さっきのやつらの笑い声が聞こえてきた。スーパーの駐車場の中にいるみたいだ。
 僕は大声をあげながら走っていった。
「なんやねん、おまえ」
「啓太から離れろや。警察に言うからな」
「おもろいのう、警察がなんぼのもんやねん。おまえも一緒にボコったろか」
 一番背の高いやつが突っ掛ってきた。
「やめろよ、そいつは関係ないだろ」
「関係ないだろ、か。むかつくんじゃ、その東京弁! 美しい友情を認めて、二人ともやったるわ」
 そいつが話し終える前に、啓太が頭を下げて突っ込んでいった。
 僕はその隣のやつに飛びつく。

 ケンカなんてやったことないから、どうやればいいか分からないけど、とにかくしがみついた。
 腹を蹴られて、顔を殴られて、どうにも立っていられなくなった。
「金用意しとけよ、ええな。持ってこんかったら殺すで」
「怖! たっちゃん怖いわ。容赦ないわ」
「当たり前じゃ。俺はこういうアホがいっちゃん嫌いやねん。力もないくせに突っかかってくんのがな」
 悔しいけど、腹に力が入らない。
 奴らが立ち去るのを見ているしか出来なかった。
「ごめんな、僕のせいで。もう会わない方がいいよ、奴らの狙いは僕だし」
「そんなこと言うな。僕が何とかする。とにかく今日は家に戻って、絶対出たらあかんからな」
 啓太をマンションまで送り届け、僕も家に帰った。
 
  ああは言ったけど、どうしたらいいか何一つ思いつかない。
 なんとなく視線が机の引出しに向かった。父ちゃんのなんでも券が中に入っている。
 一枚取り出して見つめた。
 これに『助けて』って書いて渡したら、何とかしてくれるかな。
 でも、父ちゃんを巻き込みたくないし、余計な心配させたくない。
 ぼんやり考えていたら、傷が酷く痛みだした。
 とりあえず、顔を冷やさなきゃ。血で汚れたシャツも洗って。
 なんでも券をポケットに突っ込んで洗面所に向かった。
 自分の顔を見ていたら、余計に悔しくなってきた。

 どうしたらいい。どうしたら、友達を救えるんだ。


「たっだいまぁ。邪魔すんでぇ。邪魔すんなら帰ってぇ」
 ああ。父ちゃんが帰ってきた。相変わらず馬鹿やってる。

「おはよん。若様、なかなかおもろい夢見てたようやな」
 父ちゃんがにやにやしながら話しかけてきた。
「え。なんで」
「そやかて、ぐふぐふ笑いながら『すげぇ』って寝言いうとったがな」
「ふっふっふ。教えてあげへん」
「でかいオッパイのお姉ちゃんが出てきたとか」
「あなた」
「あ、おはよう。今朝も綺麗やな、嫁はん」
 父ちゃんは顔洗ってくる、って逃げ出した。
「ほんとにもう。母ちゃんはなんで父ちゃんと結婚したの」
「日本語を話す熊って珍しかったからよ。母ちゃんも父ちゃんもお仕事行ってくるからね、今日はゆっくり休んでなさいね」
「え? 父ちゃん、仕事なの? 昨日、琵琶湖一周から帰ったばかりなのに」
「なかなかがんばる熊なのよ、あれは」


 二人が居なくなった家は、とても静かになった。
 アニメを見て、ゲームをしてたら昼になった。

母ちゃんが作っておいてくれたご飯を食べてから、僕は公園に行った。
 啓太がいたら琵琶湖のことを聞いてもらえると思ったからだ。
「あ。いた」
 啓太はジャングルジムのてっぺんで空を見ていた。
「おーっす」
 何故か驚いたように体を震わせてこっちを見た。
「若様か。びっくりさせんなよ」
「だから若様は止めろって。……おまえ、どうしたんやその顔」


 右目が腫れて、糸みたいに細くなっている。
 唇も切れて血が固まっていた。
「なんでもない。ちょっと転んだだけ」
「どないな転び方したらそうなんねん。誰かにやられたんか。言うてくれや」
 くちごもっていた啓太は、しつこく聞く僕に根負けして、とうとう口を開いた。
 中学生グループに絡まれて、殴られたらしい。
「なんで? なにやったん」
「何も。目があっただけ。一人だけ知ってるやつがいた。同じマンションのやつなんだけど。

