まず、外食が減った。遊びに出かけなくなった。服も買わなくなった。
 そして母ちゃんが働き始めた。
 ようやく父ちゃんの就職先が決まったけど、それは夜勤がある仕事だった。
 二日に一度は、母ちゃんと僕だけで夜を過ごすことになった。
 それでも不思議なことに、僕達の家は笑い声が絶えなかった。
 父ちゃんも母ちゃんも、辛い顔は見せない。
 いまでもお互いに名前で呼び合っている。
 仲良しなんだ、いつまでも。
 両親の仲が良いと家は居心地が良い。
 だから、貧乏が不幸だとは思わないけれど、時々は悔しいこともある。
 特に子供の世界は、頭が良いとかスポーツ万能なんてのと同じぐらい、家が金持ちってのは大きな力なんだ。
 僕は頭も良くないし、スポーツだってそれほど得意じゃない。顔だって平凡だ。
 貧乏か金持ちかは、黙ってれば分からないと思うかもしれないけれど、それは違う。
 持ち物や服装で分かっちゃうんだよな。
 だけど、僕は別に気にはしてない。この家族が大好きだからだ。
 それでもやっぱり、自分の誕生日ぐらいは期待したい。
 みんなが持ってるゲーム機、僕も欲しいんだけどな。高いから無理だろうな。
 去年の誕生日プレゼントは、確か筆箱と新しい鉛筆だった。
 今年はきっと、ノートと消しゴムぐらいだろう。
 仕方ない。母ちゃんがいつも以上に美味しい料理を作ってくれるのだけが楽しみだ。
 
 色々考えながら歩いていたら、あっという間に公園に着いた。
 啓太がジャングルジムの天辺で、カッコつけて立っている。
 腰に巻いているのは、新発売のヒーローベルトだ。
「遅かったな、若様」
「若様は止めぃ。ええの巻いてるな。誕生日、まだまだやろ」
「ふっふっふ。これはパパのコレクションなんだ。数量限定の特別製だってさ。いい大人がこんなのとかフィギュアとか集めてんだぜ。あ、そう言えばお前の誕生日、もうすぐじゃなかったっけ」
「そう。次の土曜。プレゼントは今日から受け付けてる」
「じゃあこれやるよ」
 降りてきた啓太が、ポケットからチョコレートを取り出した。
「ありがと……溶けてる」
「僕の熱い友情で溶けたんだ」
 熱い友情で溶けたチョコレートは、とても美味しかった。

 こうやってふざけているけど、啓太はすごく良いやつなんだ。
 仲間思いで、弱い者いじめが大嫌いで、困った人は見過ごせない。
 いつだって笑顔で、みんなを幸せな気持ちにさせる。
 でも僕は知っている。
 啓太ん家は、両親の仲が悪い。
 東京からこっちに転勤してきた頃から、夫婦喧嘩ばかりしているらしい。
 だからかな、豪華なマンションで暮らしてるのに、啓太は誰一人として招いたことがない。
 僕は一度だけ入ったことがある。
 確かに豪華だ。おもちゃがたくさんある。
 あまり遊ばないせいか、どのおもちゃも綺麗なままだ。
 中には、封を開けていないものもあった。
 それは全部、家族で遊ぶおもちゃだった。
 
「誕生日なぁ。なんや少しも嬉しない」
「なんで。おまえん家の母さん、料理美味いって言ってるじゃん。誕生日だとすげぇだろうな」
「うん。でもな、プレゼントがな。しょぼいんねん」
「ま、大人には大人の事情ってのがあるからさ」
 
 それから僕らは日が暮れるまで遊んだ。
 公園から戻ると、父ちゃんが家から出てきたところだった。
「おう。母ちゃん迎えに行くぞ」
 横に並んで歩きながら、何となく訊いてみた。
「父ちゃんってな、母ちゃんのこと好きか」
「うん。大好き」
 なんだその子供みたいな返事。こういうことを照れもせずに言えるところが父ちゃんらしい。
 通りの向こう側に母ちゃんの姿が見える。
 父ちゃんが大きく手を振った。
 母ちゃんは、笑顔で応えた。
 僕ん家のいつもの風景だ。
 少しだけ、僕は考えてみた。この風景、啓太は見られないんだな。
 しかもそれは、啓太が悪いんじゃない。大人の都合だ。
 どう頑張っても変えられない都合なんだ。
「おかえりー」
「ただいま。お土産あるよ。ほら、おまんじゅう」
「おー、すげー」
 三人で手を繋いで家に向かう。
 夕陽に照らされた背中が、道に三つの長い影を落としている。
 もちろん、影も手を繋いでいる。
 それがなんだか嬉しくて、僕は笑った。

