て、石原(子)か、後藤田かが出てくる。
ニュー自民党!とか言っている間に、恐らく平沼グループ辺りが自民党に復党、一気に総裁に……ということで、小池vs平沼の戦いになるのではなかろうか。
一方で、民主党は自民党の議員を複数引っこ抜いて安定政権を目指せば良いのに、それも出来ず、結局は政権交代という同床異夢状態の政権の中で、ダッチロール状態に陥る。
つまり、何が言いたいかというと、小泉改革でやっぱり何も変わらなかった日本、変える為には何が必要か、ということ。
このブログを読んでいる1人1人が、選挙に行くことですよ。
生きる。
たった3文字の言葉なのですが、色々と複雑な意味を持ち合わせているものです。
僕自身が主体的になって「生きる」だけでなく、僕自身が『物語』として「生きる」こともあるかもしれません。
つまり、生きるとは、僕自身の主体性から成り立つ「生命」と、僕以外の主体性から成り立つ「物語」の2つの意味があるのではないか?と考えています。
先日、お亡くなりになられた三沢さんも、その生き様は「物語」となり、プロレスファンの心に「生き続けて」います。
だとしたら、三沢さんはまだ「死んでいない」のでしょう。
僕らが三沢さんを「忘れた時に、初めて三沢さんは死んだことになる」のだと思います。
結局、人間というのは、死ぬということは「生命を亡くすこと」であり、そして「物語を無くすこと」なのでしょう。
だからこそ物語は語り継がれる。
だとしたら、僕らは何をこんなに生き急いでいるのでしょうね。
こんなに生き急いだとしても、何も残らないのだとしたら、それは本当に生きたことになるのでしょうか。
人生は短い。
思っている以上に短く、あっという間です。
だからこそ、どんな物語を自らの手で生み出すか考えないといけないのではないでしょうか。
家族と、仲間と、社員と、地域と、国民と。
金、土地、名誉。
全て死んだら、その人の手元には残りません。
それでも、周囲は生きないといけない。
家族も、仲間も、社員も、地域も、人も、生き続けなければならない。
2500年以上もの歴史を持つ日本と、80年もの人生を生きる人間を比較しても、何と短いことか。
この春夏秋冬の季節を味わえるのが、あと80回しかない。
何と短いことか。
その短い人生を懸命に生き抜くことが、何と難しいことか。
だからこそ、人間は逞しく生きようとする。
胸を張り、顎を引き、正々堂々、威風堂々、人生を謳歌する。
生きている 気持ち噛み締め 前を向き 歩んだ生き様 よき物語
たった3文字の言葉なのですが、色々と複雑な意味を持ち合わせているものです。
僕自身が主体的になって「生きる」だけでなく、僕自身が『物語』として「生きる」こともあるかもしれません。
つまり、生きるとは、僕自身の主体性から成り立つ「生命」と、僕以外の主体性から成り立つ「物語」の2つの意味があるのではないか?と考えています。
先日、お亡くなりになられた三沢さんも、その生き様は「物語」となり、プロレスファンの心に「生き続けて」います。
だとしたら、三沢さんはまだ「死んでいない」のでしょう。
僕らが三沢さんを「忘れた時に、初めて三沢さんは死んだことになる」のだと思います。
結局、人間というのは、死ぬということは「生命を亡くすこと」であり、そして「物語を無くすこと」なのでしょう。
だからこそ物語は語り継がれる。
だとしたら、僕らは何をこんなに生き急いでいるのでしょうね。
こんなに生き急いだとしても、何も残らないのだとしたら、それは本当に生きたことになるのでしょうか。
人生は短い。
思っている以上に短く、あっという間です。
だからこそ、どんな物語を自らの手で生み出すか考えないといけないのではないでしょうか。
家族と、仲間と、社員と、地域と、国民と。
金、土地、名誉。
全て死んだら、その人の手元には残りません。
それでも、周囲は生きないといけない。
家族も、仲間も、社員も、地域も、人も、生き続けなければならない。
2500年以上もの歴史を持つ日本と、80年もの人生を生きる人間を比較しても、何と短いことか。
この春夏秋冬の季節を味わえるのが、あと80回しかない。
何と短いことか。
その短い人生を懸命に生き抜くことが、何と難しいことか。
だからこそ、人間は逞しく生きようとする。
胸を張り、顎を引き、正々堂々、威風堂々、人生を謳歌する。
生きている 気持ち噛み締め 前を向き 歩んだ生き様 よき物語
企業の価値って何で決まるんでしょうね。
ここで言う企業とは、上場していない会社も含めます。直ぐに「株主」だとか「時価総額」という答えが出そうですが、じゃあ「株主」によって価値が決まるなら、ハゲタカに登場した大河内家のような同族支配も「あり」になっちゃいますからね。
