家まであと十メートル。
うわ。なんであんな大声で歌ってるんだろ。
立ち止まったら、啓太が振り向いた。
「どしたん?真吾」
「なんでもない」
「あ。誰か歌ってる。誰だろ」
声の主はわかっている。でも教えたくない。
「誰でもええよ。宿題終わったら公園行くから」
なんとかうまくごまかせた。
「おかえりぃー」
そのとたん、二階のベランダから声が降ってきた。
父ちゃんだ。
洗濯物を干している最中なんだろうな、母ちゃんのブラジャーを持ったまま、手を振っている。
「元気でがんばってきたか、若様」
何が嬉しいのか、にたにたと笑っている。
「若様って……真吾のことか。じゃあ後でな、若様」
啓太が笑いながら走っていった。
あいつ、絶対、教室で言いふらすだろうな。
くそ。これも全部、父ちゃんのせいだ。
「ただいま。父ちゃん、歌いながら洗濯物ほすの止めて」
「なんで。父ちゃんの歌、そんなに下手か」
「うまいとか下手の問題ちゃう。友達に聞かれて、めっちゃ恥ずかしかった」
「はっはっは、すまんすまん。もっと練習しとく」
何を言っても無駄だ。父ちゃんは昔、ミュージシャンを目指していたらしい。
だから歌は上手い。でも、普通の大人はブラジャーを干しながらアイドルの歌なんか歌わない。
今度は鼻歌をうたいながら台所に向かった。ステレオの電源を入れたようだ。落語が聴こえてくる。
馬鹿笑いしながら、軽やかに食器を洗いだした。
『おあとがよろしいようで』
落語が終わると同時に洗い終えた。
「さてと、次は掃除か。いや、その前に飯やな。若様、腹すいてないか」
「すいてるけど。あんな、その若様ってやめてくれへんかな」
「何で? お前はうちの若様だろ。まだ殿様にはなれんし、姫様やないし」
「父ちゃんは子供の頃、なんて呼ばれてたん」
父ちゃんは、しばらくじっと考えてから答えた。
「ぼくちゃん、やったな」
部屋の中が静まり返った。僕は黙って父ちゃんを見ていたけれど、こらえきれなくなって吹きだしてしまった。
「ぼくちゃんて。父ちゃんがぼくちゃんて」
「それだけ上品で可愛らしかったんや、父ちゃんは。なんならおまえもぼくちゃんって呼んだろか」
「いえ、若様でけっこうです」
「なんや、遠慮深いやつやな」
父ちゃんは、また台所に向かった。
焼き飯にしようか、炒飯にしようかなんて言っている。
「焼き飯と炒飯ってどう違うん」
「焼き飯は焼く。炒飯は炒める。常識」
そうだったのか。いやいや、だめだめ。しっかりしろ、僕。
この人を信じたら、大変なことになる。
父ちゃんの言うことの八割はホラで、残りの二割は冗談なんだ。
「だったら、ピラフは」
「ピラフは……ピラっとしてフ」
「ピラッはまだ良いとして、フって何やねん」
「小さいことばかり気にしてると、父ちゃんみたいに大きくなれんぞ。父ちゃん、今年四十三歳で身長が百八十三センチあるけど、いまだに伸びてるからな。二年後には二メートルになる予定や」
十年後にはゴジラか。ツッコむだけ無駄だから、胸の中で言った。