シロナガスクジラのブログ

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『ローズマリーの赤ちゃん』は、ロマン・ポランスキー監督のハリウッド進出第一作で、オカルト映画ブームの走りとなった作品である。

 

自分の赤ちゃんが悪魔教徒に狙われているのでは、と不安になる妊婦のローズマリーをミア・ファローが見事に演じている。ポランスキーの演出によって、映画の観客は本当に危険が迫っているのか、それともローズマリーの妄想なのか分からなくなる。

 

ミア自身も複雑な家庭で育った精神が不安定な女性だった。私生活では、夫のフランク・シナトラの反対を押し切ってこの映画に出演したため、シナトラから離婚届にサインするように要求される。結局、二人はこの映画の撮影後に離婚している。

 

もともと『ローズマリーの赤ちゃん』は小説として出版されていた。そして映画化に際して、『反撥』で不安をかかえる女性を描いたポランスキーが抜擢される。

 

ポランスキーの演出は強烈で、ミアに車が行きかう道路を渡らせ、危険だと撮影を拒否するスタッフに代わって、ポランスキー自身がミアの後について手持ちカメラで撮影している。さらには自分のイメージにこだわって何度もテイクを重ね、自身も映画監督で即興演技を好む夫役のジョン・カサヴェテスと激しく対立する。

 

映画は1968年に公開されて大ヒットとなるが、ポランスキーは翌年、妊娠していた妻のシャロン・テートを、チャールズ・マンソン率いるカルト集団のメンバーに惨殺されてしまう。

 

ポランスキーは『反撥』を撮った理由を、自分自身が精神異常者ではないかと疑っていたからだと語っている。そして『ローズマリーの赤ちゃん』を経て、妄想三部作の最後として、ポランスキー自身が主演の『テナント/恐怖を借りた男』(1976年)を撮るのである。

 

 

ロマン・ポランスキー監督の映画『反撥』(1965年)の主人公は、カトリーヌ・ドヌーブ演じるキャロルという心に不安を抱える女性だ。彼女の不安の理由は明確に語られない。ただ一枚の写真がそれを物語る。家族団らんを写した中で、幼いキャロルは、あらぬ方向を見つめ、不安気な表情をしている。年の離れた姉は、父親の体に頭をあずけ、くつろいでいる。キャロルだけが疎外感にさいなまれているように見える。

 

その写真は故郷とおぼしきベルギーのブリュッセルで撮影された。その後キャロルは、ロンドンに住む姉を頼って一緒に暮らし始める。姉のヘレンには、妻帯者のマイケルという恋人がいる。二人はイタリア旅行を計画している。マイケルはキャロルが依存する姉を奪う存在だ。キャロルは妻のいる男とつき合う姉を非難し、イタリアへ行かないでと懇願するが、その願いは聞き入れられない。そして二人がイタリアへ旅立った後、精神に異常をきたしていく。

 

キャロルは可哀想だ。特にベッドの下で気を失っているところを見つけられ、マイケルに抱きかかえられて運ばれる彼女は、虚ろな目をして哀れである。しかし誰も彼女を助けることはできない。共に地獄を生きる覚悟がない限り、極度に不安になる女性と関係してはいけない。関われるとしたら身内と医者だけだ。

 

たとえどんなに美人でも、時に最高の瞬間を過ごせたとしても、彼女から距離を置かなければならない。不安な人と一緒にいると、生きる意欲を奪われる。徐々に元気をなくし、心の明るさが失われる。それは死刑宣告のようなものだ。刑が執行されなくても、一緒にいれば心が晴れることはない。

 

キャロルに言い寄るコリンは悪い男ではない。コリンの友人のように、寝ることだけを目的に、女性に近づいているわけではない。しかしキャロルが美人だから関わっているにすぎない。キャロルの不安感やその危険性については、まったく思い至らない。男の多くはそうである。きれいな女性や、かわいい女の子とつき合いたいだけだ。そして優しい人は、元気がなかったり、体調を崩したりする女性を助けようとしてしまう。

 

残念ながら、私たちは人を変えることはできない。当然治すこともできない。医者ではないからだ。いや、医者ですら治せない。本人が自分の不安を自覚し、その原因を突き止め、強い意志を持って克服しようと努力し続けない限り、一生変わることはない。

 

 

姉のフローラは言う。「(この蝶には)口もないのよ。だから食べられないの。死ぬ前にメスを見つけなければならなくて、交尾のことしか頭にないのよ。つがいの蝶を愛すること以外はどうでもいいの。愛するために死んでいくから、この蝶には口がないの。交尾することだけが目的なのよ」。

 

なんというシンプルな生だろう。人が生きる中心にも、本来は性愛があり、その周囲に喜びや悲しみがあった。ただそれだけ。文化も芸術も付属物にすぎない。そうやって生きること自体に意味があった。

 

同じ相手と添い遂げるロマンティックな話だけではない。パートナーが替わろうが、複数だろうが、可能な限り愛とセックスを求めるということだ。

 

家政婦のグロースにも、家庭教師のジェスルにも、性愛を中心に生きるなどという発想はない。しかしジェスルがピーター・クイントを軽蔑すればするほど、二人の行為は激しくなり、心に反して体は強くクイントを求めてしまう。

 

ジェスルは夜のベッドでクイントを待ちわびている。誰かが部屋に入ってくる。人の気配を感じたジェスルはシーツを押し下げ、裸の胸を露にする。そして手が首に振れた瞬間、恍惚の表情を浮かべて「ピーター」と声をもらす。しかし、その手はクイントの侵入を阻んだグロースのものだった。

 

