イマココで生きる☆つれづれ実践日記
aloness配信の途中で
来月のMOMEDFESチケットを
速攻買いました
なんだかんだ行きたいんだよね
少し前まで
行かないつもりだった理由は
最近の記事とか
初投稿付近の記事とかで
ウダウダ書いてます 笑
前回記事
MOMED嫌いから好きになるまで
初投稿記事
わたしのMOMEDライブ。すごくよかったけど…
昨日の配信でも思ったけど
フェスとかイベント行きたいけど
ノリについていけるか
ちょっと不安
っていう人は一定数いるのね
すごくわかる
わたしもそれに近いタイプだから
でも、今回は
自分なりの楽しみ方はできるはずだ
って思えたので
わたしなりの
MOMEDフェスへの向き合い方を
書いてみます
誰かの参考になりますように
配信を聞いている人は
基本HAPPYちゃん好きだし
特にコメント書く人は肯定派が
ほとんどなので
無条件にワクワクしている人の
コメントを見ると
気遅れしちゃうわたしがおかしいのかな
と、思うときがある
でもそんなことないはず
すぐに輪に入れる人
そうじゃない人
いろいろいるもんだよ
全員が全員、輪の雰囲気に
同調するわけじゃない
そこで
「”スン“してるんじゃないの」
って言われるとイヤーな気分になる
(わたしが言われてるんじゃないのに)
気後れ=スン
じゃないと思うんですけど
ってね
でも、
そういわれちゃうのも
ある意味では仕方ないよ
とも思う
だって主催のHAPPYちゃんや
ワクワク度の高い人に向かって
不安だけど大丈夫?
って受け身な態度でいるのは
ちょっとズルい気もするんだよね
「知らなくても大丈夫ですか」
とか軽いタッチのはいいと思うんだけど
不安をぶつけるのはちょっとね、
HAPPYちゃんは
プロデューサー兼演者として
みんなが楽しめるように
出来る限りのことをしてくれてる
その立場で
初心者じゃなくても大丈夫だよ
とは言ってくれてるけど
前知識ゼロで行って、
どこまで楽しめるかはやっぱり本人次第
それはどんなイベントでも同じこと
これがHAPPYちゃんじゃなく
普通のアーティストだったら
そこまで丸投げしないはず
いくらアーティストが
初心者でも楽しめるステージにします!
と言ってくれたところで
アーティストの曲を全く知らず、
これまでのライブも知らず、
いきなり飛び込んで
楽しめるかなんて分からない
そこで不満だったからって
初心者でも楽しるって言ったのに
ウソつきじゃん
っていうのは他力本願すぎるもんね
なまじ、HAPPYちゃんが
普通のアーティストではなく
意識のことをやってる人で
ひとりひとりを見てくれるからこそ
甘えが出てしまうんじゃないかな
去年のわたしは
多少なりともそれがあった
去年の自分が間違っていたとは
思わないけど
次は同じ轍を踏みたくない
だったら自分の考えを改めるしかない
望む満足度を得たいなら
自らコミットするしかない
ここでもHAPPY理論
で、今年は楽しめるだろう
って思ってる理由は3つ
①内容がより初心者向きになり
②わたし自身MOMEDに馴染んできた
③コミットすると決めた
①内容が初心者向きに
去年はマニアックだったり
MOMEDファンしか
ついていけない内容もあった
けど今回は年齢層も幅広く
HAPPYちゃん歴、MOMED歴も
色んな人が参加するっぽいので
より受け入れられやすい内容に
してるみたい
②MOMEDに馴染んできた
去年の時点では
MOMEDって
コンテンポラリーダンス?
無理無理
って感じだったのが
今年はようやく真髄を理解し
いまは楽しくやってるので
去年より抵抗なく
積極的に楽しめる気がする
③コミットする
去年のイベントは
ほぼ準備期間ナシ
だったらしいけど
今年はガッツリ準備してるんだって
練習配信はほぼ見てないんだけど
やたら多いので
ふんわりでも雰囲気はつかめる
だからだと思うんだけど
MOMEDで知らないのとか
合唱とか自分のできる範囲で
覚えておこう
って自然と思えた
ゼロベースでもいいんだろうけど
予習した方が楽しめるに決まってる
そして、アリーナ席は避けた(笑
わたしは
2階席以上のほうが気が楽だから
”神視点”っていうのを味わうことにします
まとめ(笑)
何はなくとも”コミット”すること
HAPPYちゃんの言うことだろうが
素敵な人たちの言葉だろうが
「知識ゼロで行っても
楽しませてくれるんですよね?」
って受け身の姿勢すぎちゃだめ
なるほど、そういう感じなんですね
って理解したら
で、自分はどうしたい?
って
いつでも自分の気持ちを最優先に考える
それが
自分の人生に責任を持つ
ってことにもつながると思う
たかがイベント、されどイベント
ひとつひとつを
自分で選んでいかなきゃね
今朝のaloness配信を聞いてると
過去をなんとなく思い出しました
わたしの場合、皮肉なことに
引き寄せとかHAPPY理論なんて
知らない頃の方が
ガンガン叶ってたんだけど
だからといって良かったか?
