翌日、学校から帰る途中、てっちゃんとかいう子が話しかけてきた。
 最初に父ちゃんの顎を殴ったやつだ。
「なぁ、ちょっとかまへんか」
「なんだよ、まだやんのか」
「違う違う。俺、もうあんなことやらへんて決めたんや。おまえの父ちゃん、めっちゃ強いからな」
「そやったら何やねん」
「あのな、おまえんとこの父ちゃんに道場紹介して欲しいんやけど」

 帰って話したら、父ちゃんはほっとしたような顔になった。
「良かった。なんとか一人だけでも思い直してくれた」
 父ちゃんは心底からあいつらを心配してたんだな。
 僕は、そんな父ちゃんが今までよりも好きになった。


「父ちゃん、啓太にも報告してくるよ」
 いつものように公園に行ったら、まだ来ていなかった。
 しばらく待ったけど来そうにない。
 マンションに行ってみたんだけど、オートロックだから中に入れない。
 部屋の場所は知ってるけど、番号が分からない。
 郵便受けで名前を探してたら、丁度買い物帰りのおばさんが入りかけたので、すぐ後ろについた。
 作戦成功、うまく入れた。
 啓太の部屋は七階の一番端っこだ。
 玄関をノックしようとした時、中から怒鳴り声が聞こえてきた。
 啓太の声だ。立ちすくむ僕の前で扉が開き、啓太が出てきた。
「勝手にしろよ! ママなんて大嫌いだっ! 」
 啓太はそこでようやく僕に気づいた。
「……丁度良かった、付き合ってよ」
「い、いいけど」
「待ちなさい、啓太。ママの話を聞いて」
「うるさいっ! 」
 啓太は僕の手を引いて走り出した。つられて僕も走る。

 エレベーターに飛び乗ると、啓太は扉が閉まるまで閉ボタンを叩き続けた。
 いつも朗らかな啓太のこんな姿を見るのは初めてだ。
 声もかけられないまま、僕は見守っていた。
「ママがさ」
 低くかすれた声もいつもの啓太と違う。多分、怒鳴り続けたせいだろう。
「パパと離婚するけど、あんたはどっちと一緒に暮らしたいって訊くんだ」
「離婚……ってマジで? 」
「僕はパパもママも大好きだ。けど、パパもママもお互いを嫌いあってる。

大好きな人同士が憎みあってたら、どうしたらいいか分かんないよ」
 段々と声が震えてくる。泣いているのかもしれない。

「殺したる。おっさん一人ぐらい殺しても、俺ら少年法で守られてんねん」
 父ちゃんは悲しげな顔つきであきおを見ると、初めて構えた。
「あきおくんとかいうたな。最初に断っておく。おっちゃんはそれほど稽古しとらんからな、

ナイフ出されたら手加減できん。すまんが全力でいく」
 父ちゃんの顔つきが変わった。今までに見たことのない目だ。
 どうするんだろう。手加減できないって、やりすぎたら警察に逮捕されるんじゃないだろうか。
 その心配を見透かしたように、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
「ヤバいっ! ポリや」
「あかん、俺こんど捕まったら補導だけですまへん」
「俺、父ちゃんにどつかれてまう」
 あわてふためく様子を眺めていた父ちゃんは、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
 サイレンは徐々に近づいてくる。
「君ら、ここはおっちゃんに任せて向こう側から逃げろ」
 何を言い出すんだ、このオヤジは。そんな顔のやつらに、父ちゃんは続けた。
「今日ので足りんかったら、またいつでも相手してやるから。ただ、もうこの子らには構うな」
 父ちゃんにじっと見つめられたあきおは、渋々うなずいた。
「それとな、説教する気はないけど一つだけ。君ら、もったいない時間の使い方やめとき。

そこの君、ええパンチ持ってるがな。おっちゃんが通ってた道場に来い。世界狙えるかもしれんぞ。

それとそこの君は、ごっつぅええルックスやないか。アイドルめざせるんちゃうか。

ええか、まだ君らの人生始まったばかりや、諦めるのは早いでぇ。迷ったらいつでも相談乗るから」
 すぐそこまでパトカーが近づいてきた。
「行けっ! おっちゃんがおとりになる」
 皆、一目散に逃げ出した。
 驚いたことに何人かは、父ちゃんに頭を下げてありがとうって言ったんだ。


「父ちゃん、僕は残る」
「僕も残ります、おじさん」
「おお、そうか。なかなか見上げた根性やな。ちょっと待っとき」
 父ちゃんは何故かクスクス笑いながら、公園を出ていった。
 戻ってきた父ちゃんの手にスマートフォンがあった。
 そのスピーカーからパトカーのサイレンが鳴り響いている。
「なかなかええ音してるやろ。アラームで鳴るようにセットしといたんや。

