何だろう、楽しいや。体は辛いけど、こんなに楽しい時間ってなかなか無い。
 なんとかがんばれそうだ。
 ところが、ここから先が長かったんだ。
 坂道はもう無かったけど、だらだらといつまでも平坦な道が続く。
 これが意外と体力を奪っていく。
 顔を上げているのがキツい。少しずつ父ちゃんから遅れてしまった。
 突然、父ちゃんが停まった。後ろを振り向いてにやりと笑う。
「どや。しんどいやろ」
 悔しいけど、返事もできない。
「坂道は辛いけど、がんばった分だけ御褒美がある。こういう何の変化も無い道が実は一番しんどいんや」
 父ちゃんはしみじみと続けた。
「平凡な毎日っちゅうのはしんどいねんでぇ。とりあえず水飲んどけ」
 五月とはいえ、日差しは強く、じっとしているだけで汗が噴き出してくる。
 すっかり温くなった水は、それでも僕を生き返らせてくれた。
「ええか。不思議なことに、少しずつ進んで行くといつかはゴールに着く。着いたら飯や。母ちゃんから特別予算を頂戴しとるからな、好きなもん食わしたるで」
「わかった。がんばる」
 もう一口、水を含んで僕は自転車にまたがった。
 幸い、風は追い風だ。
 少しずつ少しずつ、そうすればいつかは到着する。
 それを信じて、父ちゃんの背中だけを見て、僕はペダルを踏んだ。


「くそ。遠いな、金玉」
 ぶつぶつ文句を言いながら、それでも足は止めない。
「おーっ! ええもん見えたっ! 」
 父ちゃんが嬉しそうに叫んだ。
「見てみぃ、若様。あれ、彦根城やで。彦根城っちゅうたら彦にゃんがいるとこや」
 本当だ。お城だ。着いたんだ、とうとう。
 徐々にお城が近づいてくる。お堀が見えてきた。
「よっしやぁぁっ! 到着ぅっ! 一日目はここまでや。ようがんばったな」
 自転車を降りた途端、足がガクガク震えてきて止まらなくなった。
 僕は地べたに座り込んで、ぽかぁんと口を開いた。
「はは、ひっくり返ったカエルみたいやな。さて、飯にするか。なにが食べたい? 」
「焼き肉っ! 」
「ほほう。これだけ体を酷使して、果たして焼き肉が食べられるかな? ふっふっふ、試してみるのもよかろうて」
「父ちゃん、顔がワルになってるよ」
「これは生まれつきや。さ、行くでぇ」
 その夜食べた焼肉は、今まで食べた中で一番美味かった。
 父ちゃんは珍しく、ビールを注文しなかった。
 ゴールするまでおあずけらしい。
「父ちゃん、これからどうすんの? どこに泊まるの」
「宿は決めてある。ホテル琵琶湖や。その前に、この近くに銭湯があるからな、そこに寄るで。銭湯だけに」
「戦闘開始」
「あ。くそ、先に言われてもうた」
 僕は銭湯に行ったことが無かったから、これもまたすごく楽しかった。
 父ちゃんが例によってアイドルの曲を歌うのには参ったけど。
「ええか、風呂上りのコーヒー牛乳は腰に手をあてて飲むのや」
「おいっす」
 風呂上りで自転車に乗るのって、なかなか気分がいい。
 しばらく走ると、琵琶湖の岸辺に着いた。

