Tue 080902 伊藤和夫先生のこと 不肖の息子のその後 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 080902 伊藤和夫先生のこと 不肖の息子のその後

 最初に断っておいた方がいいと思うが、今日は故人の思い出を書くので、少なからずしんみりする。文体も普段以上に古くさく、気分は暗い。つまりいつもにも増してブログ的でなくなくなるのだが、この傾向は今日までのこととして勘弁していただきたい。

 昨日までの流れとして、どうしても最終的に故伊藤和夫先生の記憶まで遡らなければならないのである。ま「超まじめなものはパス」という人は、今日はパスしてください。今日も、またまたニャゴロワは「それでも私は入る。そこに箱があるからだ」と主張し続けているが。今日の私の気分は、まさにこのニャゴロワの表情のような感じなのである。

 


 昨日書いたように、大学というものはなかなか受験生の方をマトモに向いてくれないものだが、その大学に向かって「正解と採点基準を公表してほしい」と公式の場で最初にハッキリおっしゃったのは、駿台予備学校の伊藤和夫師だったと記憶する。

 伊藤和夫先生は長く駿台模試の作成と採点の全ての責任を引き受けられ、1980年代には高校生浪人生ばかりでなく高校教師・予備校講師の絶大な信頼と尊敬を集めていた「受験の神様」。1997年に亡くなったが、亡くなって10年以上が経過し、今では、東大や京大を目指す優秀な生徒たちを除けば、その名前を知らない「それだあれ」という高校生の方が遥かに多くなってしまった。

 


 伝説では、亡くなられる2~3日前まで病院のベッドで癌に苦しみながら、それでも参考書の執筆を継続されていたそうである。死が近づいたころ、愛弟子の入不二師が「死をどう感じられますか」と尋ねたところ「死は、凝固だと思う」とお答えになったそうだ。

 亡くなられる前日には、ナースの皆さんなど病院(お茶の水・杏雲堂病院)のスタッフを病床に集められ、丁重にそれまでのお礼と挨拶をされたという。

 私はその年に駿台を辞めて代ゼミに移籍したのであるが、予備校が一気に軽佻浮薄な世界に変わってしまったのは、伊藤先生という大切な重石が消えてしまったからだと今になって実感する。

「受験界のカリスマ」などといういかにも怪しい人々とは異質の人である。伊藤先生は模試の採点にあたる際も、きわめて精緻に問題を検討し、きわめて精細に採点基準を作成し、採点にあたる全講師に対して、どれほど厳密にどれほど公平に採点しなければならないかを徹底した。

 この上なく「謹厳実直な神様」であった点で、今後も長く尊敬をうけてしかるべき先生だと思う。記述論述式の難問でも、100語にも200語にもなる英作文の答案でも、「どれほど主観を排した採点が必要か」を常に述べられ、授業中生徒に向かってビックリするほど厳しい発言をされる反面(もし今そんな言葉を連発したら、生徒たちの大きな恨みを買いそうな発言が多かったかもしれない)、1枚1枚の答案がどれほど受験生の魂が練り込まれ編み込まれた大切な作品であるか、だからこそどれほど丁寧に採点しなければならないかを講師たちに決して忘れさせない、そういう意味で生徒たちへの大きな深い愛情に溢れた神様だったのである。

 言うまでもないことだが、私のように軽薄に生徒の人気取りばかりに日々努力するダメなベテラン超人気カリスマうにゃうにゃ講師とは、人間の格が違うのである。

 


 伊藤和夫先生について話が始まれば、それこそこういうブログの3日分でも4日分でも話が続き、果てしのないことになってしまうが、とにかく予備校の世界から大学に向かって初めてハッキリと意見を発信し「正解と採点基準を発表するのは、大学側の義務だ」と正論をキチンと主張されたことには敬意を惜しんではならない。

 1990年代後半は、大学入試の英語が急激に変化した時代である。その変化は何と言っても「長文読解」の極端な長文化と難化にその特徴があった。その代表格が慶応義塾大学SFCである。

 私は駿台講師時代にその慶応SFCの青本(入試問題正解例:写真上)の著者だったのだが(1995年と1996年環境情報学部&総合政策学部)、その長文の長さと設問の難しさについては、慶応に留学していたアメリカ人の大学院生が「crazyだ」と一言感想を漏らしたという逸話があるぐらいである。興味のある方は是非ご研究ください。

 