焼き飯だか炒飯だかの良い匂いがしてきた。悔しいけど、父ちゃんの料理は案外美味しいんだ。
「ほい、出来上がり」
 出てきたのはチキンライスだった。
「なにこれ。焼き飯か炒飯ちゃうの」
「んなこと言うたか」
「父ちゃん、マジでお医者さんに診てもらった方がええよ」
「やだ。怖いもん」
 ああうっとうしい。みんなのお父さんもこんなのだろうか。
 とりあえず、さっさと御飯食べて、宿題終わらせて遊びに行こう。
 父ちゃんは、淹れたてのコーヒーを持ってパソコンの前に移動した。
 今から小説に取り掛かるんだろう。これでしばらくは静かになる。
 父ちゃんの本業は会社員だ。小説は、あくまでも趣味らしい。
 それでも、年に一冊か二冊、共同執筆の文庫がでる。
 それが嬉しくてたまらないようだ。
 パソコンに繋いだヘッドホンから、大好きなアイドルの歌が聞こえてきた。
 あんな大音量で聴いて、よく耳が大丈夫だと感心する。
 それにしても甘ったるい歌詞と声だな。
 あんなの聴きながら怖い話を書くっていうんだから、やっぱりうちの父ちゃんは変だ。


 まず、見た目が普通じゃない。
 身長百八十三センチ、体重八十キロ。ただでさえ怖い顔なのに、手入れが楽だからって坊主頭にしている。
 好んで着ているのは革ジャンにカーゴパンツだ。
 ただ歩いているだけなのに、みんな避けて通る。
 ところがそんな外見なのに、小さな虫やミミズが大の苦手。
 夫婦で動物園に行った時、リス猿に餌をあげようと袋を開けたら、中身は糸ミミズだったらしい。
 その瞬間、父ちゃんは絶叫して逃げ出したそうだ。

 さてと、宿題完了。
「父ちゃん。とーおーちゃーん」
 そりゃ聞こえないよね。ほんと、よく耳が痛くならないな。仕方ないから背中を突いた。
 ヘッドホンを外して振り向いた父ちゃんは、ぽろぽろと涙を流していた。
「ん。どないした」
「こっちのセリフだよ。なんで泣いてんの」
「いや、ごっつうええ話が書けてな。書きながら自分で感動してしもた。はっはっは」
 すごく良い怖い話か。なんか嫌だな。
「今度は売れるといいね」
「ああ、大丈夫や。父ちゃん、自信あるでぇ」
 無理だよ、きっと。二、三話は採用されるだろうけどね。これもまた、胸の中でツッコんだ。
 母ちゃんが言うには、父ちゃんの書く実話怪談はステーキに添えられたポテトみたいなもんだって。あったら食べるけど、無くても特に困らない。
「公園に行ってくる。啓太くんと遊ぶから」
「おう。気ぃつけてな」
 そしてまたヘッドホン装着。
 部屋の入り口で、僕は振り向いて父ちゃんの背中に話しかけた。
 どうせ聞こえてないんだ。何を言っても大丈夫さ。
「父ちゃん。次の土曜日、僕の誕生日やで」
 プレゼント、無理だろうな。はっきり言って、うちは貧乏だし。
 父ちゃんが前の仕事をリストラされてから、暮らしが変わったんだ。
 それは小学生の僕でも判った。
 
 

  家まであと十メートル。
 うわ。なんであんな大声で歌ってるんだろ。

 立ち止まったら、啓太が振り向いた。
「どしたん?真吾」
「なんでもない」
「あ。誰か歌ってる。誰だろ」
 声の主はわかっている。でも教えたくない。
「誰でもええよ。宿題終わったら公園行くから」
 なんとかうまくごまかせた。
「おかえりぃー」
 そのとたん、二階のベランダから声が降ってきた。
 父ちゃんだ。
 洗濯物を干している最中なんだろうな、母ちゃんのブラジャーを持ったまま、手を振っている。
「元気でがんばってきたか、若様」
 何が嬉しいのか、にたにたと笑っている。
「若様って……真吾のことか。じゃあ後でな、若様」
 啓太が笑いながら走っていった。
 あいつ、絶対、教室で言いふらすだろうな。
 くそ。これも全部、父ちゃんのせいだ。


「ただいま。父ちゃん、歌いながら洗濯物ほすの止めて」
「なんで。父ちゃんの歌、そんなに下手か」
「うまいとか下手の問題ちゃう。友達に聞かれて、めっちゃ恥ずかしかった」
「はっはっは、すまんすまん。もっと練習しとく」
 何を言っても無駄だ。父ちゃんは昔、ミュージシャンを目指していたらしい。
 だから歌は上手い。でも、普通の大人はブラジャーを干しながらアイドルの歌なんか歌わない。
 今度は鼻歌をうたいながら台所に向かった。ステレオの電源を入れたようだ。落語が聴こえてくる。
 馬鹿笑いしながら、軽やかに食器を洗いだした。
『おあとがよろしいようで』
 落語が終わると同時に洗い終えた。
「さてと、次は掃除か。いや、その前に飯やな。若様、腹すいてないか」
「すいてるけど。あんな、その若様ってやめてくれへんかな」
「何で? お前はうちの若様だろ。まだ殿様にはなれんし、姫様やないし」
「父ちゃんは子供の頃、なんて呼ばれてたん」
 父ちゃんは、しばらくじっと考えてから答えた。
「ぼくちゃん、やったな」
 部屋の中が静まり返った。僕は黙って父ちゃんを見ていたけれど、こらえきれなくなって吹きだしてしまった。
「ぼくちゃんて。父ちゃんがぼくちゃんて」
「それだけ上品で可愛らしかったんや、父ちゃんは。なんならおまえもぼくちゃんって呼んだろか」
「いえ、若様でけっこうです」
「なんや、遠慮深いやつやな」