といわれるとそうでもない
その経験があったから今があるので
塞翁が馬ではあるけれど
正しい望み方ではなかった
そんな経験談と今だから思うことを
書いてみます
①高校受験
わたしは小学生の頃から
高校は地元の最難関校に行く
と自分の中で決まっていた
紆余曲折を経て無事合格
②大学受験
高校になって成績が落ちたけど
絶対に国立大の理系学部に行く
と決めていた
なぜか私立は嫌いで
偏差値とか場所にはこだわらず
とにかく国立だったらいい、
みたいな思考
文系課目が得意で
理系課目は瀕死だったのに(笑
誰に何と言われようと曲げなかった
そして無事合格
③就職
絶対に大手企業、なおかつ
ある特定の部署に行く
(ちょっと難関)
と決めていた
周りがどんどん決まっていく中
自分だけ決まらなくても
絶対それ以外受けなかった
最後は無事採用
④結婚
思うことがあってある年の12月、
絶対に来年結婚する
と決めた
片思いの人はいたけど
「その人」と決めてた訳じゃない
婚活には嫌悪感があったので
絶対に恋愛結婚
そしたら片思い相手と
翌年すぐに付き合い始め
年末に結婚
以上。
わたしの人生において
この4つが分かりやすく
大きい願望実現でした
でも4つとも、
ある種の強迫観念とか
偏った思い込みがあった
うちは学歴偏重の家庭
物心つく前から
それに支配されて生きてたのね
だから
親に認めてもらうために
学校も就職も頑張った
でも、どれだけ頑張っても
認めてもらえず
常に精神状態は不安定
夢だった仕事もまったく合わず
ついに心が壊れて結婚に逃げた
そしたら結婚生活もすぐに破綻
そこでやっと目が覚めたんだ
全部叶ったけどそもそもの理由が
「わたしには力がない」
というところから始まっていて
すべてが承認欲求か現実逃避のため
その数年後に
引き寄せとかHAPPY理論を知った
でも
小さな願望は叶っても
大したことはかなわない
それは理論が
まちがってるからではなく
自分の強い願望がなくなったから
なんだよね
誰かに認めてもらう必要がなくなった
何かから逃げる必要がなくなった
とっても幸せなことなんだけど
退屈になっちゃった
もちろん、
ここからまた望めばいい
ってことは分かる
でも、望んだところで
どっちでもいいかなー
って思ってしまう
誰かの幸せを望むとか
一緒に楽しみたい
っていうのも分かるけど
それは強い願望までいかない
だからHAPPYちゃんが
たびたび
「どうすればいいですか?」
じゃなくて決めるんだよ!
って喝を入れる配信があるけど
そもそも、そこまで揺るがない
願望なんて浮かばないんだよ
あるインフルエンサーが
「みんなを幸せにしたい」って
頑張ってるけど
その人は不幸な人がいる前提じゃん?
そしたら案の定、
不幸体質の人が寄ってきやすいみたい
「みんなで遊びたい!」なら
幸せかもしれないけど
「絶対にみんなと遊ぶぞ!」
って、わたしはなれないんだよね
遊べたら楽しいだろうけど
全員すでに幸せなのだから
どっちでもいいじゃん? って
不幸な人を助けたい限りは
不幸な人が消えない
でもみんな幸せなら
頑張って何か叶えなきゃ
とも思えない
という矛盾
だから
こういうHAPPYちゃんの喝を聞くと
そりゃHAPPYちゃんだからできるんだよ
ってつい思ってしまう
それはHAPPYちゃんが
お金や人脈があるから、ではなく
これがいいに違いない!
みんなでやったら幸せになれる!
って
強い思いで貫ける性格ってことね
無知で単純だった時は
強い望みが出やすい
だから叶いやすい
でも幸せじゃなかった
多くを学んで
この世の法則を理解すると
強い望みがなくなってしまった
幸せだけど退屈…
HAPPYちゃんはそれを知ってもなお
強く望める
それがうらやましい
わたしもそうなりたい
だから今のわたしは
「絶対にこれを実現したい!」
っていう望みを沸かせたい!
というのが望みです 笑
最近、HAPPYちゃんの配信で
5月ぴあアリーナの話になったときに
MOMEDが
初めてでも大丈夫ですか?
苦手でも大丈夫ですか?
みたいなコメントが入ってたみたい
そういう人は
ちょうど1年くらい前の
わたしみたいな感じかもしれない
わたしは、
MOMEDを一度大嫌いになり
時間をかけて今は好きになったので
経緯について書いてみようと思います
MOMEDが誕生したとき、
HAPPYちゃんの配信を聞いてたので
存在は知ってたけど
まったく興味がなくて
ダンス好きみたいだし
エンタメの一環なんだろう
くらいに思ってた
そしたら昨年のぴあアリーナが
MOMEDライブだと聞いて
どうしようか迷ったとき
HAPPYちゃんが
MOMED知らなくても大丈夫!
