下記「N(真)=N(偽)」の反証をしてみましょう。


(こういう問題は、違和感があってもいざ反証するとなると難しいものです。)


PとQという真理値(真か偽か)を確認できない2つの命題を想定します。

・Pが真である確率は1/2。Pが偽である確率は1/2。・・・(A)

・Qが真である確率は1/2。Qが偽である確率は1/2。・・・(B)


ここで、P∧Q(PかつQ)という命題を考えます。

P∧Qが真であるのは、Pが真でかつQが真であるときだけです。(P,Qいづれか片方でも偽の場合はP∧Qは偽です。)


(A),(B)によって

・P∧Qが真である確率は1/4。P∧Qが偽である確率は3/4。・・・(中間帰結;C)


一方、P∧Qは真理値が確認できないので、「N(真)=N(偽)」の議論に従って

・P∧Qが真である確率は1/2。P∧Qが偽である確率は1/2。・・・(D)


以上により、(C)と(D)は矛盾するので、「N(真)=N(偽)」は反証される。

「真」なる命題と「偽」なる命題の数は同じなのではないか。という話。


「真」なる命題を P(1),P(2),…,P(n) とする。

「偽」なる命題を Q(1),Q(2),…,Q(k) とする。


ある命題 R の否定を ~R とする。

(*) ~R は「Rでない」という意味。つまり、「Rが真ならば、~Rは偽である」


というわけで、

「真」なる命題は P(1),P(2),…,P(n),~Q(1),~Q(2),…,~Q(k) が全てである。

「偽」なる命題は Q(1),Q(2),…,Q(k),~P(1),~P(2),…,~P(n) が全てである。


従って、

「真」なる命題の総数は n+k 個。

「偽」なる命題の総数は k+n 個。(たぶん n→∞ ,k→∞)


これによると、

ある命題が「全ての命題の集合」から無作為に選ばれている仮定すると

その命題が真である確率(或いは、偽である確率)は 1/2 である


この仮定に従うと例えば、

「死後の世界が存在する」が真である確率は 1/2 である。

つまり、「死後の世界が存在する」確率は 1/2 である。

物理法則の様々な方程式は時間に対称な関数で記述される。

これはつまり、時間のが一定の方向を持つことを要求していない、ということなのだそうです。


どういうことか、というと。

波動関数 f(x)=Asin(ωt+kx+α) や ニュートン方程式 F=ma{=md(dx/dt)/dt} などのように、時間を方程式に含んではいても、時間が一定方向に進む必然性を有していない。

つまり、ある物理的状況について時間を逆進させた状況もあり得る、ということだ。


例えば、自由落下(一定の加速度で加速する運動)の運動について時間を逆進させてみると、一定の加速度で減速する運動という、あり得る運動状態となる。


ところが、ここで波についてひとつの疑問があるらしい。水面に石を投げ込んで、波を立てる様子を思い浮かべて欲しい。

波は波源を中心に同心円状に広がる。

波動方程式は時間について対称だから、これと時間的についになる運動もあり得るはずである。

つまり、全方位からある一点に収束してくる波があるはずなのだ。

しかし、そういった物理現象は発見されていないらしい。


私は最先端の物理学の理論については素人だが、一応の解答可能性を示そうと思う。


我々の存在する空間がちょうど球状の閉曲面の表面であると仮定するのだ。

(もちろん、3次元空間を表面にもつ球状の閉曲面であるから、クラインの壺のように4次元的に閉じていて現実には表現できないものとなるのだが、地球の表面について考えるようなイメージで話を進める)


地球の北極で波を発生させると、波は地球の表面に沿って同心円状に広がっていく。

赤道まで波はその半径を広げながら広がっていくが、やがて赤道を越えると、その波はちょうど広がっていくのと逆の仕方でその半径を縮めていく。

そして、北極のちょうど反対側、南極という一点に波は再び収束する。


この仮定によって、全方位からある一点に収束する波は存在することが可能となる。

ただし、実際の宇宙では

①宇宙の広さが無限であること(半径無限の地球に住んでいる、ということ)

