フランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy/出生名:Françoise Madeleine Hardy/1944年1月17日~)は、フランスの歌手、シンガーソングライター、俳優。

 

 

 

1944年1月17日、フランソワーズ・マドレーヌ・アルディは、第二次世界大戦中のナチス占領下のフランス、パリ9区のマリー・ルイーズ・クリニックで出生。彼女が生まれた時は空襲警報が発令され、診療所の窓が「爆発」した。彼女は、この暴力的な環境の中で生まれたことと、大人になってから発達した「異常に不安な気質」を関連付けている。彼女の母親マドレーヌ・アルディは一般家庭の出身で、フランソワーズと彼女より18か月後に生まれた妹のミシェルをシングルマザーとして育てた。彼女の父親エティエンヌ・ディラールは既婚者で、はるかに裕福な家庭に生まれたが、経済的にほとんど援助せず、子育てにも関与せず、年に数回しか子どもたちを訪問しなかった。マドレーヌ・アルディは、9区のオーマル通りにある質素なアパートで娘たちを厳しく育てた。アルディは不幸で問題のある子ども時代を過ごし、主に読書、人形遊び、ラジオを聴くなどの遊びで孤独に過ごした。

父親の強い勧めで、少女たちは三位一体の修道女の指導の下、ラ・ブリュイエール学校と呼ばれるカトリック学校に通った。アルディと級友たちの間の社会的出自のギャップは、彼女にとって永遠の屈辱の源となった。

 

1952年から1960年にかけて、アルディと妹は母親の新しい恋人のオーストリア男爵の勧めで、ドイツ語を学ぶために毎年夏をオーストリアで過ごした。

父親がピアノを弾いていたため、アルディは幼い頃からピアノのレッスンを受けるように勧められたが、サル・ガヴォーのステージで才能を披露するはずだった時、舞台恐怖症を経験し、すぐにピアノのレッスンを中退した。

1960年、規律正しい学生だったアルディは、中等教育を2年間スキップし、16歳でバカロレアに合格した。これを記念して、何が欲しいか尋ねた父親に彼女はギターを希望し、それでアルディは自分のメロディーを歌い始めた。

 

母親の命令に従い、彼女はまだ10代でパリ政治学院に入学した。それは難しすぎると考え、彼女はすぐに学校を辞め、ドイツ語を学ぶためにソルボンヌ大学に入学した。アルディは授業の空き時間を利用してギターでの作曲に専念した。

 

彼女はクラブ・デ・モルドゥスとして知られるモカ・クラブの小ステージで自分のレパートリーを披露し始め、そこで毎週木曜日「退職者の聴衆の前で」演奏した。

この頃、彼女はフランス・ソワールの広告を読んでレコードレーベル「パテ・マルコーニ」のオーディションを受けた。結果は不合格だったが、アルディは自身が予想していたよりも長く監督たちの注意を引きつけていたことに感銘を受けた。

彼女はまた、録音された自分の声を聞いて励まされたと感じた。その声は「恐れていたよりも音程がずれておらず、震えもなかった」という。

その後、歌手志望の彼女はフィリップス・レコードに行き、そこで歌のレッスンを受けるよう勧められた。

 

 

1961年、このアドバイスに従って、アルディは歌手のミレイユ・アルチュシュが率いるフランス初のラジオ出演者のための学校、ル・プチ・コンセルヴァトワール・ドゥ・ラ・シャンソンに入学した。元々は1955年にラジオ番組として開始されたプティ コンセルヴァトワールは、1960年6月から人気のテレビ番組になった。生徒が満足のいく演奏をした場合には、それをラジオで発表したり、テレビで再度演奏する機会も与えられた。非常に選択的であることで知られていたハーチューは、すぐにアルディを受け入れた。