 前方に山が見えてきた。
「父ちゃん、あの山越えるんか」
「当ったりぃ~。さぁ、根性見せろよ」
 道は徐々に角度を上げてきた。緩やかな登りだったのは、最初の数分だけだ。
 ペダルが重い。
 車が行き交う道なので、ふらふら走るとクラクションを鳴らされる。
 さすがに父ちゃんも鼻歌を歌う余裕が無くなってきた。
 でも話す余裕はあるみたいだ。
「ええか、この苦しさを覚えとき。こうやってしんどい思いをして、坂を上りきると、その先には素晴らしい景色と楽な下り坂が待っている。人生と同じなんや。ほら、もうそこが頂上や」
 上り詰めたそこは、まだ途中だった。
 薄暗い坂はまだまだ先がある。
「父ちゃん。これも人生なの? 」 
「……辛いことの連続やのう。人生っちゅうのは」
 『今度こそ頂上だ』その台詞を三回聞いた後、ようやく上り坂が終わった。
 目の前に琵琶湖が広がる。
 すぐそばをトンビが飛んでいった。
 僕は言葉も出せずに、ただ目の前の風景を眺めていた。
「どや。ええ眺めやろ。おまえが自分の足で手に入れた眺めや」
「足で手に入れるっておかしいよ父ちゃん」
「細かいことは言いっこなし。さ、後は下るだけやで」
 下り坂は、まるっきりジェットコースターみたいだ。
「ノーブレーキで行くっ!! 」
 そう宣言して走り始めた父ちゃんは、最初のカーブでいきなりブレーキをかけた。
 あっぶなぁ、とか言ってる。
 まぁ、そんなところだろうな。僕はくすくす笑いながら後をついていった。


 自転車で山を越えるなんて、昨日までは夢にも思わなかった。
 これだけでも充分満足だけど、まだ旅は始まったばかりだ。
 時々父ちゃんが地図を広げて確認している。今まで通ってきた道を赤ペンで塗りつぶしているんだけど、見なければ良かったと思うぐらいの距離だった。
「さてと、次なる目的地は能登川やな。そこで飯食って、あとは彦根までノンストップや」
「人間の体だとどのくらい? さっきは親指だったけど」
「そうやなぁ。能登川で膝ぐらいか。彦根は……丁度、金玉あたりかな」
「彦根の人に叱られるで」
 普段以上にバカな父ちゃんだ。
 ああそうか。父ちゃんは、こうやってバカなことを言って僕を楽にさせてるんだ。


「よっしゃぁ、ここらで飯にしよか。母ちゃん特製のおにぎりがあるでぇ」
 二人並んで琵琶湖を眺めながら、でかいお握りにかぶりつく。
「美味いなぁ。ただのおにぎりが、なんでこんなに美味いんやろな、父ちゃん」
「あほう。ただのおにぎりちゃう。母ちゃんの愛情がたっぷり包まれとる」
「……言うてて恥ずかしない? 」
「全然。好きな人のことを好きと言って何が恥ずかしい」
 聴いてるこっちが恥ずかしいんだけどな。
 お握りにかぶりついたまま、父ちゃんは地図を広げた。
「なふぁなふぁへへふぇーふはな」
「父ちゃん。食べるか喋るかどっちかにして。何言うてるかわからん」
 はむはむと一気に食べ終わる。ほんと、まるっきり熊みたいだ。
「なかなかええペースやな。余力のあるうちに、距離を稼いでおきたいからな。ぼちぼち出発しよか」
「おいっす。次は彦根だね」
「そや。金玉めざして出発! 」
「だから叱られるっちゅうねん」

「んじゃ行ってくる。うまいこといったら、帰りは明日の六時頃やな」
「気ぃつけてね。あ、これ持ってき。梅干し」
「おお。こらええわ。さすがやのう、嫁はん。どれどれ……すっぱぁっ! 」
 タコみたいな口で父ちゃんは、バカデカいリュックサックを背負うと自転車にまたがった。
 百二十キロってのが、どれほどのものか見当もつかないけど、こうなったら始めるしかない。
 雲一つ無く晴れ渡る五月の朝、僕達は出発した。


 まずは市内を通り抜けて、琵琶湖畔を目指す。
「ウォームアップや。ゆるゆると進むからな」
 風が爽やかだ。名前は判らないけど、良い声で鳥が鳴いている。
 ちょっと、いやかなり気分がいい。
 そのせいか、あっという間に琵琶湖が見えてきた。
 キラキラと太陽を反射する湖面に、ヨットが浮かんでいる。
「うーん、まことに気持ちがええのう。さて、ここからが大変やからな。まず、合図を決めとこうか」
「合図? 」
「そや。縦一列で走るからな、後ろで何かあってもわからんやろ。何かトラブルが起きた時はベルを三回連続で鳴らせ。前を走ってる時、段差とか穴があったら、手を下げて知らせる。お互いに助け合わなあかん」
 なるほど。助け合いか。まだまだ道のりは長いもんな。
「それと、これや。真似してみ。まず拳を握って、親指だけ突き出す。そう、それや。覚えとき、サムアップっちゅうねん」
「サムアップ? 」
「そや。親指をぐぐっと。それでよし」
「これはどういう時に使うの」
「万事オッケーって時や。よっしゃぁ、行こか」
 