って言ってたので
ど真ん中のVIP席を取ってみたら
玉砕したんだよね
全然大丈夫じゃなかったもん
詳しくはこのブログの初投稿辺りの記事に書いてます
VIP席取る!って決めたとき
最高にワクワクしたので
後悔はしてないし
トータルで見るとイベント自体は
行ってよかったなと思いつつ
MOMEDだけはマジで無理!
って完全拒否
それから半年~
HAPPYちゃんの配信を聞いてると
たびたびMOMEDの話が出てくる
最初はスルーしてたのだけど
時々「へーそうなんだ」と思うことが
たまに起こるようになり、
それが重なっていくにつれ
MOMEDって
わたしが思ってたのと違う…?
と、ちゃんと話を聞くようになり
誤解してたかもしれない
となった
タイムリーな言葉を使うと
まさに「言葉の定義」が違ってた
わたしはMOMEDについて
こう思ってた↓
存在を知った当初は、
コンテンポラリーみたいなので
感情込めて集団で踊るもの
⇒ダンス興味ないし
集団ダンスとかありえない
好きな人だけ楽しめばいい
プラス、
ぴあアリーナの苦い経験で
熱狂的ファンが陶酔するもの
⇒怖い
も追加された
でも今は違う
MOMEDとは、
自分の感情にアクセスするもの
体感を誘導するためのツール
人に見せるものじゃなく
自分ひとりの世界
踊る瞑想
「踊る瞑想」についても、
最初は
別にダンスじゃなくても
瞑想になれば何でもいいんだろうな
偶然、HAPPYちゃんが
エンタメ方面の人だから
ダンスになっただけで、
絵描きなら絵になってて
音楽なら音楽になってたんだろう
ダンス合わない人は
いくらHAPPYちゃんが勧めても
厳しいよね
って思ってた
でもそれも違った
たくさんあるツールの中で
ダンスが一番いいんだ
「ダンス」っていう言葉もまた
集合意識が持つ言葉の定義がある
どうしても
ダンスとは、人に見せるもの
みたいなイメージわきません?
わたしはそう思ってた
でも
必ずしも人に見せる必要はなく
要は”身体を動かすこと”
知ってる言葉でいうと、
「舞踊」「舞踏」「身体表現」とか
言い換えてもいいかもしれない
実際、HAPPYちゃんも
MOMEDはダンスじゃないから
フリを覚えることを
「振り入れ」ではなく「ムーブ」
といっている
「MOMED苦手」っていう人は
人に見られる前提という
先入観があるのかもしれない
本来なら
身体を動かすのが苦手な人なんて
いないはず
(ケガとか病気以外で)
だって生きていたら
身体は動かすものだから
ちなみにわたしは
「歌」っていうのも
人が言葉を発している時点で
音楽や歌だと思っている
わたしの定義は
おしゃべりは”歌”
行動は”ダンス”
独り言も歌だし
寝てるところから立ち上がるのもダンス
「ダンス嫌い」という人は
”ダンス”という言葉の定義に
独自の視点が入ってるかもしれない
ちなみにわたしは
マスゲームみたいなのは嫌い
見るのはいいけど参加するのはイヤ
ただ、”集団行動”という
概念を取っ払ったら誰よりも
自己陶酔する自信がある
ある意味で一番キモイ
わたしにとって
全力の自己表現というのは
必ずしも
他人に見せるものではない
ということ
だからMOMEDに抵抗なくなった今、
部屋でひとり踊り狂ってる 笑
人がいたら絶対やらないよ
恥ずかしくて〇ぬって
でも、めいっぱい感じるほど
MOMEDの意味があるので
わたしはこれでいい
だからMOMED苦手な人ほど
MOMEDで開花する伸びしろも
大きいかもしれない
ちなみに、
1か月前までは
もう二度と
ぴあアリーナなんて行かねえ
MOMEDは好きになったとはいえ
去年の雰囲気なら嫌
配信で十分!
って思ってたんだけど
気が変りました 笑
内容がどんどん明らかになって
途中で変ったりもして
「やっぱ行きたい!」と素直に思えた
(一秒受容✨)
実は
合唱も大大大っ嫌いなんだけど 笑
(学生時代は地獄だった…)
HAPPYちゃんのは
わたしの嫌いなヤツとは違うって信じてる
今回の合唱は
人に聞かせるためのものじゃなく
自分に聞かせるためのもの
声は周波数
それを重ねることで生まれるものを
身体に響かせる
ということを目的にして行きます
ただ、
アリーナは無理なので
2階席以上にすると思う 笑
わたしと似たタイプで
初参戦の人がいたとしたら
「MOMED知らなくても大丈夫」
「MOMED苦手とか関係ない」
と言われたとしても
自分の感覚を大事に席選びしましょう☆