金持ってこいって言われて、断ったらいきなり殴られた」
「ひでぇ。警察とか学校に」
「だめ。言ったらもっとひどいことされるよ」
「そやけど」
 なんとか説得しようとする僕から顔をそらした啓太が、突然ジャングルジムから下り始めた。
「逃げろ。やつらがこっちに向かってくる」
 啓太はそう言い残すと、道路を右側に向かって走りだした。
 その後を派手な格好の男子が五人、笑いながら後を追いかけていく。
 僕は、怖くて逃げようとした。
 だって、あんな連中にかなうわけがないもの。
 反対の方に走り出した途端、父ちゃんの顔が浮かんだ。
 父ちゃんはこう言っていた。
「啓太くんはおまえを巻き込みたくないから、おとりになって逃げたんや。

そんな友達をおまえは見捨てんのか。おまえ、それでも金玉あんのか」
 僕は拳を握りしめて、自分のほっぺたを殴った。
「待ってろ、啓太。今、助けに行く」

「着いた! 頂上や」
 三百六十度、見渡す限り琵琶湖だ。
 遊覧船が橋の下を潜り抜けていく。
「やったな。よう頑張った。さて、どうする? 

途中のコンビニでまた休憩するか、それともノンストップで帰るか」
「そんなん決まってるで。はよ帰ろ、母ちゃんが待ってる」
「せやな。さっさと帰ろうか。母ちゃんと唐揚げとビールと、猫と犬と幸せが待つ家に」
「いろんなもん待ってるな、父ちゃん」


 今までの長い道のりを越えてきた僕達にとって、そこから家まではあっという間だった。
 ガソリンスタンド、歯医者、ラーメン屋、コインランドリー。
 いつの間にか、見なれた景色の中を走っていた。
 次の信号を曲がると、家が見えてくるはずだ。
 家の前で母ちゃんが手を振っていた。
「はは、めっちゃ手ぇ振ってるで。そない俺が帰ってきたんが嬉しいんかな」
 そんなこと言ってる父ちゃんの方が嬉しそうなんだけど。
「ただいまーっ! 」
「おかえり、わんぱく坊主ども。とりあえずそのまま風呂へ直行! 」
「えーっ、お帰りのチュウは無しかいな」
「やかまし。そない薄汚れた熊公が何を言う。さっさと風呂入ってき」


 風呂から上がった僕らを大量の唐揚げが待っていた。
「はい、ビール。今日は特別にエビスにしといたから」
「おおーっ、気が利くなんてもんやないな。こんにちは、エビッさん」
 くうー、しみるでぇ、と雄たけびをあげる父ちゃんの横で、僕も同じように声を張り上げた。
「美味いっ! 母ちゃんの唐揚げ最高っ! 」
 笑っていた母ちゃんが、ふと思い出したように訊ねた。
「そういえば、ちゃんと見せてもらえた? 今まで見たことのないもの」
 僕は見てきたものを全て話した。
 琵琶湖、彦根城、銭湯、満天の星、琵琶湖大橋。


「それだけやないで。あと一つ、おまえが見たこと無いものを見せてやる」
 そう言うと父ちゃんは、携帯を開いて画面を見せた。
 いつの間に写したのか、そこには日焼けした僕がいた。


「これは十歳で琵琶湖一周サイクリングに挑戦して、見事に走りぬいた男や。

どや、今まで見たことないやろ」
 画面の中の僕は、なんだかすごく輝いて見えた。
「なかなかカッコいい子やな」
「そうよ、あなたは母ちゃんのカッコいいランキング一位よ」
「ええーっ、嫁はん俺は俺は」
「あなたはランキング外。殿堂入り選手やん」
 父ちゃんの顔が赤くなった。
 日焼けしてるから、赤ワインみたいな色だ。
 その夜、僕は夢を見た。
 自転車で富士山に登っている夢だった。

「あと少し、すぐそこや、よっしゃ到着ぅっ! 」
 眼下に琵琶湖が広がる。すごい。端から端まで全部琵琶湖だ。
 湖面がキラキラ光って、昨日の星空が降りてきたみたいだ。
 登ってきた道がくねくねとヘビみたいに山肌にしがみついているのが見えた。


「ほほう、あんなとこを登ってきたんか。やればできるもんやな」
「父ちゃん。こんな景色、自分で登ってこな見られへんよな」
「ええこと言うた。車で来てもな、ああ綺麗やなぁで終わる。でな、すぐに忘れてしまうねん。

そやけど自分の力で見た景色は一生忘れへん。今まで見たことないもの、その一がこれや」


 確かにそうだ。こんな景色、今まで見たことが無い。
 うん? 待てよ。その一って言ったよな。二も三もあるんだろうか。
「よし、ぼちぼち出発しよか。この先は、サイクリングロードをひたすら進むだけや。

