Wayuka Insight Studio | 大切な人と生きながら、自分の人生を育てる

Wayuka Insight Studio | 大切な人と生きながら、自分の人生を育てる

教育、母性、言葉。。

地方の暮らしから
学びと感性をひらいていく。

子どもを変える前に、
まず大人が少し自由になること

オンライン家庭教師@あなたの東大にて、
英語を中心に指導中。

トークイベント・文章・声の表現なども発信中。

Wayuka Insight Studio

ここは、
家族や役割の中で見えにくくなった
自分の感覚を取り戻していく場所です。

頑張り続けることでも、
誰かと比べることでもなく、
自分に合う言葉、学び、選び方に戻ったとき、
人生は少しずつ動きはじめます。

教育、母性、言葉。
地方の暮らしから、考えたことを書いています。

子どもを変える前に、
まず大人が少し自由になること。

家族を大切にしながら、
自分の人生も育てていくこと。

Wayuka Insight Studio は、
人を無理に変える場所ではありません。

その人が、
自分の感覚で考え、選べるようになるための
言葉と場をつくっています。

あなたの東大
未来は、すでに動き出している。




第3回

なぜ、相談したのに状況は悪化したのか
――いじめが深刻化するときに起きていること

第2回では、
学校に相談したにもかかわらず、
状況が改善するどころか、
かえって悪化していった経緯を書きました。

今回は、
そのとき何が起きていたのかを、
私自身が振り返りながら整理してみます。

⸻

状況が悪化していく場面を思い返すと、
ある共通点がありました。

それは、
「誰が何を引き受けているのか」が、
見えなくなっていく瞬間です。

事実を誰が把握するのか。
判断するのは誰なのか。
動く責任は、どこにあるのか。

それが曖昧なまま、
「様子を見ましょう」
「話は聞いています」
という言葉だけが重なっていく。

その間、
現場では何も変わらず、
むしろ緊張だけが高まっていきました。

⸻

このとき私は、
「悪意があるのかどうか」よりも、
別のところに目が向いていました。

多くの場合、
問題は悪意ではなく、
対応する側の未熟さから
生まれているように感じたからです。

対立を扱う経験の少なさ。
強い感情に向き合う準備のなさ。
自分の立場と責任を整理できないままの関わり。

そうした揺れが、
結果として、
一番弱い立場にいる子どもに
そのまま伝わっていく。

その構図が、
少しずつ見えてきました。

⸻

子どもは、
大人が思っている以上に、
場の空気を感じ取ります。

言葉の選び方。
視線の動き。
その場に流れる緊張。

「自分は守られているのか」
「ここにいていいのか」

そうした感覚を、
説明されなくても受け取ってしまう。

大人が揺れているとき、
子どもはさらに揺れる。

その連鎖が、
いじめを見えにくくし、
深刻なものにしていくように感じました。

⸻

この段階で、
私は自分に問い直していました。

「いま、自分の行動は、
子どもの安心につながっているだろうか」

正しさでも、
怒りの強さでもなく、
安心につながっているかどうか。

この問いから外れると、
行動は簡単に空回りする。
そんな感覚がありました。

⸻

状況が悪化しているときほど、
「すぐ動かなければ」という焦りが出ます。

けれど、
勢いのまま踏み込むと、
話はさらにこじれていく。

誰と向き合うのか。
どの立場で関わるのか。
何を目的として動くのか。

一度、そこを整理しなければ、
前には進めないと感じました。

⸻

この時点で私は、
一対一のやりとりには
限界があると判断しました。

問題そのものよりも、
「話が行き交う場」のあり方が、
影響しているように思えたからです。

誰を同席させるのか。
何を伝え、
何を求めないと決めるのか。

次回は、
その判断と行動について書きます。

第2回


学校に相談したとき、最初に感じた違和感

――「任せたはずなのに、何も動かない」


第1回では、

子どものいじめは「子ども同士の問題」では終わらない、

という話を書きました。


今回は、

学校に相談したとき、

私が最初に覚えた違和感について書きます。


⸻


ある日、

子どもが泣いて帰ってきました。


中学三年生の、生徒会活動の中で起きた出来事でした。


特定の生徒からの嫌がらせが続いていること、

それを止める立場にあるはずの大人が、

十分に機能していないように見えること。


話を聞きながら、

私はまず「事実を知りたい」と思いました。


感情をぶつけるためではなく、

何が起きているのかを把握したかったのです。


⸻


生徒会を担当している教員に、

電話でこう尋ねました。


「生徒会活動は、円滑に行われているのでしょうか」


返ってきたのは、

「問題なく行われていますよ」という言葉でした。


そこで、

子どもが傷ついて帰ってきていること、

その理由について知りたいことを伝えました。


すると、

「その場にいなかったので、分かりません」

という返答がありました。


⸻


このとき、

私は違和感を覚えました。


「分からない」という言葉そのものではありません。


分からないのであれば、

これから分かろうとする姿勢が

示されるものだと思っていたからです。


でも、その場では、

次の動きが見えませんでした。


その瞬間、

私は静かに理解しました。


この問題は、

「相談すれば自然に動く」段階ではない。