僕が思うことは、企業は株主、経営陣、社員、関係会社、顧客で成り立つ、という点です。
もしかしたらもう少し多いかも知れませんが。
この中に、社会があると思うのです。
つまり小林よしのり氏が戦争論で書いた「公」、パブリックがあると思うのです。
会社とは何か、と考えた時に、僕は「パブリックな存在です。それ以上でも、それ以下でも無いと思います」と今は答えると思います。
つまり、経営陣は株主のお金で会社を経営している(あくまで、経営と資本の分離という考え方に則った場合)。
株主はそのお金を元手に、社員とサービス・製品を開発、顧客・関係会社に提供している。
提供の代替として、顧客から売上を頂く。或いは関係会社に手間料を払う。
そんなもんかなぁ、と思う訳です。
この関係性が崩れないように発展させること、それが企業にとっての価値なんじゃないでしょうかね。
つまり、バリュー。
その企業の存在意義が、価値として問われるなら、上記のような関係を持っているか否か。
その点に尽きるというのが、最近の僕の考え方ですね。
結局、どれだけ利益を確保しても、上記に掲げた関係者、すなわちステークホルダーへの還元が無ければ、常に砂上の楼閣じゃないかと思うのです。
ただ、どうも最近の日本は、そういう関係性や伝統は「馴れ合い」と断定され、守るべき対象から壊すべき対象になっているので、価値というのは「国際的に見て」上がっているかもしれませんが、「長期的に見て」落ちているような気がします。
本当に世界で戦える企業というのは、世界で戦うための理由があると思うのですが、「日本」という視点、「アメリカ」という視点が欠落した企業が、国際性を謳歌するのは、少しばかげている気もします。
結局、世界的であるほど日本的なのだろうし、普遍的な価値を求めるほど、普遍的な価値が無いことに気付くという……まぁ、今日は取りとめが無くなってきたので、この辺で。
ここで言う企業とは、上場していない会社も含めます。直ぐに「株主」だとか「時価総額」という答えが出そうですが、じゃあ「株主」によって価値が決まるなら、ハゲタカに登場した大河内家のような同族支配も「あり」になっちゃいますからね。
僕が思うことは、企業は株主、経営陣、社員、関係会社、顧客で成り立つ、という点です。
もしかしたらもう少し多いかも知れませんが。
この中に、社会があると思うのです。
つまり小林よしのり氏が戦争論で書いた「公」、パブリックがあると思うのです。
会社とは何か、と考えた時に、僕は「パブリックな存在です。それ以上でも、それ以下でも無いと思います」と今は答えると思います。
つまり、経営陣は株主のお金で会社を経営している(あくまで、経営と資本の分離という考え方に則った場合)。
株主はそのお金を元手に、社員とサービス・製品を開発、顧客・関係会社に提供している。
提供の代替として、顧客から売上を頂く。或いは関係会社に手間料を払う。
そんなもんかなぁ、と思う訳です。
この関係性が崩れないように発展させること、それが企業にとっての価値なんじゃないでしょうかね。
つまり、バリュー。
その企業の存在意義が、価値として問われるなら、上記のような関係を持っているか否か。
その点に尽きるというのが、最近の僕の考え方ですね。
結局、どれだけ利益を確保しても、上記に掲げた関係者、すなわちステークホルダーへの還元が無ければ、常に砂上の楼閣じゃないかと思うのです。
ただ、どうも最近の日本は、そういう関係性や伝統は「馴れ合い」と断定され、守るべき対象から壊すべき対象になっているので、価値というのは「国際的に見て」上がっているかもしれませんが、「長期的に見て」落ちているような気がします。
本当に世界で戦える企業というのは、世界で戦うための理由があると思うのですが、「日本」という視点、「アメリカ」という視点が欠落した企業が、国際性を謳歌するのは、少しばかげている気もします。
結局、世界的であるほど日本的なのだろうし、普遍的な価値を求めるほど、普遍的な価値が無いことに気付くという……まぁ、今日は取りとめが無くなってきたので、この辺で。
今日、新入社員と話をしました。
なんで働くのか。
仕事とは何か。
ゆっくりと話しましたが、どうもいかんですね。
何のために働くのかと聞かれて、生きていくためという答えが返ってきました。
志が低いなぁ……と思います。
しかしよく考えれば、社会人1年目、大人になるための教育を受けていない「学生」が、いきなり何のために働くのかと聞かれて、自己実現のためですなんて言えないよな。
僕自身、生きていくためと言われた瞬間に、ちと待ていと突っ込みたかったが、そこで答えを言ってしまうと意味が無いので、あえて黙っておきました。
野村監督が、投手に対して「なぜ変化球を投げるのか?」と聞くのと同様ですよね。