「ピーターじゃないわよ。彼は来ないわ」と言われ、「私は夢を見てたのよ」とうそぶくジェスル。

 

子供たちにも両親が亡くなったとは言わず、遠くに行っていると嘘をつく。そして死んだら天国へ行くと教える。クイントは違う。事故死だと伝え、死んだら箱に入って埋められると事実を伝える。そんなクイントを信頼し、ジェスルに好意を寄せる子供たちによって、物語は意外な展開をするのだが、それは見てのお楽しみだ。

 

 

好き嫌いは別にして、『ラストタンゴ・イン・パリ』は、メソッド演技を代表する俳優マーロン・ブランドが、ある意味その演技の頂点を極めた作品だった。

 

1950年代に『欲望という名の電車』や『波止場』といったエリア・カザン監督の作品その他で、名声と高い評価を得たブランドだったが、60年代には出演作の興行的な失敗や、様々なトラブルに見舞われ、人気も評価も収入も下降する。1972年に『ゴッドファーザー』で復活をとげることになるのだが、その前作、イギリスで撮られた『妖精たちの森』は、キャリアどん底の作品ともいえる。

 

しかし、すでに大作『ゴッドファーザー』の出演が決まり、監督のコッポラがイギリスで撮影中のブランドを訪ね、打ち合わせをする中で、ブランドの演技に対する情熱は自然と高まっていく。

 

『妖精たちの森』はいかにもB級映画という趣だが、ヘンリー・ジェイムズの小説で映画化もされた『ねじの回転』の前日譚という設定の中、生(性)と死が見事に対比されている。何よりブランド演じるピーター・クイントというキャラクターが強烈な魅力を放つ。

 

貴族の両親を事故で亡くした子供たち、姉のフローラと弟のマイルズの家庭教師を務めるジェスルは、ブランド演じる屋敷の使用人、クイントとのセックスに溺れる。けれども教育を受けた彼女は、学のない彼を心の底で軽蔑している。それを感じたクイントは、ジェスルをロープで縛って責める。言葉でも責める。彼女の優越感をおとしめる。セックスにおいて対等になろうとする。

 

その二人の情事を弟のマイルズがのぞき見している。そして姉と一緒に意味もわからないままにマネをして遊ぶのである。セックスごっこ、あるいはSMごっこである。

 

家政婦に邪魔をされ、逢引きできなくなった二人の手助けをするのは、当然のように子供たちだ。姉弟の手引きで、久々の逢瀬に喜び、興奮するジェスルだったが、「俺には君が必要なんだ。一緒にいて欲しい」とクイントに言われると、思わず「あなたのブタ小屋で一緒に住むの?」と答えてしまう。

 

このやり取りは『ゴッドファーザー』の次の出演作、『ラストタンゴ・イン・パリ』で再現される。「君を愛してる。一緒に暮らしたい」と言うポールに、ジャンヌは「あなたの安宿で?」と応じるのである。

 

映画『ラストタンゴ・イン・パリ』には、ポール(マーロン・ブランド)がジャンヌ(マリア・シュナイダー)を抱きかかえたり、おんぶしたりするシーンが5つある。

 

最初は空室のアパルトマンで偶然に出会う場面。ポールは突然ジャンヌを抱きかかえ、その後セックスする。

 

次はアパルトマンでの会話シーン。ポールがジャンヌのことは何も知りたくないと言う。ジャンヌは怒って、ふてくされる。ポールは全裸のジャンヌを肩に担ぎ、ぐるぐる回ってから降ろす。ジャンヌは子供のようにハシャぎ、「もう1回やって」と催促する。

 

3回目は、フィアンセとの撮影から抜け出したジャンヌが、アパルトマンへ行き、ポールに「あなたとは別れられない」と言った後だ。エレベーターの中で、ドレスの裾をまくり上げ、ポールを刺激するジャンヌ。次のシーンでは、ポールがジャンヌを抱きかかえて部屋に入ってくる。二人でベッドに倒れ込み、当然セックスする流れだったが、ネズミの死骸を見つけたジャンヌは、気味悪がって「帰る」と言い出す。

 

しかし、ポールが雨に濡れたドレスのままだと「肺炎になる」と言い、出て行こうとするジャンヌを引き留めて肩に担ぐ。脚をバタバタさせて抵抗するが、場面が変わると、おとなしく湯につかっている。ポールは子供にするようにジャンヌの体を洗ってやる。これが4回目だ。

 

最後はカフェのシーン。ジャンヌは既にポールに対して白けているが、「踊ろう」とポールに誘われ、おんぶされると笑顔になる。酔っ払った二人は、タンゴのコンテスト中のフロアで楽しそうに戯れる。

 

こんなシーンもある。ジャンヌはフィアンセのトムに撮られる映画に嫌気が差している。自分は物じゃない。トムの思い通りに演じるのは嫌だ。喧嘩して叩き合うが、最後は抱き合い、仲直りする。理屈ではない。こんな風にして男女は、離れたり、くっついたりする。それが本能なのか、愛なのか、共依存なのかは別にして。

 

アパルトマンを一緒に見たジャンヌとトムは、キスでもハグでもなく、握手して別れる。契約が成立した後のビジネスマンのようである。

 

ジャンヌはポールの性的な魅力に引きつけられたのだろうか。面白いことにジャンヌは、結婚後も愛人の存在を想定しているような会話をトムとしている。

トム「結婚が失敗したら?」

ジャンヌ「車みたいに修理するわ。夫婦は2人の修理工よ。エンジンを修理するの」

トム「不倫した場合はどうなる?」

ジャンヌ「修理工は2人じゃなく、3人か4人よ」