健吾と由香は、もう少し書き足して再度発表します。

意外な形で。

しばし待たれよ、頑張るからね。

乞う御期待。

 父ちゃんがなんでも券を握りしめている。
 握りしめた拳から、親指が突き出された。
「サムアップ。サムアップだ、母ちゃん! 父ちゃん、気がついてる! 」
 僕はベッドに駆け寄り、父ちゃんの拳を握りしめた。
 涙が後から後から溢れてくる。
 握りしめた拳を母ちゃんと僕の涙が濡らした。
「父ちゃん、がんばれ! また琵琶湖一周行こう! 

大好きなアイドルのライブにも行くんやろ、がんばれや父ちゃん」
 僕たちの後ろで看護師さんが鼻をすすっている。
 気づいた母ちゃんが僕を立たせて言った。
「母ちゃん、信じるわ。この熊は冬眠中なだけ。いつか必ず起きるわ。さ、行きましょう」
「うん。そやな、冬眠してるだけやんな」
 出口で振り向くと、父ちゃんはまだサムアップしていた。
 僕もサムアップで応えた。



 その日から数えて三日目の朝。
 父ちゃんは冬眠から目覚めた。
 看護師さんから知らされて、僕たちは病室に入った。
 ベッドの上で父ちゃんが目を開けている。
 とても小さな声で、父ちゃんは僕たちに言った。
「腹へったよ」


 最初に母ちゃんが笑った。
 続いて僕。
 でも、笑ったはずの母ちゃんはすぐに泣き出した。
 僕は我慢して泣かなかったんだ。
「おかえり。父ちゃん」
 父ちゃんは、ゆっくりと、でもしっかりと言った。
「父ちゃんは、約束を、絶対に守るから」
 
 父ちゃんはお医者さんが驚くほどの回復力を見せ、二週間後にはもうリハビリを開始した。
「さっさと退院したいからな」
 それはそうだけど、そんなに慌てること無いのに。
「あかんねん。病院は退屈やし、なんと言ってもビールが飲めん」
 ええと、もう心配するの止めようかな。

 退院の日、父ちゃんは沢山の看護師さんに見送られていた。
「前田さん、いつでも戻ってきてかまわないわよ」
「そうそう。いなくなると寂しいから」
 可愛らしい看護師さんにそう言われて、父ちゃんはまんざらでもない様子だ。

「こほん。なんならあなた、あと二、三日いてもいいわよ」
 母ちゃんがさっさとタクシーに乗り込んだ。
「待って待って嫁はん、置いてかんといてぇ」
 皆が弾けるように笑った。
 





  家まであと十メートル。
 うわ。またあんな大声で歌ってる。

「おかえりぃー」
 二階のベランダから声が降ってきた。
 父ちゃんだ。
 なんでいつも母ちゃんのブラジャーを持ってるんだろう。
「元気でがんばってきたか、若様」
 僕は返事の代わりにサムアップした。
 父ちゃんもにっこり笑って返してきた。


 玄関を開け、二階に向かう。
 テーブルの上に父ちゃんのパソコンが置いてある。
 ヘッドホンを繋いだままだ。
 それを見た途端、急に涙が溢れてきた。
 父ちゃんが戻ってこなかったらどうしよう。
 いやだ。
 そんなのいやだ。
 また一緒に琵琶湖一周に行きたいのに。
 
 その時、僕はすごくバカげたことを思いついた。
 父ちゃんのなんでも券だ。
 あれに、起きろって書いたら。
 父ちゃんはあの券に書いたことを全部守ってくれた。
 できない約束はしない、っていつも僕に胸を張ってたんだ。
 頼まれていた物をカバンに詰め、僕はなんでも券をポケットに押し込んだ。
 急げ、急がなきゃ。
 ほんとに馬鹿げてるけど、これぐらいしか僕にはできない。
 僕はまた全速力で病院に向かった。
 こんなに急いでいるのに、神様は何て意地悪なんだろう。
 目の前の交差点に、いつかのイジメっ子達がいた。
「あ。おまえ、いつだったかのガキやないか」
「急いでんねん! 通してくれ」
「安心せぇ、おれらもうアホなこと止めたんや。おまえの父ちゃんに注意されたからな」
「その父ちゃんが事故で入院してるんや。そやから早く行かなあかん」
「マジか、すまんかった」
 良かった。みんな心配そうな顔で通してくれた。


「お待たせ、母ちゃん」
「あら。えらく早かったのね。ありがと」
「もう一度、父ちゃんのとこ行けるかな? これ、渡したいんだ」
「それって……あなた、まさか」
「そう。これに『起きて』って書いて渡す」
 馬鹿な子ねぇ、って笑いながら母ちゃんは涙をこぼした。
「看護師さんに頼んでみましょ」
 結局、アルコールで消毒すれば構わないと認めてくれた。
 さっきと同じ要領で着替え、慎重にメモを拭いた。
 油性ペンで書いた文字は、少しにじんだけど大丈夫だ。
 父ちゃんは相変わらず目を閉じたまま身動きもしない。
 開いた手になんでも券を乗せた。
 もちろん、握ることなんかできない。
「父ちゃん。僕の声、聞こえる? あのね、今渡したのはなんでも券やで。最後のお願いを叶えてください」
 父ちゃんはピクリともしない。
 聞こえてると信じて続けるしかない。
「起きて。家に帰ろう」
 もう一度言った。
「父ちゃん、起きろ。家に帰るよ」
 だめだ。
 もう一度。
「父ちゃん。父ちゃんてば、なんでも券に書いたんだよ、起きろって」
「真吾、大きな声出さないで」
「だって、だって」
「分かったから。さ、待合室で父ちゃんが起きるの待ってましょ」