タイミングをずらす為。
速球に入り混じって変化球を投げることで、空振りや打ち損じを狙う。
それが答えなのですが、その本質を知らないままに変化球を投げるのか、或いはその本質が解らないままにとりあえず変化球を投げるのか、それによって結果も解りますよな。
なるべく、僕自身から答えを言わない形で、答えを見つけて欲しいものです。
そのためには、考えて貰わないといけない。
何のために働くのか。
仕事とは何なのか。
それが解らないままに、働いたり、仕事をしたりしても、仕方がないでしょう。
一緒に仕事をしても、面白くない。
若者の人生は確かに可能性無限大です。
しかし、そこに失敗リスクが含まれていることを忘れてはいけませんな。
なんで働くのか。
仕事とは何か。
ゆっくりと話しましたが、どうもいかんですね。
何のために働くのかと聞かれて、生きていくためという答えが返ってきました。
志が低いなぁ……と思います。
しかしよく考えれば、社会人1年目、大人になるための教育を受けていない「学生」が、いきなり何のために働くのかと聞かれて、自己実現のためですなんて言えないよな。
僕自身、生きていくためと言われた瞬間に、ちと待ていと突っ込みたかったが、そこで答えを言ってしまうと意味が無いので、あえて黙っておきました。
野村監督が、投手に対して「なぜ変化球を投げるのか?」と聞くのと同様ですよね。
タイミングをずらす為。
速球に入り混じって変化球を投げることで、空振りや打ち損じを狙う。
それが答えなのですが、その本質を知らないままに変化球を投げるのか、或いはその本質が解らないままにとりあえず変化球を投げるのか、それによって結果も解りますよな。
なるべく、僕自身から答えを言わない形で、答えを見つけて欲しいものです。
そのためには、考えて貰わないといけない。
何のために働くのか。
仕事とは何なのか。
それが解らないままに、働いたり、仕事をしたりしても、仕方がないでしょう。
一緒に仕事をしても、面白くない。
若者の人生は確かに可能性無限大です。
しかし、そこに失敗リスクが含まれていることを忘れてはいけませんな。
今日、東京都議選なんですね。
恐らく民主党が第1党になって、与党が過半数割れ、麻生おろしが本格化するでしょう。
ただ、麻生を下したところで、代わりになる総裁候補がいる訳でもない。
麻生が、小泉の言う「信頼の無い」総理なら、麻生を下せば自民党は「信頼の無い」政党になる。
翻って、民主党が「政権与党」足り得るかと言えば、恐らく答えは否の筈である。
鳩山氏の脱税疑惑だけでなく、90年代に死滅したはずの左翼思想の持ち主が党内に跋扈しており、アメリカの民主党と共和党のような対立軸のようにはならないだろう。
しかし、この国は、政治が混乱したとしても、明日の飯に困らない。
今日飲む水にも困らない。
つまり、発展途上国のように、政治的混乱が経済に大きな影響を与えていない。
経済への大きな影響とは、つまりマズローの欲求で言う最下層の欲求、生きるための欲求が奪われるような状態の発生を指す。
日本は豊かだと思う。
派遣村が問題になっている時、僕らは年末を家族と過ごしながら、温かい部屋で、大型テレビで、その派遣村特集を見ていなかっただろうか?
100円があれば、ハンバーガーが買える。
500円あれば1日の飯にだって困らない。
じゃあ、その500円はどうすれば稼げるか?
コンビニで1時間バイトすれば済む話である。
大勢リストラされた社員が行く宛もなく、ホームレスになってしまったケースがある。
しかし、彼らは気付くべきなのである。
会社が社員を雇い、組織の内部で昇格させる、言わば完全雇用社会は終焉を迎えた。
これからは、個人個人が如何に組織に貢献するか(成果を出すか)、そして組織は貢献や成果の期待に応えることが出来るかがカギになる。
貢献出来ない奴はリストラだし、期待に応えられない組織は見捨てられる。
しかし、今はまだ、片方しか ― リストラしか進んでいないから、つまり人材の流動化が発生せず、大勢の人間が会社にしがみ付いているから、組織が優位になっているだけである。
会社は従業員を「会社存続」という理由で解雇するのであれば、残された人間には「存続後のビジョン」を語らなければいけない。
それが出来ないのであれば、残された人間は会社を見限っても良い筈だ。
辞めて、新たに会社に就職出来るのか。
そう思うかもしれない。
しかし、会社に勤めるという選択肢しか無いことが問題ではないだろうか。
そもそも貴方のキャリアプランは「会社に勤める」しか書かれていないのか、「あれこれをしたい」「あぁなりたい」とは書かれていないのか。
そのキャリアプランを実現させるために、今まで主体的に活動しなかったのか?