だんだん大きくなるように設定したからな、パトカーが近づいてくる感じに聞こえたわけや」
 ぽかんと口を開けた僕の横で、啓太が手を叩いて笑った。
「最高っ! おじさん、最高だよ」
「ケンカで一番難しいのは、勝ち負けよりもどうやって止めるかやねん。若様、頭大丈夫か? 痛ないか」
「うん。もう大丈夫。血も止まったし」
「良かった。さ、とりあえずこれで悩まんですむやろ。腹減ったな、飯でも食おうで。

啓太くんも家に来なさい。おっちゃんが焼き飯か炒飯作ったろ」
「おじさん、焼き飯と炒飯って何が違うんですか」
「若様、説明したり」
「焼くのが焼き飯。炒めるのが炒飯。ちなみにピラッとしてフッてなるのがピラフ」
 結局、出てきたのはチキンライスだった。

「痛いのはまだまだこれからや。あきお、おまえもやったれや」
「ういっす。おもろなってきたな。おっさん、子供見てんでぇ、もうちょい頑張ったりぃな」
 あきおって奴は蹴ってきた。爪先が父ちゃんの右横腹を狙ってくる。
 父ちゃんはその蹴りをぎりぎりで避けた。
「あっぶなぁ。んなもん当たったらたまらんがな」
 と、父ちゃんカッコ悪い……やっぱり茶帯じゃダメなんだな。

いったい、この人は何をしに来たんだろう。このままじゃ、僕らまたやられちゃうよ。
「ごめんな、啓太。あんな情けない人とは思わなかった」
 謝る僕に啓太は言った。
「違う。よく見ろ。最初に殴ったやつ、手を押さえてるだろ? きっと拳が痛くて続けられなかったんだ。

今の蹴りだって、本当なら当たっててもおかしくないよ。おじさん、わざとやられっぱなしになってるんじゃないかな」
「なんでそんなこと」
「わかんないけど」
「おら、おまえら何ゴチャゴチャ言うてんねん」
 残りのやつらが僕らに向かってきた。
 中の一人が、持っていた木刀で殴りかかってきた。啓太目掛けて振り下ろす。
 僕は無我夢中で飛び出してそいつに抱きついて止めた。
「離せやくそガキ! 」
 木刀の端で頭を殴られ、ふらついた僕は地べたに座り込んだ。
 額を温かい何かが流れていく。触った指が真っ赤に染まった。
 血は、額を伝って鼻先から地面に落ちていく。
「おじさん、真吾がっ! 」
 振り返った父ちゃんが、血を流して座り込んでいる僕を見た。
 泣きだしそうな顔で走り寄ってくる。
「大丈夫か、見せてみぃ。うん、ちょっとかすっただけやな、痛ないか。

ハンカチ持っとったやろ、ぎゅうって押さえとき」
「おっさん、なんしとんねん。相手してんのはこっちやで」
 立ち上がった父ちゃんの体がくるりと一回転する。

 高く上がった右足が、首筋を捕らえるのが見えた。
 相手は糸を切られた操り人形のように、くたくたと崩れ落ちた。
「できれば穏やかに済まそうと思とったんやが。おまえら、うちの宝物に何さらしてくれるんじゃっ! 」
 父ちゃんが吼えた。
 それからが物凄かった。父ちゃんのことをいつも冗談で熊って呼んでるけど、まさにその通りだ。
 父ちゃんの足が相手の太ももに当たると、相手は立っていられなくなった。
 腹を殴られた相手はダンゴ虫みたいに丸まる。
 二人一度にかかってくる相手を前蹴りと後ろ蹴りで倒す。
 まるで映画のワンシーンみたいだ。
 とうとう最後の一人になってしまった。あきおとかいうヤツだ。
「くそったれ、おっさん空手やっとんのか! 」
 あきおは、尻のポケットから何か取り出した。

 陽の光に輝くそれは、折り畳みナイフだった。

相手は中学生や高校生もいる。大きい奴も一人や二人じゃない。
「さて、行くか。敵は公園にあり、やな」
 どうしてそんなに落ち着いているのか分からないけど、とにかく僕は父ちゃんを信じることにした。
 公園の手前で父ちゃんは足を止め、ポケットからスマートフォンを取り出して植え込みに隠した。
「これでよし、と。おっ、もう啓太くん来てるな」
 ベンチに座っていた啓太が立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
 昨日腫れてた右目は、完璧にふさがっている。
 父ちゃんは酷いなって一言だけ呟いて、啓太の頭を撫でた。
「啓太くんもよう頑張ったな。友達を巻き込みたくないからって、なかなか男前やないか。