休憩はコンビニで取る。行くで」
 調子に乗って飛び出した父ちゃんは、下り坂でまた、あっぶなぁ、とブレーキを踏んだ。
 気持ち良い風を受け、僕達はあっという間に山を下った。
 琵琶湖の西側は山道が少ない。その代わり、交通量が多い。僕達は慎重に進んだ。
 所々にあるコンビニでこまめに休憩を取る。その都度、地図を広げて赤線を引いていく。
 もう既に四分の三ぐらいまで来た。


「順調、順調。到着予定時刻は夕方六時過ぎくらいだな」
「僕、帰ったら母ちゃんの唐揚げ食べたい」
「父ちゃんはとりあえずビールや。メールでオーダーしとくわな。さて、唐揚げとビール目指して頑張ろか」
 行く手に待ち構えるのは、旅の最後にして最大の難関、琵琶湖大橋だ。
 とにかく高い。急な坂道は、見上げるだけで足が震えてくる。
 それでもここを乗り越えないことには、僕達の町に戻れない。
「顔上げて。うつむくな。目標をしっかり見て、一歩ずつ進むのや」
 一歩ずつ。
 目標をしっかり見て。
 あと少し。
 もう少し。
 そして。

「うん、ここら辺でいいか。じゃあ寝るぞ、若様」
「え? え? 寝るぞって、まさかここが」
「ようこそホテル琵琶湖へ」
 リュックサックから寝袋が出てきた。
「こんなの持ってたの? 」
「夜勤の時にな、これで仮眠するのや。あ、大丈夫。ちゃんと洗ってきたからオヤジ臭くないよ。ささ、どうぞどうぞ」
「父ちゃんはどうするの? 」
「父ちゃんはな、若い頃よくオールやって、オールっちゅうのは夜通し飲むっちゅうことやけどな、電車が無くなってしもて公園のベンチで寝たもんや。いわば野宿のプロやな。だからこんな砂浜なんかは上等のベッド」
 そう言って、さっさと横になった。
 寝袋なんて初めてだ。ごそごそと入り、ファスナーを閉じた。
「うわ。うわぁ。これ、めっちゃ気持ちええ」
「そやろ。寝袋っちゅうのは、こう見えてなかなか悪魔の道具でな。一度なじんでしもたら、二度と抜けられへん」
 確かにすごく寝心地がいい。
「父ちゃん、ほんとに大丈夫? お布団いらないの? 」
「ふ。上を見てみぃ。満天の星空が父ちゃんの布団や」
「それ、かっこええ思てるの? 」
「いやあ、綺麗な星空やなあ。あれはオリオン座かな」
「オリオン座は冬の星座やで」
「誰が決めたんや」
「神様」
「ほな勝たれへんな」
 星空の下の親子漫才は突然終わった。父ちゃんが寝ちゃったからだ。
 そうか。父ちゃん、夜勤明けで自転車に乗り続けてるんだもんな。
 琵琶湖の波の音が聞こえてくる。降るような星を見ていたら、僕もいつの間にか眠っていた。
 
「おーい。起きろー。コンビニで朝飯買うて来たからな。食ったら出発するぞー」
 おでこに何か置かれた。
「この感触はおにぎりやな。中身はシーチキンマヨと鮭」
「ぎくぅっ! な、なんで判ったんや」
「父ちゃん、いっつもそれしか買わへんやん」
 冷たいお茶を飲んだら、スッキリ目が覚めた。
 父ちゃんが地図を広げて確認している。今で三分の一ぐらいかな。
「現在地はここ。午前中にこの辺りまで行っときたいな」
 父ちゃんが対岸を指した。
「ただし、ここに最大の難関がある。山とトンネルや。どうする? 今やったら、来た道を引き返せるで」
 僕は思いきり恰好つけて言った。
「逃げるのは苦手だな。進もうぜ、父ちゃん」
「おーっ! かっけぇっ! 」

 かっこつけて出発した僕は、父ちゃんが言う最大の難関を前にして、激しく後悔していた。


 これは坂道なんてもんじゃない。
 少しゆるやかな崖だ。
 乗ったまま越そうなんてとんでもない。
 こんなところで足を使ってしまったら、残りの行程を走り抜くなんて夢のまた夢になる。
 僕たちは素直に自転車を降り、ゆっくりと押し始めた。
 息があがる。
 心臓が無理無理って叫ぶ。
 足が震えてくる。
「がんばれ。うつむいたらあかんで、余計しんどなるからな。もう少し、もう少しや」
 父ちゃんの呼吸も荒い。
「くそったれぇっ! 負けへんわいっ! 」
 父ちゃんがスピードを上げた。僕も負けてられない。腹の底から声を出し、後に続いた。