ここまで書けばお解り頂けると思うが、日本の市場は「会社人間になることは損」になっているのに、今の枠組みから出るのを躊躇っている人間が多過ぎる。
21世紀は、会社に雇われている正社員から、正社員を雇用している会社という位置づけになるはずだ。
つまり高い専門性を持つ「正社員」によって業績が成り立つ会社。如何にして正社員のモチベーションを高く上げ、成果を出すためのお膳立てが出来るか、が鍵になる。
それじゃあ、日本の古き良き制度が!と思うかもしれない。
しかし大正時代までは、上記のような職人が跋扈していたし、現在の終身雇用は昭和からのたった80年程度の歴史しか無い筈である。
ただ、恐らく、日本はこのままズルズル落ち続けると思う。
欧米型の個人主義を勘違いし、権利を主張し続け、果たすべき義務を果たさないまま、日本は歴史を重ねてしまっている。
果たすべき義務を放棄した国民で成り立つ国家は、果たして義務が果たせるだろうか?
つまり、断言出来るが、日本は発展途上国ではなく、貧困国へと堕落する。
夢も希望も持てず、会社にすがり付き、そこに居さえすれば安泰という根性では、貧困しかない。
この状態をどうすれば回避出来るだろうか?
恐らく民主党が第1党になって、与党が過半数割れ、麻生おろしが本格化するでしょう。
ただ、麻生を下したところで、代わりになる総裁候補がいる訳でもない。
麻生が、小泉の言う「信頼の無い」総理なら、麻生を下せば自民党は「信頼の無い」政党になる。
翻って、民主党が「政権与党」足り得るかと言えば、恐らく答えは否の筈である。
鳩山氏の脱税疑惑だけでなく、90年代に死滅したはずの左翼思想の持ち主が党内に跋扈しており、アメリカの民主党と共和党のような対立軸のようにはならないだろう。
しかし、この国は、政治が混乱したとしても、明日の飯に困らない。
今日飲む水にも困らない。
つまり、発展途上国のように、政治的混乱が経済に大きな影響を与えていない。
経済への大きな影響とは、つまりマズローの欲求で言う最下層の欲求、生きるための欲求が奪われるような状態の発生を指す。
日本は豊かだと思う。
派遣村が問題になっている時、僕らは年末を家族と過ごしながら、温かい部屋で、大型テレビで、その派遣村特集を見ていなかっただろうか?
100円があれば、ハンバーガーが買える。
500円あれば1日の飯にだって困らない。
じゃあ、その500円はどうすれば稼げるか?
コンビニで1時間バイトすれば済む話である。
大勢リストラされた社員が行く宛もなく、ホームレスになってしまったケースがある。
しかし、彼らは気付くべきなのである。
会社が社員を雇い、組織の内部で昇格させる、言わば完全雇用社会は終焉を迎えた。
これからは、個人個人が如何に組織に貢献するか(成果を出すか)、そして組織は貢献や成果の期待に応えることが出来るかがカギになる。
貢献出来ない奴はリストラだし、期待に応えられない組織は見捨てられる。
しかし、今はまだ、片方しか ― リストラしか進んでいないから、つまり人材の流動化が発生せず、大勢の人間が会社にしがみ付いているから、組織が優位になっているだけである。
会社は従業員を「会社存続」という理由で解雇するのであれば、残された人間には「存続後のビジョン」を語らなければいけない。
それが出来ないのであれば、残された人間は会社を見限っても良い筈だ。
辞めて、新たに会社に就職出来るのか。
そう思うかもしれない。
しかし、会社に勤めるという選択肢しか無いことが問題ではないだろうか。
そもそも貴方のキャリアプランは「会社に勤める」しか書かれていないのか、「あれこれをしたい」「あぁなりたい」とは書かれていないのか。
そのキャリアプランを実現させるために、今まで主体的に活動しなかったのか?
ここまで書けばお解り頂けると思うが、日本の市場は「会社人間になることは損」になっているのに、今の枠組みから出るのを躊躇っている人間が多過ぎる。
21世紀は、会社に雇われている正社員から、正社員を雇用している会社という位置づけになるはずだ。
つまり高い専門性を持つ「正社員」によって業績が成り立つ会社。如何にして正社員のモチベーションを高く上げ、成果を出すためのお膳立てが出来るか、が鍵になる。
それじゃあ、日本の古き良き制度が!と思うかもしれない。
しかし大正時代までは、上記のような職人が跋扈していたし、現在の終身雇用は昭和からのたった80年程度の歴史しか無い筈である。
ただ、恐らく、日本はこのままズルズル落ち続けると思う。
欧米型の個人主義を勘違いし、権利を主張し続け、果たすべき義務を果たさないまま、日本は歴史を重ねてしまっている。
果たすべき義務を放棄した国民で成り立つ国家は、果たして義務が果たせるだろうか?
つまり、断言出来るが、日本は発展途上国ではなく、貧困国へと堕落する。
夢も希望も持てず、会社にすがり付き、そこに居さえすれば安泰という根性では、貧困しかない。
この状態をどうすれば回避出来るだろうか?