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シロナガスクジラのブログ

恋愛、映画、音楽、書籍などの話題を取り上げます。

人はなぜ嘘をつくのか。ありのままの自分では愛されないと感じているからだ。あるいは人に言いたくない過去があり、それを隠すためもあるだろう。子供であれば、本当のことを言うと親にしかられるという思いもある。私も幼い頃から友人に嘘ばかりついていた。本当のことを言うと、つまらない奴だと思われると感じ、常に話を盛っていた。

 

実弟や二男の著書を読むまでもなく、沙知代夫人の経歴が嘘まみれであることは間違いない。夫の野村克也氏も書いている。「出会った頃、沙知代に聞いた話は、ボウリング関係の仕事をしていること以外は、ほとんど嘘だった」『ありがとうを言えなくて』野村克也・講談社2019年)。

 

戦闘機製造会社の社長の娘、コロンビア大学精神心理学部修了、バツイチ(実はアメリカ人と既婚)、前夫は老舗高級デパートの御曹司、長男のダンは外国の養護施設からもらい受けた。すべてが嘘だった。そのためか、夫に自分の親兄弟を会わせようともしなかった。聞かれた際も「あんたに関係ないでしょ」で押し通したが、税務署への所得の虚偽申告は、それでは済まなかった。

 

どんな幼少期を過ごしたのか、具体的にはわからないが、弟の伊藤信義氏によると(『姉野村沙知代』ラインブックス1999年)、福島県の白河に住んでいた15,6歳の伊藤芳枝(旧名)は、万引きを繰り返していたそうだ。父親に手を上げられ、何度も家出している。

 

19歳の時に、父親の口利きで、電電公社の電話交換手になるものの、半年ほどで辞めてしまう。怒った父親に叩かれ蹴られ、翌日、家を出て東京へ行く。

 

子供時代は淋しい思いをしていたのではないか。第一子ゆえに特に厳しく育てられた可能性はある。自分より四人の弟妹の方が、大切にされていると思っていたのだろう。あるいは両親の結婚前に生まれたという、特殊な事情が関係していたのかもしれない。

 

事実はどうあれ、伊藤芳枝が親に愛されていないと感じていたのは間違いないだろう。悲しい話である。

2001年、阪神タイガースの監督だった野村克也氏は、沙知代夫人が脱税容疑で逮捕され、翌年に有罪が確定した後も別れようとしなかった。2017年に夫人が亡くなるまで二人は添い遂げた。

 

鹿島茂氏(『SとM』幻冬舎2008年)によると、南海ホークスに入団した野村氏は、鶴岡一人監督に罵倒されて選手時代を過ごした。当然、監督への憎しみは強かったが、自分が監督になってからは、叱ってくれる存在がないことで、絶対者にノスタルジーを感じていたという。そこに現われたのが、野村氏自身「ドーベルマンのような女」と呼んだ沙知代夫人である。

 

その辺の事情を確認しようと、野村監督の著書を何冊か読んでみたが、鶴岡監督への言及はなかった。1977年に沙知代夫人のチーム采配への関与が疑われた際、騒動の黒幕は鶴岡氏だ、と野村氏が主張したからである。こうして鶴岡氏との関係は完全に断たれた。

 

野村氏は3歳の時に戦争で父親を亡くし、厳しい母親に育てられた。極貧生活から這い上がり、テスト生として南海ホークスに入団。プロ野球史に残る大記録を残した。

 

2021年に亡くなる前のインタビューをまとめた『弱い男』(野村克也・講談社2021年)では、「常に沙知代に監視、監督されていたんだね。監督を監督していたんだ。すごい仕事をしていたよ。サッチーは」と発言している。

 

また、妻への思いを綴った著書(『ありがとうを言えなくて』講談社2019年)には、彼女が野村氏の母親と顔立ちがそっくりで、「妻としての沙知代に多くを求めなかったのは、私が、沙知代の中の父性をより必要としていたからだろう」と書かれている。

 