 僕はバカだ。
 こんな券一枚で、意識が戻るわけがない。
 母ちゃんに肩を抱かれ、僕はすごすごと出口に向かった。
「あっ! 」
 後ろで看護師さんが叫んだ。
 どうしたんだろう。
 振り返った僕がそこに見たのはーー

エレベーターが遅い。速く、もっと速く。
 着いた。開きかけのドアを無理矢理こじ開けてロビーに出る。
 目の前に待合室があった。窓の近くに母ちゃんがいた。
「母ちゃん! 」
 振り向いた母ちゃんは目を真っ赤にして泣いていた。
「父ちゃんは? ねぇ、父ちゃんはどうしたの」
「大きな声を出しちゃだめよ。こっちに来て」
 母ちゃんは、待合室の奥にあるICUと書かれたドアを開けた。
 手を消毒し、緑色のエプロンみたいなのを着させられた。
 もう一つのドアを開けると、ベッドが四台。その周りに色んな機材が置いてある。
 看護師さんが忙しそうにしていた。
 一番奥のベッドに母ちゃんは近づいていく。


 いた。
 父ちゃんが寝ていた。
 頭に直接、透明のチューブが刺さっていて、そこから血が流れている。
 右の手足が包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「父ちゃんが働いてる工場でね、今日、詰んであった材料が崩れたんですって。

父ちゃん、仲間を助けようとして自分が下敷きになったの。手と足、両方骨折してて、頭を強く打って」
 母ちゃんの声が震えてきた。泣きそうになるのを必死で我慢しているんだ。
「大丈夫。命に別状は無いって先生が言ってくれたの。でも、さっきから呼んでるのに、起きてくれないの。真吾、どうしよう。お願いだから起きてって頼んでるのに」


 母ちゃんの我慢の限界はそこまでだった。
 僕は、母ちゃんが手放しで子供みたいに泣くところを初めて見た。
 泣いている母ちゃんはとても小さく見えた。
「父ちゃん。とーおちゃーん。起きろよ。大好きな母ちゃん泣かしてどうすんねん。起きろってば」
 ダメだ。父ちゃんはピクリともしない。どうしたらいいんだろう。
 どうしたら――
「ごめんね。母ちゃん、しっかしりなきゃ。様態は落ち着いてるから。

そうだ、母ちゃん急いで来たから入院の用意全然してないのよ。お願いできる? 」
「分かった。本当に大丈夫? 」
「ありがと。あなたの顔見たら落ち着いた。全く、あの熊はいつまで寝てんだろ」
 良かった。いつもの母ちゃんに戻ってくれた。
 きっとずいぶん無理してるに違いないけどね。
 よし、とりあえず僕は僕でやることをやろう。
 用意する物をメモしてもらい、僕は家に向かった。
 

 その日、三時間目まではいつもと同じ普通の日だった。
 休み時間が終わり、教室に入ろうとした僕を教頭先生が呼び止めた。
「前田君、急いで職員室に来なさい。お家から電話だ」
 なんだろう。電話かけてくるなんて初めてだ。
 職員室に入り、受話器をとった。
「もしもし。僕だけど」
 電話の相手はお母さんだった。いつもの陽気な声じゃない。なんだかとても慌てている様子だった。
「真吾。落ち着いて聞いて」
「なに? どうしたの」
「お父さんが事故に遭って、救急車で運ばれたの。市民病院、知ってるわね? 

家に帰って、自転車で来てちょうだい。慌てないで、気をつけて来るのよ。

教頭先生にはさっき話しておいたから」
 電話が切られた。
 え、お母さんは何を言ってるんだろう。確か、お父さんが事故に遭ったとか言ってた気がする。
 お父さんが事故に遭ったってどういうことかな。


「前田君、さぁ早く用意して」
 そうだ。早く用意しなきゃ。父ちゃんが事故に遭ったんだ。病院へ行かなきゃ。
 クラスの仲間が話しかけてきたけど、うまく答えられない。
 父ちゃんが病院に運ばれたと言うのがやっとだった。
 本当は走っちゃいけない廊下を全速力で玄関まで向かう。
 靴を履きかえる時間も惜しい。僕はそのまま家まで駆けていった。
 お隣のおばちゃんが心配してくれたけど、ごめん、今はそれどころじゃないんだ。
 ランドセルを玄関に放り出すと、僕は市民病院に向かった。
 市役所の向こう側、公園の隣。途中、信号に引っ掛かったけど、僕は五分で到着した。
 大きな病院だから、どこに行けばいいか判らない。
 辺りを見渡すと、優しそうな看護婦さんがいた。
「あのすいません。救急車で運ばれた人はどこに行けば会えますか」
「あなたの御家族が運ばれたの? 」
「はい、お父さんが事故にあって」
「だったらさっきの搬送ね。あのエレベーターで四階に上がって。

降りたら待合所になってるから、そこに誰かいるんじゃないかしら」
 御礼を言うのも忘れて、僕は走った。
 わかってる、病院も走っちゃだめなんだけど、そんなことどうでもいい。
「父ちゃん、父ちゃん」
 いつの間にか僕は声に出して父ちゃんを呼んでいた。