【後編】『昭和史発掘 (1)~朴烈大逆事件~』松本清張
大正12年9月、関東大震災が起こった。このとき、不逞朝鮮人により暴行略奪が行われているという流言のために、6,600余名もの在日朝鮮人が虐殺された。この流言飛語の出所は政府筋であると思われた。震災による食糧暴動がおこるのを防ぐため、日ごろから存在する民族憎悪の感情をかきたてて、政府に向かう民衆の犯行を朝鮮人に向けたのである。しかし、朝鮮人虐殺の報が世界に伝えられると、日本は激しい非難を受け、対応に腐心した。そこで、在日朝鮮人の悪辣さを宣伝することが有効だと考えた結果が、「不逞社」を主宰する朴烈らの検束となったのだ。大震災当時、官憲はかねてから尾行していた朴烈ら無政府主義者を行政執行法で逮捕した。大杉栄などはどさくさに紛れて憲兵に殺されている。取調べ中に不逞社の仲間が、朴烈に爆弾が欲しいと依頼されたと証言したことが、「大逆罪」を結びつけるきっかけとなった。朴烈と金子文子は大逆罪の疑いで大審院に移送され、そこでも地裁予審を努めた立松懐清が引き続き予審を受け持つことになった。地裁の取り調べからずっと朴烈と金子を調べてきた立松は、二人から信頼されてもいた。大逆罪などの重大事件は予審の取調べ結果が公判廷の証拠となったため、立松判事は何とかして朴烈に自白させる必要があった。立松判事は二人をなだめたり、おだてたりして訊問調書を作っていく。金子の方をまず追い詰め、彼女の言葉を証拠に朴烈を陥落させようとしたが、そのために、立松判事は、対質訊問という名目で二人を一緒に取調室に入らせて機嫌を取ったりするなど、二人を厚遇した。例の怪写真もその時立松が撮影したものだった。その特別待遇ぶりは、二人に部屋の鍵を預け、1時間も取調室に二人きりにしたといわれるほどだった。ー立松判事は被告同士の対決訊問をするという名義で朴烈と文子を地方裁判所の自分の部屋によびよせた。そしてふたりをならんですわらせて自由にしゃべらせた。朴烈は思わず文子の手をにぎる。つづいて体を引きよせる。それでも判事はだまって見ている。長いあいだ牢獄の中で空しく引きはなされていた若い肉体と肉体は、こうして相ふれあった瞬間、たちまちほのおとなって燃え上った。朴烈は文子を膝の上に抱き上げる。文子も朴烈にからみつく。判事はニコニコしている。がまんできなくなったふたりは思わず熱狂的な接吻を交わす。それでもやはり立松判事はニコニコしている。さらに長い長い、狂気のような接吻がつづく…(「文藝春秋臨時増刊」)。 文子は爆弾計画について、積極的に供述した。もしかすると彼女は、その虚無的思考から、いっそ大逆事件の犯人として朴烈とともに死んだほうがいいという欲望が湧いたのかもしれない。また、文子は他の同志に、爆弾の件で累が及ぶのを極力避けようとした。朴と二人だけで爆弾事件を引き受けるつもりから、その供述は過剰になったのだ。この文子の積極供述は立松判事に、朴を訊問するのに十分な自信を与えた。当初は、文子は無関係だと庇っていた朴も、文子の自供を知るとついに観念し供述をはじめる。はじめ裁判などは認めないと判事をてこずらせていた朴は、天皇、皇太子に対して爆弾を使用するつもりであったこと、その重大な決心と計画を大胆に供述したのだ。ここまでくれば、朴も爆発物取締罰則違反(追起訴の分)だけでは済まず、刑法第七十三条(日本の皇室に対して危害を加える者は、たとえそれが予備行為であっても死刑に処す)にひっかけられることを覚悟したに違いない。それなら、いっそ供述に大胆になったほうが、自分の趣意が公判廷に出て同志や世間に伝わるものと考えた。さらに、朴の供述が過剰になったのは、文子同様、他者に迷惑をかけたくないという気持ち強かったのである。彼は有島武郎からは雑誌の広告料名義で援助を受けており、芥川龍之介からも金をもらったといわれている。こういう局外の同情者に迷惑を及ぼしたくない配慮は当然にあったのだ。第一回の公判は大正15年2月26日で、制私服警官約200名、憲兵数十名で警備し、傍聴希望者500名が傍聴券めがけておしかけた。朴も文子も朝鮮の礼装で、朴は髪をオールバックにし、紗帽に紫紗の礼服、礼帯を締め、士扇を振りながら入廷した。文子も朝鮮服に身を包み、小さな翻訳小説を手にし公判に臨んだ。4回の公判で結審、3月25日、死刑判決が下る。言い渡し直後、文子は「万歳」と叫び、朴は「裁判長、ご苦労様」とどなった。この死刑判決に世論の賛否はまちまちだったが、社会主義者はもとより、文化人などは事件の根拠が薄弱として死刑判決に反対した。ところが、十日後には無期懲役に減刑されたため、右翼方面を刺激し、立松判事撮影の怪写真とともに、立松判事の両被告に対する厚遇は司法権の冒涜だという文書が流布されることになった。これが政友会の倒閣の具に供され、直願事件に発展し、石田検事の変死へとつながっていくのである。ところが、無期懲役に減刑され、宇都宮刑務所に収容されていた金子文子は、大正15年7月下旬に突然自殺してしまった。独房内で首つり死したとことは、身元引受人の布施辰治弁護士には通知されず、山梨県にいる実母のキクになされたため、東京の同志が知ったのは死後3日経ってからだった。この不自然な死亡通知に死因を疑った同志は、仮埋葬されていた共同墓地から、腐乱した文子の死体を発掘し、顎の骨を調べたが縊死は間違いなかった。同志は文子の遺書がないはずはないと考え、刑務所当局に、その引渡しと探索を迫ったが、当局は絶対に一通の遺書もないといった。金子文子はなぜ自殺したのだろうか。おそらく文子は、無期懲役で生涯牢獄で暮らす生活に不安を感じたのではなかろうか。死刑こそ本望であれ、無期刑という生涯の苦痛による思想の崩れに怯えたのではあるまいか。布施は文子の死を知らせないという条件のもと、朴との特別面会を取り付けた。布施は朴烈の顔を見るなり「文子さんは死んだよ」といった。面会はわずか1秒間で打ち切られた。朴烈は、刑務所で断食を続けて自殺を図ったことがあったが、刑務所側の説得で半月くらいで思いとどまっている。昭和20年10月には占領軍の解放令によって出獄した後は、韓国遺留民団の団長に推されたものの、20年の監獄生活のためにその姿は精彩を欠いていた。その後南朝鮮に渡り、李承晩政権のもとで働いていたが、朝鮮戦争のころに北へ入り相当な地位についたといわれている。文子の遺骨は、朝鮮慶尚北道聞慶郡麻城面格里の朴家代々の墓に埋められてある。映画『金子文子と朴烈(パクヨル)』公式サイト映画『金子文子と朴烈(パクヨル)』公式サイト。2019年2月16日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開。韓国で235万人の動員を記録した、激しくも心揺さぶる真実の物語。1923年関東大震災後の混乱の中、囚われたふたりは、愛と誇りのため、強大な国家に立ち向かう。www.fumiko-yeol.com