Sat 090124 高校英語よりも先に、大学の英語の授業を「全て英語」にして質を高めるべきだ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 090124 高校英語よりも先に、大学の英語の授業を「全て英語」にして質を高めるべきだ

 中学校での英語教育と高校英語の連携の必要性について昨日触れたのであるが、そこもまた縦割り行政の中での困難に直面することは間違いなさそうである。

 どちらも実現困難な部分を相手方に押しつけ、好きな部分は自分に引きつけておこうとするのだから、英文法のある程度高度な内容まで中学校の先生方が教えてしまうことにも反発があるだろう。

「そんな面倒なことは高校の先生方にオマカセします、義務教育の中学校には、高校の先生方にはわからない多くの苦労と困難があって、そんなことはお引き受けできません」、そういう反発である。

高校の先生方としては今まで自分の真骨頂としてきた、言わば十八番ともいうべき文法&和訳トリビアを横取りされることに危機感を感じて「意地でも他人に渡してなるものか」という気分になるのも、理解できないことではない。

 少なくとも「高校生相手に英語で授業」というほとんど未知の領域に無理やり押し出されるのである。それと引き換えに大事な十八番を全て他人に明け渡すというのでは割が合わない。そういう損得勘定が割り込んでくるのも、当然である。

 明智光秀が本能寺を決意した一因に、「それまでの領地・丹波丹後の召し上げ」代わりに「出雲石見の2国を与える」との信長の命があったことは、有名な話。それと似たような話である。

 

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(勝ちほこる)


 まあ、そのあたりをうまく調整しながら、中学校と高校の間での連携を進めていかなければならないのだから、この問題の解決は難しい。これからの4年間はそういう問題の解決にあてられた準備期間と位置づけるべきだろう。

 それとほぼ同種の問題は大学教育との連携に関しても考えなければならない。大学入試についての問題(後日述べます)よりも、むしろ大学での英語教育の現場に大きな問題を感じるのだ。

 高校教師の最大限の努力によって「英語で授業」が実現され、3年間「コミュニケーション英語」なるもの(今の段階ではまだ「絵に描いたモチ」に過ぎないが)で実力を磨いてきた生徒たちを相手に、キチンとその後を引き継げる大学の英語教師がどのぐらい存在するのか、そこはまだほとんど問題にされていない。

 これは、大学教育の質についての今後の大きな問題になると思う。3月には非常に高度な大学入試問題に取り組み、厳しい時間制限の中で驚くほどの好成績をとって入学した大学生たちが、4月以降大学で受ける英語教育にどれほど大きく失望するか、この問題がマスコミやメディアでとりあげられないこと自体、すでに驚嘆に値する。

 すでに20年も以前に、駿台予備学校の伊藤和夫師(Tue080902参照)は、慶応SFCの入試問題に言及しながら「あれほど難易度の高い超長文をスラスラと読みこなし、あれほど高度な設問を120分に80問も解決し、しかもそこで8割の正解を得たほど優秀な学生たちを(筆者注:当時のSFCは合格最低点80%が予備校界の常識だった)、キチンと教育できるほどの教員が、慶応義塾大学にいったいどのぐらい存在するのか知りたいものだ」と疑問を述べられていた。

 早稲田や慶応はおろか、東大や京大にも当てはまるこの状態は、私立でも国公立でも、中堅と呼ばれるような大学では一層顕著になりつつある。入学前に解いていた入試問題と、入学後に受ける大学での英語教育のレベルが明らかに逆転しているのである。

 多くの大学生が、入学してから開く大学の英語の教科書をみて、愕然とするのだ。いやむしろ「これならラクショー!!」の雄叫びをあげるのだ。その多くがいまだにダラダラ日本語に訳すだけの訳読形式なのである。

 入試では90分で15ページ近くの速読が要求され(その程度で「速読」と呼べるかどうかはわからないが)、それでも奮闘して8割近く正解して見事合格、それなのに4月から大学で扱う教材は実にゆっくり訳していくだけなのだ。

 

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(タオル好き 1)


 しかも、待遇の良くない非常勤講師なら情状酌量の余地があるにしても、教師のやる気など期待する余地もない。「何をどう教え、学生の学力をどこまで引き上げたいか」の理想もプランも全く存在しない垂れ流しの授業が、大学の語学教育にどれほど多いことか。