5月14日、アルディはフランスのレーベル「ディスク・ヴォーグ」のオーディションを受け、監督のセルジュ・ゴロンとレオ・ヴィダリに受け入れられ、ピアニストから音楽理論とハーモニーのレッスンを受けることを勧められた。彼女の美貌はヴォーグのサウンドエンジニア、アンドレ・ベルノーに感銘を与え、彼女は「素敵なレコードジャケットを作ってくれるだろう」と感じ、彼女のリズム感を改善するために音楽理論の初歩を教えることを申し出た。ベルノーは後に彼女と一緒に4曲のデモを録音し、ヴォーグ社で最も影響力のあるディレクターのジャック・ウルフソーンに提出した。

当時、ヴォルフソーンはボビー・リー・トラメルの曲“Uh Oh”のフランス語バージョン“Oh oh chéri”を録音する女性歌手を探していた。直接オーディションを受けた後、ウォルフソーンは彼女に1年間の契約を申し出、1961年11月14日に契約を結んだ。

 

1962年、アルディはピエール・バデル監督の“男の子女の子”(Tous Les Garçons Et Les Filles)の白黒MVを撮影し、テレビ番組『Toute la chanson』で放映された。この曲は、ヴォルフソンが宣伝に消極的だったにもかかわらず、ハーディと番組プロデューサーのアンドレ・サルヴェの主導で選ばれた。

10月28日夜、テレビで大統領選挙国民投票の結果の合間に“男の子女の子”の映像が再放送され、アルディが大多数のフランス国民の眼にふれた。この露出により、同曲はラジオ局で幅広くエアプレイされたことも手伝って、若者、特に10代の少女の間で広く人気を獲得。フランス国内はもとより、ベルギーとスペインでもチャート1位を達成し、英国でも36位にランク入りした。クロード・ルルーシュが監督したスコピトーンのMVでは、歌手が風でスカートがめくれ上がる二人の女の子と一緒に遊園地の乗り物に乗っている様子が描かれているが、このMVにより同曲の知名度はさらに高まった。

※映像は『TopPop』出演時のもの。

 

同年、続く“C'est à l'amour auquel je pense”もフランス1位・ベルギー7位・スペイン10位、“Ton meilleur ami”がフランス8位・ベルギー13位を記録するなど、アルディはいきなりスターの地位に就いた。

 

 

11月、アルバム『男の子と女の子』(Tous les garçons et les filles)をリリース、表題曲や“Oh oh chéri”の他、彼女自身の曲“Il est Parti un jour”、“J'suis d'accord”、感傷的なバラード“Tous les”が含まれていた。フランス25位。

 

 

 

 

 

 

1963年、“L'amour s'en va”がフランス2位・ベルギー7位、“Qui aime-t-il vraiment”がフランス6位・ベルギー17位、“Le premier bonheur du jour”がフランス2位・ベルギー7位になった。

 

 

 

10月、アルバム『青春のブルース』 (Le Premier Bonheur du jour)をリリース、フランス40位。

 

 

1964年、“Pourtant tu m'aimes”がフランス3位、“Je veux qu'il revienne”がフランス2位、“Et même”がベルギー23位・英国31位を記録。

 

 

 

11月、アルバム『バラのほほえみ』 (Mon amie la rose)をリリース、フランス40位。

 

 

1965年、“Dit lui non”がフランス12位、“L'amitié”がフランス14位・ベルギー12位、"All Over the World"英国16位を記録。

 

 

 


1966年、“La maison où j'ai grandi”がフランス6位・ベルギー2位、"Autumn Rendezvous"が英国57位をマーク。

 

 

同年、歌手としてフランス語圏にとどまらず、特にイギリスで人気が上昇し、俳優業にも進出していたアルディは、ジャン=リュック・ゴダール監督映画『男性・女性』、アメリカ映画『グラン・プリ』に出演した。

 

 

1967年、“Voilà”がフランス10位・ベルギー9位。

 

11月、アルバム『Ma jeunesse fout le camp...』をリリース、フランス4位。表題曲“Ma jeunesse fout le camp...”は“もう森へなんか行かない”の邦題でドラマ主題歌に起用され、大ヒットする。

 

 