 父ちゃんは、また台所に向かった。
 焼き飯にしようか、炒飯にしようかなんて言っている。
「焼き飯と炒飯ってどう違うん」
「焼き飯は焼く。炒飯は炒める。常識」
 そうだったのか。いやいや、だめだめ。しっかりしろ、僕。
 この人を信じたら、大変なことになる。
 父ちゃんの言うことの八割はホラで、残りの二割は冗談なんだ。
「だったら、ピラフは」
「ピラフは……ピラっとしてフ」
「ピラッはまだ良いとして、フって何やねん」
「小さいことばかり気にしてると、父ちゃんみたいに大きくなれんぞ。父ちゃん、今年四十三歳で身長が百八十三センチあるけど、いまだに伸びてるからな。二年後には二メートルになる予定や」
 十年後にはゴジラか。ツッコむだけ無駄だから、胸の中で言った。

 突然の手紙をお許しください。私は吉山治夫と申します。
いまから一年前の六月二十三日に、そちらのお店で食事を楽しませてもらったものです。
私は今、この手紙を病室で書いています。
実は、末期の癌を患っておりまして、残念ながらここで人生を終えてしまうようです。
ただ一つ、心残りは愛する妻を残して逝かねばならないことです。
優しい女です。一途な女です。手前味噌ではありますが、私以外の男を好きになれないと思うのです。
 私が亡くなってから後、おそらく妻は貴方の店を訪ねると思います。
それも、六月二十三日に。
面白いことに、私たちが初めてデートした日(貴方の店に行った日です)も、結婚記念日も、

 新居に引っ越した日も、全部六月二十三日なのです。
もしも妻が貴方の店を訪ねたら、あの日と同じ料理を出してやってくれないでしょうか。
そして、こう言ってやってください。
絶対に後は追うな。笑っていてくれ。僕は君の笑顔が大好きだったから。


「でも、来るかどうか分からない私なんかの為に」
「この熊はね、信用してくれた人を裏切れない難儀なヤツなんです。毎日のメニューはノートに記録してますからね、一生懸命探しまくってようやく」

鈴を転がすような笑い声を立てる女性と、照れくさそうに上を向いている熊を見ているうち、

枯れたと思っていた涙が、後から後から溢れて落ちてきた。

「涙ってね、枯れないんですよ。悲しみがあんまり大きいとね、詰まっちゃうんです」
もう一枚おしぼりを置きながら女性が笑った。

「あんたは涙腺が太すぎるのよ、いつでも何でも泣いちゃうんだから。

ほら、熊。さっさと鱧やっちゃいなさい」
「お、おう」
鱧の骨を切る包丁の音がリズミカルに店内に響く。



生きよう。それも出来るだけ朗らかに。
まずはここからだ。
紀代美は満面に笑みを浮かべ、デザートを注文した。

わけがわからぬまま、頷いた紀代美の前に京薬味の吟醸豆富サラダが置かれた。
茹でたての茶豆、かぼちゃのチーズ焼きが続く。
見た目も味も最高のおばんざいが次々に運ばれてくる。
その全てに見覚えがあった。一つ一つに治夫の笑顔が、声が、思い出がついてくる。
紀代美はいつの間にか泣きながら箸を進めていた。


テーブルにそっとおしぼりが置かれる。先程の女性だ。
愛おしそうに見守る目に、思わず紀代美は口を開いた。
「すいません。いきなり泣き出しちゃって」
「構わないですよ」
カウンターの中の熊が、心配そうに首を傾げて見つめている。

「あの、失礼かもしれませんが訊かせてくださいますか」
「あ。はい、俺でよければ何でも」
「一年前に、一度だけしか来なかった私のことをどうして覚えてられるんですか? 」


熊は小さく微笑み、のっそりとカウンターから出てきた。
その手に一枚の封筒がある。
「これ、読んでもらえば判りますよ」

差し出された封筒に書かれた字が記憶の扉をこじ開けた。
几帳面な丸文字と笑ったことがある。治夫の筆跡に間違いなかった。
「これって」
「そう。貴方の御主人からです」

日付は去年の六月二日。治夫が入院した翌日だ。
封筒には白い便箋が一枚と、二人が映った写真が入っていた。