 僕らは再び走り出した。
 ゴールデンウィーク中のせいか、車がばんばん走ってる。
 でも僕らが選んだのは自転車専用道だから、全然大丈夫。
 父ちゃんは鼻歌を歌っている。
 よくもまぁ、次から次へ歌えるもんだ。
 さすが、毎日聴き込んでいるだけある。
 ええと、今ので十曲目か。
 ところで、今どこら辺なんだろう。
 父ちゃんの背中に向けて、僕は大声で訊いた。
「父ちゃん。今、どれぐらい走ったの? 」
 前を向いたまま、父ちゃんが答える。
「知りたいか」
「教えてよ」
「よっしゃ、わかりやすいように人間の体でたとえる。ゴール地点が頭。我が愛するマイホームが右足の小指として」
「うん」
「今は親指やな」
「ひぇぇぇっ!」
 遠い。遠いよ、ゴール!


 父ちゃんが速度を落とし始めた。どうやら前方に見えるコンビニを目指しているようだ
 店に入ると、父ちゃんは真っ直ぐ飲料コーナーに向かった。
「よし、水分補給や。腹が減る、喉が渇くは長旅の最大の敵やからな」
「父ちゃん。ビールは水分補給になるんか」
「え。おお、これは恐ろしい。知らん間にこの手が」
「やかましわ。水にしとき」
 はっはっは、冗談冗談なんて笑ってるけど、あれは絶対飲む気でいた。
 どこまで本気なのか、今一つわかんないんだよ、この人は。
「さて、出発するでぇ! 最初の目的地は近江八幡の国民休暇村。ちなみに山一つ越える」
「いやだぁぁっ! 」
 僕の渾身の叫びを無視して、父ちゃんはするすると走り始める。
 十一曲目の鼻歌が始まった。

 どこかに連れて行ってくれるってのが、僕の予想だ。
 でも、あまりお金が掛からない場所じゃないとダメだし、何よりも父ちゃんは運転免許を持ってないんだ。
 ほんと、いまどき珍しい父ちゃんだと思うよ。
 だから移動手段は自転車か電車しかない。
 ということは、市内の山か川、せいぜい美術館ぐらいだろうな。
 ところが、父ちゃんのプレゼントはそのどれでも無かった。
 
「なんだって。もう一度言ってくれるか」
 啓太が訊き直すのも無理はない。
 それほど意外なプレゼントだ。
「何度でも言うたるよ。こほん。琵琶湖一周一泊二日サイクリングーッ!! 」
「ああやっぱりそう言ったのか。あのさ、若様」
「だから若様は止めろてば」
 僕の抗議を無視して、啓太は心配そうに続けた。
「琵琶湖一周って何キロあるか知ってるか」
「知らん」
「教えてあげるよ。約百二十キロメートルだ。学校の校庭が一周四百メートルだから、三百周だな。それを一泊二日で回るってか。あ、なるほど今まで見たことないものってのは、地獄だな」
 具体的な数字をあげられて、僕も事の重大さが分かってきた。
 同時にすごく後悔し始めた。
「おじさんも大変だろうし、やらないかもしれないよ」
「甘い。父ちゃんは絶対やる。そういう人やねん。できない約束はしないって、いつも言ってる」
「できない約束はしない。かっけぇ! 僕のパパなんか、約束やぶってばっかりだ。いいな、最高じゃん」
「最高かどうか分からんけど、とにかく困った。僕、んなしんどいことイヤやで」