②波は光速を超えないこと

(さらに加えると ③宇宙の年齢が有限であること ④宇宙が膨張していて赤方偏移があること など)

によって、宇宙の裏側までこのような波が届いていない、と説明される。

失う時が いつか来る事も

知っているの 貴方は悲しい程

それでもなぜ生きようとするの

何も信じられないくせに

そんな寂しい期待で

(鬼束ちひろ「私とワルツを」)


・私たちはなぜ生きているのでしょうか。

この問題はおそらく哲学や宗教という形でずっと昔から考えられてきているのだろう。


私もこの問いにはかなり興味を持っている。というより時折、漠然と或いは真剣に考えることがある。そういうことを全部書き留めるのも良いかもしれないが、ひとつの記事とするにはあまりにも論点が多すぎてスペースが足りない。

いや、そもそもこの「GeDankenExperiment」自体がこうした問いを含む一連の思考実験の一部であるから。その中の一記事に全てを書くことはできない。


・ただし、ひとつここで書いておくとするならば、「なぜ生きようとするの―どうせいつかは死んでしまうのに」という問いの立て方はおかしいと思う、ということだ。

(そして私はこの論法が大嫌いだ)


どうせいつかは死ぬ。というのは真実だとしても、だからといって生きることの意義は消滅しない。例えば、アインシュタインは死んでしまったが相対性理論の完成は彼自身にとって意義のあることだっただろう(もちろん社会や人類にとって意義のあるものだったことは言うまでもない)。


相対性理論の完成では一般的な感覚と隔たりがあるだろうが、生きている実感というものを感じることができれば(安っぽくいうと「生きてて良かった」思う瞬間があれば)、死によって生きようとする理由は打ち消されない。


・結局の解釈は。

こうした生きている実感というものがなくて、あったとしてもいつまでもは続かなくて、そしてこの先にもそういうものは見つかりそうになくて、それでも生きようとする。


これを人が希望と呼ぶなら、絶望の底にいる私を救い出して―

↓「ニワトリの存在原因」の続きです。

 

[1]ニワトリが産んだタマゴ の場合を少し変形します。

我々は通常、個体ごとに生物の種類を決める。つまり、ニワトリ以外の生物として生まれ、成長したらニワトリ以外になるという認識をしない。

 

(ちなみに、この説明に対して出世魚のような話を持ち出しても意味はない。タマゴとニワトリの間にヒヨコという段階を挟んでも問題の本質は変わらないからだ。)

 

つまり、[タマゴ→ニワトリ]個体として1セットなのである。

ある生き物を見て、それがニワトリであると決める。するとそのニワトリは必ずタマゴから生まれているのだ。

 

こうして、[1]の場合も[2]ニワトリが生まれたタマゴの場合と同様にタマゴが先という結論に行き着く。或いは[1]は[2]の場合に含まれる

 

そもそもこの解答は、↓「ニワトリの存在原因」での推論過程と独立である。

 

したがって、「個体ごとに1セットである」という1つの前提から、煩雑な推論や場合分けを経ることなく「タマゴが先である」と結論できる。

タマゴが先かニワトリが先かどちらが先か決着をつけてみましょう。
・結論から言うと一意的に決まります。ただし、どちらが先かはタマゴの定義の仕方によって決まります。

最初に、この文章の前提を見てみましょう。
・タマゴはニワトリが産みます。つまり、タマゴの存在の原因はニワトリです。
・ニワトリはタマゴから生まれます。つまり、ニワトリの存在の原因はタマゴです。
この2つを組み合わせると、ニワトリが存在するのは、ニワトリがいるからだということになります(或いは、タマゴが存在するのは、タマゴがあるからだ)。
結局「タマゴが先かニワトリが先か」の論点は、自分自身を存在理由にしているものが現に存在しているということです