1968年、マーガレット・ホワイティングの“It Hurts to Say Goodbye”にフランス語詞を付けた“さよならを教えて”(Comment te dire adieu)を発表、フランス4位・ベルギー3位を記録した。同曲のフランス語詞の作詞を担当したのがセルジュ・ゲンスブールだった。以来ゲンスブールおよび彼の妻だったジェーン・バーキンと親しくなった。同曲はアメリカのヴェラ・リン、カナダのジネット・リンもカヴァーしている。“さよならを教えて”は日本では5年後の1973年にヒットした。なおゲンスブールは“Kiss me Hardy”という曲も書いている。

 

12月、アルバム『Comment te dire adieu』をリリース、“さよならを教えて”の他、“Parlez-Moi De Lui”等を収録。フランス2位。

 

 

 

1960年代後半からはジョニ・ミッチェル的な自作自演スタイルに転向し、シンガーソングライターとして、より自身の内面を表現するようになった。

 

 

1970年、"Soleil"がフランス36位・ベルギー19位。

 

10月、アルバム『Soleil』をリリース、フランス9位。

 

 

1971年10月16日、アルバム『La question』をリリース。収録曲“Si mi caballero”は“私の騎士”の邦題で1970年代の日本でドラマ挿入歌に起用された。

 

 

1973年、"Message personnel"がフランス27位・ベルギー6位。



1974年、"Je suis moi"がフランス43位・ベルギー26位。

 

10月5日、荒井由実(現:松任谷由実)が発表したアルバム『MISSLIM』の収録曲に、アルディを歌った楽曲“私のフランソワーズ”がある。

 

 

1976年、荒井由実が三木聖子に提供し、1981年に石川ひとみがカヴァーした“まちぶせ”は、“さよならを教えて”のオマージュとも言われる。

また、西島三重子はアルディを史上もっとも偉大な歌手と言っている。



1979年4月13日~7月20日、日本で山田太一脚本のTBSテレビドラマ『沿線地図』全15話にて、1967年の“もう森へなんか行かない”(Ma jeunesse fout l'camp)が主題歌に、1971年の“私の騎士”(Si mi caballero)が挿入歌に起用されて話題を呼び、CBSソニーがシングル盤、ベスト盤『もう森へなんか行かない』が発売し、ヒットした。

 

 

 


1986年、仲代達也主演の日本映画『道』の主題歌“道”(原題:Ca M’Suffit)を歌唱。



1988年に引退宣言を行い、占星術師に転進していた。

 

 

1990年代初頭、2曲発表しカムバック。

 

 

1994年、当時人気絶頂の英国ロック・バンド「ブラー」(blur)のデーモン・アルバーン(Damon Albarn/1968年3月23日-)からの熱心な誘いにより、シングル“To The End”でデュエットした。

 

 

1996年、アルバム『ル・ダンジェ』(Le danger)をリリース。

 

 

2000年5月3日、アルバム『Clair-obscur』をリリース、フランス2位。

 

 


2003年、ジェーン・バーキンのアルバム『Rendez-vous』に“Suranée”で参加し、バーキンとデュエットしている。

 

 

2004年11月、アルバム『永遠の愛の誓い』(Tant de belle chose)は「21世紀のゲンスブール」と呼ばれるバンジャマン・ビオレがプロデュース、フランス7位を記録。

 

 

2006年、ゲンスブールへのトリビュートアルバム『Monsieur Gainsbourg Revisited』に“Requiem for a jerk”で参加している。なお、この時の名義は「Faultine, Brian Molko & Françoise Hardy」であった。

 

11月27日、アルバム『(Parenthèses...)』をリリース、フランス7位。

 

 

2010年3月22日、アルバム『La pluie sans parapluie』をリリース、フランス5位。

 

 

2012年11月5日、アルバム『L'amour fou』をリリース、フランス5位。

 

 

 

2018年4月6日、アルバム『Personne d'autre』をリリース、フランス4位。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「フランソワーズ・アルディ」「Françoise Hardy」

 

 

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