Wed 090204 指導要領改訂案「英語の授業は英語で」に賛成したのは、早合点だった(1/2) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 090204 指導要領改訂案「英語の授業は英語で」に賛成したのは、早合点だった(1/2)

 講演会が続けざまにあったり、海外旅行から久しぶりに帰宅したりすると、まず最初にすることは新聞のまとめ読みである。12月末にロンドンから帰ってきたときには、2週間分の新聞のまとめ読みでまるまる半日かかったが、今日は4日分に過ぎない。

 かかった時間は1時間程度である。その中に(2月1日付の朝日新聞オピニオンページ「耕論」)「高校英語の授業は英語で」の方針について松本茂・立教大学経営学部教授のご意見が掲載されていて、これはどう考えていいものか、思わず考え込んでしまった。

 松本茂教授については、ネットでいくらでも調べられるから、興味があればバンバン調べていただきたいが、NHKの語学講座とも深い関わりがあり、ディベートの専門家で、「中教審外国語部委員」でもあって、肩書きも経歴もたいへんお偉い教授である。

「中教審委員」ということは、「高校英語の授業は英語で」の話ではまさに当事者。朝日新聞では「オピニオン」として「識者の意見」扱いをしているが、中教審の委員で学習指導要領改訂案に深く関わった人物であった以上、「識者」とか「オピニオン」とか、そういう軽い読み方をすることは出来ない。

 改訂案を作成したまさに当事者とも考えていい人が、改訂案について既成事実のように語っている内容に、首を傾げざるを得ない部分が多かった。というより、ついこの間まで自分も大賛成だった今回の指導要領改訂案に、どうも賛成してはならないように思うようになってしまったのである。

 12月下旬、私自身がロンドンにいてこのニュースを聞いたときには、なるほどいい方針を策定してくれた、大いに賛成である、ぜひ前回の指導要領みたいに現場の先生方にネグられることなく(Fri 090109参照)、この方針を徹底してほしいものだ、そう考えたものだった。

「原則として英語で」高校生に教えるのが、英会話教育中心のコミュニケーション英語だと勘違いしてしまったのである。実際に教材会社の作成すべき教材例も考え、教材をモトにした授業展開も夢想して(Thu 090122Fri 090123参照)、そういうことなら高校教師が心配する必要もないし、生徒も負担なく、いままでよりずっと楽しく授業を受けて、コミュニケーション能力を効果的に高められそうだ、と楽観視していた。

 

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(あんた、重いわよ)


 ところが、どうもそうではないようなのである。松本茂教授の「耕論」によれば、「高校で英会話を教えようというのではない」のである。

「生徒たちが大量の英文を読みこなし」
「それを材料に生徒どうしで英語でのコミュニケーションを繰り返し」
「ディベートなどを通じてコミュニケーション能力を高めていく」
が目標だというのである。

「新聞や雑誌に限らず、インターネットなどを通じて大量の英語を読みこなし、それを材料にディベートなどによってコミュニケーション能力を高める」、そんなふうに一言で言えば、確かに理想的な語学教育に見えるかもしれない。

 しかし、そういう訓練が可能かどうかは、実際に全国の中学や高校を実際に訪れ、中学生や高校生の英語力の現状を見た上で、もう一度考え直した方がいい。

 まず「大量の英文を読みこなし」という部分が、現在の実態からかけ離れている。中学3年生の段階の英語力を見て、高校に入学してきたばかりの生徒が「大量の英文を読みこなせる」かどうか、それを考えるのが先である。

 松本教授は「現状のように、1年にたった数十ページの英文を読んだだけで、コミュニケーション能力が身につくはずはない」としているが、読解の能力がないからこそ、高校の3年間でじっくりその能力を磨くべきなのだ。

 読めない高校生に「無理にでも読め」というのは拷問である。「読めなくても、無理して読めば、読めるようになる」というのでは、かつて小学校の給食でよくやった「食べられなかったら、5時間目も6時間目も給食食べてなさい」みたいなことになりかねない。

「読め」というためには「まず読み方を教える」というのが順番。「大学に行ってから英文を大量に読みこなすために、高校で読み方を教える」というのが常識で、「読まないから読めないんだ」「食わないから食えないんだ」では、拒否反応を招くことは火を見るより明らかである。

 もっと簡単に言ってしまえば「そんなこと、大学生だって出来ませんよ」である。もちろん、松本教授が指導しておられる立教はとても優秀な大学だから、立教大学ならば、「英文を大量に読みこなし」、英語で盛んにディベートに励む学生がいくらでもいるのだろう。

 池袋の街は「英会話」などという幼稚な世界をもうとっくに卒業した英語ディベートの達人に溢れ、学生は皆New York TimesでもWall Street Journalでも30分もかからずに「読みこなし」、外国人観光客の道案内程度のことでモジモジしているダメな学生は、セントポールの片隅にも置けない状況になっているのだと思う。

 

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(大と小)


 しかし、それは日本の誇る最高学府・立教大学だからこそ可能な、誠に羨ましい状況であって、一般的な大学の実態は、なかなかそこまでたどり着けていない。

 英語の自己紹介でさえウジウジ口ごもる学生、外国人に東京駅までの経路を説明できない学生、海外のレストランでちゃんと注文も出来ない学生、辞書を引きながら懸命に努力してもTIME1ページ読むのに1時間かかっちゃう、そういう学生がはるかに多数を占めるのである。

 それどころか「コミュニケーション」なのか「コミニュケーション」なのかさえ区別のつかない大学生やら、「レクリエーション」を「リクレーション」だと確信して育った大学生やら、そんなのばっかり溢れていて、もう魑魅魍魎の世界。だから、大学の英語教育の現状はまさにお寒い状況(Sat 090124参照)であり、これを改善するのが先である。

 だからまず、「大量の英文を読みこなし、それを材料にコミュニケーション」などという理想的な訓練は、まず大学でやるべきことなのである。

  大学教育の場でさらに充実した実験を繰り返し、「大学の英語教育ではすでにごく当たり前のことである」と胸を張って言えるようになってから、初めて「だから高校でも導入したらどうか」という順番になるべきなのだ。

「大学では普通」が「だから高校でも」になり、やがて「そろそろ中学校でも」というのが正しい順番であって、突然真ん中の段階にだけ突出して高度な訓練を持ち込むのは奇妙である。中学生は「逆上がり」、高校生は「大車輪」、大学生はまた「足掛け回り」という鉄棒教育はおかしい。

 中学生は「味噌汁作り」、高校生は「フレンチ」、大学生は「おかゆ作り」という料理教育もおかしい。しかし今、英語教育においてのみ、日本はそういうことをしようとしているのである。焦りは解るが、焦って順番を間違えると、取り返しがつかないことになる。

 語学教育にディベートが効果的だというなら、それもまず大学教育に導入し、しっかり普及させ、日本代表の大学生が胸を張ってアメリカ代表にもカナダ代表にも堂々と戦いを挑み、「ほおら、勝った。やれば出来るんだ」という見本を示してから「さあ、高校生もやろう」と声をかけるのが正しい道筋だ。

 しかも、その場合であっても、いきなり「すべての高校で」などという拙速は慎むべきだ。進んで手を挙げる英語教育特化校や、英語教育の充実した中高一貫校、一般の高校の「英語科」、そういうところで3年でも5年でも実験的にそういう授業を導入して、たくさんの見本や選択肢を示してから、初めて「全ての高校で」に踏み切るべきだと思うのである(明日に続きます)。