では、こんな推論はどうでしょうか。
・ニワトリが存在するのは進化の結果だ。
・生物がニワトリに進化する以前から、魚類はタマゴを産んでいた。
・故に、タマゴが先である
しかし、これは問題の本質を射ていないことはお分かりでしょう。つまり、この問いが成立するためには、タマゴがニワトリのタマゴでなくてはならないのです。

では、ニワトリのタマゴとはどのように定義されるのでしょうか。

[1]ニワトリが産んだタマゴ
・この場合はニワトリが先です。
ここでのタマゴは定義に従って、進化の過程でニワトリという生物が現れてそれが産んだタマゴということになります。
従って、ニワトリが先です。

[2]ニワトリの生まれてくるタマゴ
・この場合はタマゴが先です。ここでは定義に従って、進化の過程であるタマゴが産み落とされそこからニワトリが現れた、ということになります。
従って、タマゴが先です。

結局、タマゴが先かニワトリが先かというのはタマゴの定義が曖昧なまま議論されるが故に、循環論に陥ってしまっているのです。
無限に続く事柄について、『「直線状に無限に続く」「円となって閉じる」かのどちらかしかない』、とよく言われます。

例えば、
ある命題P(0)を証明する時、その証明には前提P(1)が必要で、その前提が正しいか検証するための前提P(2)が必要で、その前提が正しいかどうか…
(これが直線状: P(0)←P(1)←P(2)←P(3)←…←P(n)… )
…検証するための前提P(n)が必要で、その前提を検証するための前提はP
(これが円状 : P←P(1)←P(2)←P(3)←…←P(n)←P )
・「循環証明」や「同語反復(トートロジー)」と言われたりします。無意味な命題です。

しかし、私が思うに「無限を内包しつつ、その全体が有限である閉じ方」があります。(メタレベルを含んでいることになるかもしれませんが)
それが「ε-限界」です。(命名は私)

数学で言うと開集合のことです。例を挙げて説明しましょう。

E={x│0<x<1}という集合の任意の要素A(0)(例えばA(0)=0.999など)について常に、
「A(0)がEの要素ならばA(0)+εもEの要素である
つまり、
{A(0)<A(1)<A(2)<…<A(n)<…<1}
を満たす無限数列{A(n)}が定義されます。

「宇宙の広さは無限である」ということを次のように証明した人がいました。

「宇宙の果てと言われるところまで行き、そこから宇宙の果てに向かって槍を投げてみよう。槍はどうなるだろうか。何かにぶつかって跳ね返されるか、何にも妨げられずにその向こうへ飛んでいくかだ。いずれにせよ、宇宙の果てのその向こうに何かがなければならない。故に宇宙は無限である。」

この証明に対し「ε-限界」を用いて次のようにいうことができます。

「宇宙の長さが{-k<x<k}だったらどうだろう。宇宙の果て(と呼べそうなところ、或いは永久に果てにたどり着けない)の向こう側に常に何かがあるにもかかわらず、宇宙が無限に広がっているとはいえない。」

まあ、いずれにせよ科学的事実に照らして棄却されそうですが、ひとつの考え方として。

・「アキレウスは亀に追いつける」という話にも似てます。
2 = 1 + 1/2 + 1/4 + 1/8 + 1/16 + …
・数学的には「外なる無限」と「内なる無限」みたいな話です。
「外なる無限」={ 1, 2, 3, … , n, … (∞) }
「内なる無限」={ 1, 1/2, 1/3, … , 1/n, … (1/∞) }

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
(ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)


・はじめは論理哲学者ウィトゲンシュタインの言葉。

・人間は言葉でものを考えます。
私の言語が扱いうる世界の外側には私の世界は拓かれていません。

言語障害者は色の識別が困難なのだそうです。
私たちは赤を赤と認識するのにも、赤という言葉が必要なのです。

・私の言語の限界の外側は想像することさえできない。

・ところで、私の言語の外側について「私の言語の及ばないところ」という表現はどうなのでしょうか。

掲示板が欲しかったので、この記事を掲示板として使うことにしました。

このページの記事に対する批判・反論・その他などお待ちしています。


↓の【コメント】をクリックして書き込みをください。