田中義一

 

父は萩藩士。明治25(1892)年陸軍大学校卒業。日清戦争に従軍。31年ロシア留学。日露戦争では満洲軍参謀として活躍。42年陸軍省軍事課長。帝国在郷軍人会を創設。44年軍務局長に昇進、二個師団増設を企図。大正4(1915)年参謀次長となり、シベリア出兵に関与。以後、原、第2次山本各内閣陸相を歴任した。10年陸軍大将。退役後、立憲政友会総裁、貴族院勅選議員となる。昭和2(1927)年首相に就任。山東出兵を推進。4年張作霖爆殺事件の責任を取り総辞職した。

 

田中は同郷の元老山県有朋の後押しもあり、陸軍の出世街道を驀進し、陸軍大臣を2度も努めた。山県の意向もあり、田中は元帥の将来をも擲って陸軍を退役すると、政友会総裁に就任した。その時田中は持参金300万円を持っていた。

 

到底、軍人が持っている金額ではない、一体どこからという疑惑が生じた。すぐにその出所が神戸の金貸しとして有名な乾新兵衛だとわかったが、次にその担保は何なのかが問題となった。乾といえば担保物件無しでは絶対に金を貸さないことで有名だったからだ。聞けば乾は「公債をちゃんといれてもらっとるさかいに大事おまへん」という。そこでこの公債の出所について、反田中派の退役将校たちで作られた「恢弘会」が調査に乗り出した。

 

恢弘会のメンバーは「陸軍機密費」に疑いの目を向けた。陸軍機密費は他の経費と違って特殊であり、取り扱うのが関係者数人に限られていた。当然、運営方法も局外者にはわからず、現金がそのまま預金の形で積み立てられているものと思っている者がほとんどだった。担保が公債だとわかると、ここに初めて機密費は公債でも保存されていると察せられた。

 

これより 2年前、三瓶俊治という陸軍大臣官房づきの主計が、石炭購入の収賄で憲兵隊に検挙された。三瓶は主計室の金庫の公債を自由に持ち出せる立場にあったため、友人の川上親孝等と一緒に官金に手を付けていた。検挙された時、公債持ち出しがバレたと勘違いした小心な三瓶は、そのことを自供してしまった。

 

びっくりしたのは憲兵隊の方である。公債が陸軍の機密費の一部であるという三瓶の自供は、田中陸相にも陸軍省にも分の悪い話だった。三瓶は憲兵隊に口止めされ、釈放された。

 

この三瓶に、恢弘会の小山秋作予備役陸軍大佐が接触し、機密費の実態を聞き出した。小山等は三瓶に田中陸相等を告訴させて大事件に仕立て、田中の失脚を目論んだ。当初、なかなか小山の説得に応じなかった三瓶は、身辺の安全を保障するといわれてようやく告発状の執筆に同意した。

 

告発状の内容は、田中陸相他3名が800万円以上の官金を私有し、しかもその使途が不明だというもので、この4人が共謀して横領したというものだった。しかし、この告発状では田中が政友会入りする際の持参金300万円の出所には具体的に触れられておらず、告発としては弱い。そこでこれとは別に小山は、シベリア出兵に係る機密費の使途不明金や、ロシヤの反革命軍から預かった金塊約1,000ルーブルが行方不明になっていることなど、田中等の関与が疑われることを三瓶に覚書として書かせた。

 

この告発状の取調べの主任検事になったのが石田基だった。石田は、当時検事局切ってのやり手で、朴烈事件や松島遊郭移転問題にも関係し、まさに鬼検事と呼ばれるにふさわしかった。石田の態度はすこぶる強硬で、国民も成り行きを固唾をのんで見守った。田中が乾から公債を抵当に、300万円を借りたことは隠しようのない事実だった。

 

そんな折り、三瓶は突如「懺悔録」を発表し世間をまたも驚かす。前の告発の内容は全く嘘だと言い出したのだ。この告発は自分の本意ではなく、他から強要されて書いたものだが、すでに告発した以上は取り下げることはしないという。矛盾した話だが、小心物の三瓶が、自分の叔父が住職を務める寺に拉致され、無理やり書かされたものと思われた。

 

三瓶が告発する前から田中に接近を図っていた、憲政会の中野正剛は三瓶の告発状が検事局に出されると同時に、衆議院本会議で田中弾劾演説を行った。中野は福岡生まれで早大出身、東京朝日新聞に籍を置いたこともある反抗児で、田中を攻撃するのにはまり役の人物だった。与党憲政会の拍手と政友会の怒号の中、獅子吼す彼の演説に世間は沸いた。

 

中野の弾劾演説は、三瓶の告発状とは訳が違った。猛烈に憤激した政友会は、中野を赤化思想にかぶれたロシアのスパイにでっち上げ、中野を攻撃した。シベリア出兵に反対だった中野の、ロシア・中国旅行を利用したのである。しかし、確たる証拠が出るはずもなく、中野の査問委員会は査問事項を認定しなかった。

 

中野の方は決着したものの、田中の機密費費消問題は未だ決着せず、石田検事の取調べの結果を待たなければわからないことになり、世間は地検の捜査の動向に注目した。しかし、別の事件が議会で問題となり、機密費問題をぼかすような事態が生じた。松島遊郭事件と朴烈の大逆事件である。両事件は政友会に憲政会と内閣を攻撃する材料を与え、田中の機密費費消問題を焦点からぼかした。

 

この松島遊郭事件の捜査も引き受けたのが石田検事である。しかし、石田検事は捜査を進めていた矢先、東海道線の蒲田、大森間の線路わきに原因不明の怪死体となって発見された。そのため松島遊郭事件では被告は無罪、三瓶の告発による捜査はうやむやになってしまった。この石田検事の死は、戦後の下山国鉄総裁の怪死と酷似している。その後機密費問題については、新生倶楽部の清瀬一郎が中野とは違った立場で追及したが、演説中に政友会議員に首を絞められ、頭を乱打されて演説を中断させられて終わった。三瓶は憲兵筋からの圧迫がひどく告発をついに取下げてしまった。田中の陸軍機密費費消問題を証明する書類も、敗戦時に焼却されてしまった。