マザコンとかファザコンという話はよく聞くが、野村氏にとって沙知代夫人は母性と父性の両方を体現する存在だった。まさに別れられない最強のパートナーだった。

小林秀雄は、中原中也と暮らす長谷川泰子に惚れて、自分ならこの女を幸せにできると思ったのではないか。それは思い上がりだった。一緒に暮らすことで、女を幸せにするどころか、心中するか俺が逃げ出すかだ、と言うまでに追い込まれる。

 

結局、些細なことで怒りを爆発させた泰子から「出て行け」と言われ、小林は自ら借りて家賃を払っている家を出て、着の身着のままで、東京から奈良へと向かう。こうして自分の能力だけで他人を変えることはできない、と身をもって知る。

 

二人が別れたことで中原は喜び、泰子への愛情を募らせるが、これも拒絶される。中原もまた、自分ではどうにもならないことがこの世にあるのを知る。

 

泰子は小林との復縁を望んでいた。しかし小林は泰子を避け、二人が寄りを戻すことはなかった。

 

後に泰子が語ったことによると、京都での三歳年下の中原は優しい叔父さんみたいだったし、小林とも恋愛ではなかった。男には常に父親の代わりを求めていたようである。

こういう女いるよね、と思った人は、小林秀雄や夫の中垣竹之助に依存した長谷川泰子が、どんな子供時代を過ごしたのか知る必要があるだろう。

 

米の仲買人だった父親には溺愛されたものの、母親は神経質で時々ヒステリーを起こし、泰子を怖がらせた。そして七歳の時に、目の前で父親が急に鼻血を出し、脳溢血で亡くなる。

 

家業は義兄が継いだが、それから間もなくして、学校から帰った泰子は、帯で首を吊った母親を発見することになる。一命はとりとめたものの、泰子にとってさらに怖い存在となった母は、ついに家を出て、実の姉の元へ去ってしまう。以後、時々娘を訪ねてきたが、泰子は決して会おうとしなかった。

 

まったくもって壮絶な生い立ちだ。これでまともに育つ方が不思議だ。一人になると不安になるのも無理はない。

 

救いは泰子が中原中也の予言通りに宗教の道へ入り、教団本部での修行を終えた後は、仕事をして一人で生活し、自立していたことである。

 

その頃、訪ねてきた中原中也の弟が、落ちるところまで落ちたね、と侮蔑とも取れるような発言をする。これに対して泰子は、いままで本当に働いたことなかったが、働きながら自分一人で生きられるようになった。それが素晴らしく思える、と即座に答え、相手を感心させている。

 

そんな風に即答できたのは、それが彼女の本心だったからだろう。六十九歳の泰子を取材して自伝に纏めた村上護も、その時の印象を、底抜けに無邪気で純真だったと書いている。

長谷川泰子という女性を巡る、小林秀雄と中原中也の三角関係も興味深い。

 

親元を離れ、京都で学生だった十七歳の中原中也は、女優志望で三歳年上の長谷川泰子と同棲する。その後、二人は東京に移り住み、小林秀雄と知り合うのだが、幸か不幸か、小林は泰子に惚れ、説得して二人で住み始める。

 

中原は泰子に飽き、邪魔にすら思って、ほったらかしにしていたのだが、泰子が去って深く悲しむ。失って始めて恋心に火がついたのである。

 

中原の悔しさや泰子への思いは、彼の詩や遺稿に表されているが、女を奪った小林も、一緒に暮らした二年半、地獄の苦しみを味わう。

 

優しく理知的な小林と暮らし始めて、泰子は不安神経症になる。要するに、甘えられる相手と生活することで、精神が幼児化したのである。小林と出かけるときは比較的落ち着いているものの、家に一人でいると不安になり、小林が帰宅すると言い掛かりをつけて絡んだ。

 

小林は泰子の神経症を治そうと、八方手を尽くす。何度も引っ越して環境を変え、小林の母親は姓名判断までさせて、小林佐規子と名乗らせたりする。

 

言うまでもなく、人は関係性によって変わる。中原との生活では、言い争いことすれ発症はしなかった。小林に去られた数年後、泰子は実業家の中垣竹之助と結婚するのだが、優しく受け入れられた生活の中で、やはり神経症が再発するのである。