軍法会議に臨む北原泰作(1972年11月25日)

 

北原泰作は明治39年、岐阜県に生まれた。家業は農家ということになっていたが、実際は零細な三反百姓ばかりの部落で、行商などで生活を支えていた。泰作は学業優秀だったが、部落民と差別され中学に上がることができず、高等科に進んだ。17の春には東京へととび出す。成功していた従兄を頼って上京したものの、働き口が見つからず生活に行詰りを感じているうち、京都で水平社運動が活発になっていることを知った。北原はその運動に異常な感銘と昂奮をうけた。帰郷して自分の村で運動しようと決心した。

 

大正15年、福岡連隊事件いわゆる「福連事件」が起こる。当時、水平社の差別反対闘争は全国的なものに発展し、日本軍隊内の差別にも積極的に展開されていた。福連内での部落出身兵士への差別待遇に対し、水平社側は連隊内の差別撤廃、融和促進講和と懇談会を実施するよう約束させたのを、連隊側が後になって反故にした。しかも、憲兵と警察がスパイの罪をでっち上げ、水平社側幹部は検挙されてしまう。この事件は全国水平社の同人たちに異常な衝撃を与えた。そんな中、北原は徴兵検査の適齢期を迎えたのだった。

 

すでに北原は水平運動の闘士として付近で注目されていた。検査官に従わず、白紙の答案を出した北原を、この非国民的態度は軍隊で改めさせなければならないとして、逆に検査官は入隊を認めた。水平社の同志や共産主義者、アナーキストなどが見送る中、北原は道中反軍演説をぶちまくりながら群衆を集めた。たいへんな入営風景となった。

 

北原は最初から徹底的な反抗姿勢をとった。髪は伸ばしたまま、宣誓も拒み続けた。抗命罪に問われるという段階になり、ようやく宣誓はした。古兵からのリンチや、古兵の下着の洗濯などといった身の回りの世話など、新兵がみな経験する伝統的イジメも、北原は免れていた。北原に対しては上司が古兵にそれらの行為を禁じていたし、古兵も北原を忌み嫌っていたからだ。北原だけは特別扱いだった。北原は自分と同じ新兵たちに古兵の言いなりにはなるなと公然と言いふらしていた。古兵たちのなかに、北原への憎悪が募っていった。

 

 

…「おまえ、何やってるんだ?」

と一人の古年兵が、上靴(スリッパ)を膝に手に糸を持っている同年兵にきいた。

「こいつを修繕するのだ。今日はエタの仕事をやるんだ」

と、破れた上靴を見せてゲラゲラ笑った。

突然、北原がその古年兵のところにつかつかとやってきた。

「おい、おまえ、いま何といった?」

古年兵は北原の血相を見上げてたじろいだが、

「何といったかな?」

と、うすら笑いでとぼけようとした。

「この野郎、ごま化すな」

北原はつめよった。…

 

北原は中隊長のところへ行き、差別撤廃の要求を突き付けた。中隊長が要求を拒絶すると、北原は外部と連絡をとって、外側から運動を起こすと脅した。中隊長の脳裏に福連事件が横切る。北原が外部と連絡をとらないよう、徹底した監視が付けられた。連絡の方法をすべて断たれた北原は、脱走する以外、外部の同志と共闘する方法はないと考えた。或る晩、北原は脱走に成功、連絡がとれた水平社同人と軍隊内の差別問題について対策を協議したのち、陸軍監獄行きとならないよう、脱走一週間以内に連隊に戻った。訊問後、重営倉29日間に処せられると、そこで断食などして対抗したものの、家族の説得に応じ7日目にハンストは辞めた。外部では全国水平社東海連盟を中心に、連隊の差別事件を取り上げた運動が展開されていた。連隊長は会見で「北原を軍隊でたたき直すつもりだったが、とうてい直せないことが分った。北原は帰します」と語った。

 

北原本人には連隊長の言葉は告げられず、入院を口実に隊から隔離された。入院中に矢野軍医少尉と出会う。矢野は貧困ゆえに陸軍依託学生となっていたが、開業医を目指していた。北原の前歴に興味を持ち、交流を持つようになった。入院中に兵役免除を企てて、同室の肺病患者の血痰を自分のものとしたことがばれた北原は、懲罰として中隊復帰の処置がとられ、隊に戻された。戻ってきた北原は誰にも相手にされず、寝台にひっくり返って過ごす毎日だった。そんななか、名古屋で天皇陛下の観兵式があることを知る。天皇が馬に乗って隊列の前を閲兵して過ぎ去る—。北原に直訴の着想が浮かんだ。

 

北原は、矢野軍医少尉に天皇直訴の計画を打ち明けた。矢野は不敬罪にならぬよう、直訴文はできるだけ敬称を用い丁寧に書くことをアドバイスし、北原が直訴文の紙を購入できるよう、営外治療の証明書を書いてやった。町の紙屋で奉書を買ってこっそり持ち帰ることに成功した北原は、これまで誰も北原を参加させようとしなかった大演習に、自分を加えるよう上官に訴え、しぶしぶ認めさせた。

昭和2年11月19日、名古屋練兵場で、大演習終了後の閲兵式が行われた。朝から快晴だった。銃床を地面につけ、いつでも捧げ銃ができる姿勢で、北原はその時を待っていた。愛馬に載った天皇の一行が近づき捧げ銃の号令が次第に大きくなってくる。北原の膝は、さすがに震え出す。あと数分で自分の運命が決まる。帝国の一兵卒が武装のまま大元帥陛下の馬前に直訴しようというのだ。北原は死を考えた。

北原は、付剣の銃を左手に提げ、物入から取出した奉書を右手に高く捧げ、その華奢な馬を打たせている高貴な人に向かって、確実に進んでいた。・・・陛下の馬前1メートル前のところにくると、突然、片膝を折り、地面に坐った。折敷の姿勢である。紙をもった右手だけは、突き出すように高く伸びていた。

陛下のすぐ後ろの軍人があっちへ行けというような素振りで、忙しく手を振った。慌てて駆け付けた小隊長が北原を引きずって隊に戻すと、何事もなかったかのように天皇の一行は過ぎ去った。ほんの数分の、うたかたの夢のような出来事だった。

 

軍法会議にかけられた北原に、懲役1年が言い渡された。控訴したものの懲役1年が確定し姫路陸軍刑務所に収容された。そこでも北原は受刑者として過酷な待遇を受ける。

 

それは、これほど地球上で非人間的に扱われるところはないくらいだった。同囚と絶対に言葉を通じてはいけないという規律のほか、寝て居てさえも不動の姿勢のままとか、少しでも獄則に違反すると水風呂に入れるとかいう規定もあった。

 

出所後は全国水平社の方針《部落委員会活動に就いて》の起草にあたった。太平洋戦争後は部落解放同盟に参加し、また同和対策審議会委員として、1965年〈同対審答申〉の起草に加わった。答申の評価をめぐって日本共産党と論争し、やがては部落解放同盟の方針を批判するようになった。また、1964年、赤坂離宮にて催された園遊会に公職(同和対策審議会委員)を務めた者として招待され、昭和天皇に拝謁(再会)している。その折には自ら昭和天皇の写真を撮影し、皇太子明仁親王(当時)の質問に「あなたのお父様に直訴したことがあります」と答えたといわれている。