⸻


私は、

感情が前に出ないよう意識しながら、

こう伝えました。


「もし学校として指導されないのであれば、

親として関わることも考えています」


怒りを伝えたかったわけではありません。


どこまでを学校に任せ、

どこからを親が引き受けるのか。

その線を、自分の中で確認していた言葉でした。


教員は、

「事情を確認します」と答えました。


⸻


翌日、

子どもは再び泣いて帰ってきました。


今度は、

大人との関わりの中で、

さらに傷ついたという内容でした。


その話を聞いたとき、

私ははっきりと立ち止まりました。


問題は、

子ども同士だけで完結するものではない。


大人の対応一つで、

状況は大きく変わってしまう。


⸻


このとき、

「任せる」という言葉について、

私は考え直していました。


任せることと、

手放すことは、同じではない。


どこまでを委ね、

どこで引き取るのか。


その判断を、

誰かに預けたままにはできないと感じていました。


⸻


このあと、

一週間待っても、

学校からの連絡はありませんでした。


私はそこで、

次の手を考えることになります。


次回は、

話し合いの場をどう作ったのか、

そして、

どこまで踏み込むと決めたのか。


その判断について、書きます。


第1回


子どものいじめは「子ども同士の問題」では終わらない


子どものいじめについて、

私は何回かに分けて書こうと思います。


この問題は、

一つの記事で答えが出るものではないと感じているからです。


⸻


いじめの話になると、

よくこんな言葉を耳にします。


「子ども同士のことだから、子どもに任せましょう」

「学校で起きたことだから、学校に任せましょう」


一見すると、もっともらしく聞こえます。

私自身も、かつてはそう考えようとしたことがありました。


それでも、

その言葉にどうしても違和感が残りました。


いじめは、

子どもだけ、学校だけで完結する出来事には

見えなかったからです。


⸻


いじめが起きたとき、

親は強い感情に揺さぶられます。


怒り、悲しみ、不安。

それは自然な反応だと思います。


ただ、

親の揺れは、そのまま子どもに伝わります。


子どもは、

自分が苦しいだけでなく、

親の足元まで不安定になることに

とても敏感です。


⸻


「本気になる」という言葉についても、

私は何度も立ち止まりました。


声を荒げることなのか。

強く主張することなのか。


そうではない気がしていました。


感情を消すことではなく、

感情に飲み込まれたまま

動かないこと。


どこに立ち、

何を守ろうとしているのかを

見失わないこと。


その位置が、

いじめの場面では特に問われるように感じています。


⸻


このシリーズでは、

実体験をもとに、


・親として、どこで踏みとどまったのか

・どこで判断が必要だったのか

・学校や制度と向き合う中で感じた違和感

・子どもの尊厳を守るとは、どういうことだったのか


を、整理して書いていきます。


告発を目的としたものではありません。

正解を示すつもりもありません。


ただ、

親が一人で抱え込まないための

視点だけは、言葉にして残しておきたいと思いました。


⸻


次回は、

学校に相談したとき、

最初に覚えた小さな違和感について書きます。


相談したはずなのに、

なぜ話が前に進まなかったのか。


その場で、

私が立ち止まった理由から辿っていきます。

“帰りたい”が通らないとき、子どもに起きること



子どもが、
「嫌だ」「帰りたい」と、はっきり言っていました。

でも、その後も
別の見学に連れて行かれていました。



ここで多くの人は、

「やりすぎではないか」
「かわいそうだ」

と思うかもしれません。

でも、私はそこを見ていません。



私が見ているのは、

その子の言葉が、
現実に反映されているかどうかです。



「嫌だ」と言えている。

これは、とても大事なことです。

でも、その言葉が通らない状態が続くと、

子どもはどちらかに向かいます。



ひとつは、

「どうせ言っても無駄だ」と学習して、
言わなくなる。



もうひとつは、

言い続けるけれど、
誰も信用しなくなる。



どちらにしても、

「自分の判断が世界に影響しない」

と学習していきます。



だから問題は、

やりすぎかどうかではありません。



「誰が決めているのか」

です。



そしてもう一つ。

子どもの「嫌だ」を通していないとき、

先に通していないのは、

親自身の判断かもしれません。

5月のnoteを公開しました。

タイトルは、

「親が楽になると、子どもの可能性も広がる」

です。

家庭を大切にしたい。
子どもを大切にしたい。
家族に迷惑をかけたくない。

その思いが強い人ほど、
いつの間にか自分を後回しにしてしまうことがあります。

でも、
家庭を大切にすることと、
自分を消耗させ続けることは、
同じではないと思うのです。

親が少し楽になることは、
子どもを置き去りにすることではない。

むしろ、
親が自分の呼吸を取り戻すことで、
子どもの呼吸も少し広がっていくことがある。

そんなことを、

・子どもの可能性を潰さない関わり方
・親自身の人生を少しずつ増やすこと
・地方で知性と感性を育てる暮らし

と重ねながら書きました。

必要な方に届けばうれしいです。