 決行は来月最初の土曜日。
 僕は照る照る坊主を逆さまに吊した。
 どうか雨になりますように。

「ただいま、若様ー。起きんかい」
 目を開けると、顔のすぐ前に熊がいた。
「わぁ。熊だ」
「誰が熊やねん。ダンディーな父ちゃんでおます。んなことより、さっさと起きんかい」
「……何の用? まだ七時やん」
「何言うてんねん。今日は琵琶湖を制覇する日やろ。朝からめっちゃええ天気や」
 言われなくても、窓から入る陽の光で分かった。
 僕は渋々起きた。
 まず真っ先に、照る照る坊主をゴミ箱に叩き込む。
 こうなったら仕方ない。イヤだと言っても父ちゃんは聞かない。
 母ちゃんに頼んだら、止めてくれるかもしれないな。
 うん、そうしよう。それがいい。母ちゃんの言うことなら、父ちゃんは逆らわないし。
 顔を洗って食卓につくと、母ちゃんが皿を持ってきた。
 山盛りのおにぎりだ。
「がんばって行っといで」
 だめだ。母ちゃんもめっちゃ乗り気だ。
 僕、まだ十歳なのに絶望って言葉の意味が分かった気がする。

次の日曜日、僕は誕生日にもらったプレゼントを持って公園に急いでいた。
 このプレゼントだけは、どうしても啓太に見てもらいたかったからだ。
「おいっす。で、何もらったんだ」
「笑わないって約束するか」
「そんなに面白いの」
「ええから。約束するか」
「するするするったらするー」
 軽い返事だけど仕方ない。どっちにしろ、見てもらいたいんだ。
「はいこれ」
「なにこれ」
 ポケットから取り出したのは、何枚かの紙だ。
「見れば判るよ」
 啓太は渡された紙を大きな声で読み上げた。
「なんでも券。……ってあれか。肩たたき券とかお手伝い券とか」
「そう。その通り」
 啓太は、急に顔をしかめた。なんでも券を睨みつけている。
「ぷ。ぷはははは、すげぇっ」
 どうやら笑うのを我慢していたようだ。
「あ。笑った。約束破ったな」
「だって、なんでも券て」
 啓太が笑うのも無理はない。笑うか呆れるかどっちかだ。まだ笑ってくれる方が助かるぐらいだ。
「だったらこの券でさ、ゲーム買ってくださいって頼んだら」
「ダメ。裏も読んでみ」
「なになに……ただし、次の目的には使えません。①、商品と交換 ②、お金がいっぱいかかること ③、学校をサボりたいから手伝って等々、親として実現不可能なこと。うーん、おじさん考えたねぇ」
 考えたなんてもんじゃない。どこからこんな発想が浮かんできたのか、じっくり説明してもらいたいぐらいだ。
「これ、何に使うの」
「そこやねん。思いつかへんから、一緒に考えて」
「オッケー。えっと、お金が掛かっちゃダメってのが難しいな」


 ああでもない、こうでもないと二人で一生懸命考えたけれど、なかなか良いアイディアが浮かんで来ない。
「映画とかもダメだし、遊園地もダメか。キャッチボールぐらいしかないぞ」
「ダメ。父ちゃん、球技苦手だから。空手なら茶帯まで行ったらしいけど」
「茶帯って強いのか」
「どやろ。何もしない人よりは強いやろうけど。見たこと無いし」
「見たこと無いか。あ、それだ。良いこと思いついた。見たこと無いものを見せて、ってのはどうだ」
 見たことの無いものを見せて欲しい。なるほど、良いかもしれない。
「うん。ええなそれ、もらい」
 正直、大したものは期待できないけど、父ちゃんがどんな風に解決するか見てみたい。
「おじさんどうするかな。うわぁ、すっげぇ楽しみ」
「決まったらすぐに教えるし」
 その夜。
 僕は早速、父ちゃんにリクエストした。
 父ちゃんは、まばたきもせずにしばらくじっと考えてから、ゆっくりと僕を見た。
「見たこと無いものを見せてか。やるな、なかなかグレートでワンダフルなリクエストやな」
「ふっふっふ。さあどうする父ちゃん」
「そやな、しばし待たれよ。必ずや、君の期待に応えてみせる」
 不敵に微笑むと、父ちゃんはパソコンに貼りついて何か探し始めた。
 ちょっと、いやかなり楽しみになってきたぞ。