御両親から何か訊かれた? 」
「いえ。ママは実家に帰ってるし、パパは昨日も遅かったから顔あわせてないんです。

そんなことより、大丈夫ですか? やつら、結構デカいですよ」
「大丈夫や、父ちゃん空手やってたし」
「すげぇっ! 何段ですか」
 父ちゃんは大げさに胸を張った。
「ふっふっふ。聞いて驚くな。一級や」
「一級? 」
「段持ちは黒帯やけどな、父ちゃんは茶帯やった」
 ふくれあがっていた不安が爆発しそうになってきた。
「茶帯って強いの? 」
「どうかな。やってみな分からんなぁ」
 啓太が不安そうに僕を見る。僕も同じような顔で見つめ返すしか無い。


「お。来よった来よった。アホがようさん来よったで」
 馬鹿笑いしながらこっちに歩いてきた奴らは、父ちゃんを見て立ち止まった。
「おっさん、なんや。こいつらの親か」
「ぴんぽん」
「何がピンポンじゃ。で? なんやの? 俺らに注意でもしよってか」
「子供のケンカに親が出てきてどないすんの」
 口々に罵るのを黙って聞いていた父ちゃんは、しばらくして低く静かな声で答えた。
「おまえらのは子供のケンカやない。子供が狂犬に咬まれそうな時に守るのが親や」
「おもろいのう。俺らとやる気か」
「てっちゃん、やったれ。んなおっさん一撃や」
「任せとき。いくでっ! 」
 ごっ。
 父ちゃんは何故か身動きもせず、顎にパンチを受けた。
「ふむふむ。これがおまえの一撃かいな」
 すげぇ。全然効いてない!
「あ痛たたた。めっちゃ痛いやん」
 なんだそりゃ。こ、これはもしかしたらダメかもな。

「お。こんなとこで何して……どないしたんや、その顔」
「ち、ちょっと転んで」
 父ちゃんはじっと僕を見て言った。
「転んで、ね。その地面にはゲンコツとか生えてたんかいな」
 すっかりお見通しだ。これ以上、ごまかせない。
「ケンカして殴られた」
 言った途端、父ちゃんはにんまりと笑った。
「ほほう。やるな、若様。相手と原因は? 」


 どうしようかな。もしかしたら、もう啓太と遊ぶなとか言われるかもしれない。
 いや、父ちゃんに限ってそんなことはないだろう。
 いっそ、相談した方がいいかもしれない。
 決めた。
 僕は全て正直に話した。
 話の途中から、父ちゃんの笑顔が消えていった。
「そうか。それでおまえは啓太くんを助けたんやな」
「うん。でもどうしようもなかった。へへ、やられっぱなし」
 父ちゃんは突然、僕を強く抱きしめると静かに言った。
「ようやった。父ちゃんはおまえを誇りに思う。あとのことは任せておけ」


 今まで聞いたことがない話し方で父ちゃんは続けた。
「明日、父ちゃんは休みやからな。そいつらとけりを付ける。普通の社会常識が通用するとは思えん。

このままやと啓太くんが危ない」
「でも父ちゃん、相手は何人もいるよ」
「任せとけって言うたやろ。ん? これは」
 父ちゃんはポケットに入っているなんでも券に気が付いたみたいだ。
「助けてって書くつもりやった」
「……そうか。本当によく頑張ったな、怖かったやろ」


 優しく言われて、気が付いた。うん、すごく怖かったよ。
 張り詰めていた気がゆるんで、僕は大声で泣いてしまった。
 父ちゃんはもう一度抱きしめてくれた。
 その後、父ちゃんは啓太と電話で直接話した。
「大丈夫、おじさんに任せておきなさい。そいつらの仲間の一人が同じマンションにいるんだったね? 

明日の昼十二時きっかりに公園に来いって連絡して。お金ができたと言えば来るだろ」
 電話を切ってから、父ちゃんはスマートフォンを取り出して何かやりだした。
「父ちゃん、何してるの」
「これか。これはやな、切り札を用意しとんねん」
 明日、父ちゃんがどうするつもりか分からないけど、なんだか僕はとても落ち着いていた。
 もう大丈夫。きっとうまくいく。
 
 そう信じた僕は、おかげでぐっすり眠ってしまった。
 起きたら父ちゃんがラジオ体操をしていた。
「おはよーい。飯食ったら出かけるでぇ」
「父ちゃん、何してんの」
「見ての通り、ラジオ体操や。しばらく体動かしてなかったからな、足でもつったらえらいこっちゃろ」
 僕は急速に不安になっていった。