 場合によっては、中学校程度と思われる会話のテキストを材料に英会話の練習。それが実際の学力に相応しいものなのかもしれないが、それなら、あの高度な入試問題は何だったのか。大学教育における語学教育にも、メスが入れられなければならないだろう。

 大学の英語教育についての学生たちの不満は、代ゼミ時代には余り感じたことがなかった。大学に入学してから予備校を訪れる生徒は多いが、彼らも彼女らも、大学での英語どれほど「ラクショー」かを得々と語り、予備校時代にやっていた英語がどれほどキツかったか、入試がどれほどつらかったか、それに比べれば大学の英語なんて、真剣に取り組むに値しない「楽勝科目」に過ぎないことを嬉しそうに話して帰っていくのであった。

 まあ、「大学に入ったら、いくらでも遊べるんだ」という固定観念に寄りかかって教育すれば、大学入学後にこういう感想をいだいて予備校に遊びにくる学生が多いのも、仕方がなかったかもしれない。

「大学の英語教育への不満」を頻繁に耳にするようになったのは、東進に移籍してからである。東進では、「大学に入ったらいくらでも遊べる」などという甘いことは、決して言わないことになっている。これはトップから入社直後の若い職員まで、しっかりと一致した見解である。

 むしろ、大学入学後こそ重要、入学まで真剣に努力を積み重ねたとしても、大学入学から卒業まで、いや卒業した後も夢と目標を見失わずに努力を重ねること、そういう話を煙たがられる(またはウザがられる)ほどに継続して、高校生の頭と心に擦り込んでから大学に送り出す。

 だからこそ、彼らも彼女たちも、大学での英語教育に大きな夢と希望をいだいて進学する。それなのに大学では、単なる訳読、しかも目標も方法論も将来も一切提示されないダラダラした訳読授業が始まってしまう。

 失望の大きさ、「先生、何とかなりませんか」「英語の勉強を自分でしっかり続けたいんですけど、いい方法はありませんか」という質問をかかえて東進を訪れる顔の真剣さは、大学の語学教育の欠陥を如実に示すものである。

 

 

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(タオル好き 2)


 まして、たくさんの受験生がセンター試験の失敗で泣く泣く第1志望を諦めて進学するのだ。安全策をとって、幼児から憧れ続けた第1志望を諦めて、半ば絶望し、「最後まで諦めるな」「夢はかなう」という重要なポジティブ思考も捨てて、楽しくない高校卒業式、楽しくない入学式(筆者の場合、早稲田の入学式には両親とも出席しなかったし、何の祝いもなかった)、楽しくない新歓コンパ(ほぼ全ての新人が「本当はここに来るはずではなかった」と発言した)、楽しくない科目登録、そういうものに耐えて進学しているのだ。

 その大学のイメージを一気にかえて「ここに来て本当によかった」と実感させるのに最高の舞台が、大学生として初めて経験する語学の授業ではないか。それなのに、教師が夢もビジョンもないイヤイヤながらの非常勤講師であっていいはずはない。

 まず彼ら講師の待遇を改善し、その上で「待遇を改善するのだから、夢とビジョンと理想をハッキリ学生に示せるような、学生全員を感動させるような語学の授業を展開してほしい」と大学側が講師に要求すべきなのだ。その点においてだけ、大学生当時の筆者は大いに恵まれていたように思う。

 3人いた英語学の教師のうち(2人は典型的な「困った大学語学講師」だったが)の1人、ヘミングウェイが専門の今村楯夫先生が、いきなり流暢な英語で話し始め、いきなり長い作文を書かせ、学生たちの度肝を抜いてくれたのが、そのまま後の「早稲田大好き人間」への道を切り開いていただけたように思う。

 こんなふうで、今は「高校英語教育改革」ばかりに脚光が当たっているけれども、「大学入試で終わりではない」という立場に立てば、むしろ今すぐに改革しなければならないのは大学の英語教育である。

 まずここを「すべて英語で」に変えなければならない。その上で、そのお手本を見ながら、高校英語も焦らずにじっくりと改善を進めればいい。少なくとも、経営の厳しさが囁かれるような大学(ということはほとんど全ての大学)において、これは大チャンスである。

 ぜひ新入生たちがビックリして予備校講師に報告に来るような授業を展開していただきたい。そういう大学については、予備校講師としても喜んで生徒たちに推薦したいものである。