(写真上:慶応義塾大学環境情報学部96年。これを120分で解く。この超長文を読みこなし、その上で設問が60問。当時の合格ラインは80%)

 そうしたcrazyな問題をご覧になって、伊藤先生が公式の場でされた発言がこうである。
「あれほどの長文をスラスラ読みこなし、あれほどの難問をスラスラ解いて合格してきた優秀な受験生を、学部でしっかり教えることの出来る教員が、慶応義塾大学にいったい何人存在するのか、正直に教えてほしいものだ。」

 胸のすくような、鮮やかな発言である。当時は慶応大と上智大を中心に、「悪ノリ」としか言いようのない超長文を出題する傾向が顕著になり、高校生・受験生の実態を無視した出題があまりにも多くなっていたのだった。

 授業ではいくらでも厳しいことをおっしゃりながら、私など及びもつかない、受験生に対する深い愛情に溢れていた伊藤先生の、まさに面目躍如という発言であった。英語について特殊な教育を受けてきた、環境に恵まれた受験生ならいざ知らず、ごく普通に公立中・公立高と着実に勉強してきた真面目な子供には、どう見てもマトモに太刀打ちできるような問題ではなかったのである。

 

(写真上:当時の慶応SFCの問題の一部。これを15分程度読みこなさなければ合格できなかった。悪ノリが過ぎたのか、2008年現在、人気は下降気味。受験生の人気というより、採用する企業として「英語とパソコンは出来るが、部下として、どうもつきあいにくい」の意見が多い)

 1980年代後半に「団塊ジュニア」の大量大学受験時代があって、予備校がバブルを迎え、どこの予備校でも、全然努力しなくても「満員締め切り」の連発だった頃、私はまだ普通の会社員をしていたから、私は予備校講師としては明らかに乗り遅れ組(91年参入)である。私の先輩講師たちは、特に駿台の先輩はみな、伊藤和夫先生との個人的な思い出を自慢げに語り、伊藤先生と交わした会話を一言一言大切な宝物でも触るように繰り返してみせ、伊藤先生にかけられた言葉を一言たりとも忘れていなかった。

 それは伊藤先生の参考書出版に携わった出版社の社員も同じ。「英文解釈教室」など、先生の名著出版に携わった研究社出版の社員の方もその後いろいろ親しくしていただいたが、ほとんど父親以上の親しみと敬愛を込めて伊藤先生の思い出を語るその表情が羨ましかった。

 私が駿台講師に採用されたのは、英語の主任講師が伊藤先生から高橋善昭先生に代わられた直後であり、講師室でも伊藤先生の姿を余り見かけられなくなってからであった。それが私の中にはコンプレクスとして残った。

 東京大学でも京都大学でも、伊藤先生ほど精緻正確な採点基準を作成して採点を行ってはいなかっただろうし、しかもその基準ばかりか採点を貫く精神性までを採点にあたる全ての講師に徹底させたのは、後にも先にも伊藤先生一人であろうと思われる。

 その先生と言葉を交わす機会がほとんどなかったことは、たった6年と言えども駿台に講師として籍を置き、伊藤先生が長く教鞭をとられたお茶の水本部校舎(当時は「3号館」と呼んでいたが)で同じ講師室の同じイスに座っていた者としては、残念でならない。

 そういうコンプレックスがどんどん大きくなっていたのも、私が伊藤和夫先生の世界にささやかな反抗を試みた理由である。当時は慶応大学SFCの台頭だとか、上智や慶応の(あくまで私から見れば)「悪ノリ」のせいもあって、予備校の中には「伊藤和夫の世界への反感」もあったのだ。

「伊藤和夫の世界」とは、「ああだこうだと理屈をこねまわしているばかりで、全然先に進まない授業」「50分も授業をして、10行先に進むかどうか」「遅すぎて、2分で眠くなる」などの悪評が出やすい世界だったのである

。「あんな英語では、話せるようにならない、上智にもSFCにも太刀打ちできない」という生徒たちが、お茶の水で「ただ一人話を聞いてくれそうな講師」(つまりだらしなくて、ニヤニヤしていて、バカ話に付き合ってくれそうで、脇の甘い講師)である私のところをたくさん訪れるようになり、人気はどんどん高くなって、94年、駿台では超一流でなければ担当できない「特設単科」の話が舞い込む。

 厳しくて、相手にもしてもらえなかった父親には、不肖の息子は激しい反感をいだき、激しい反抗に出るものである。私は「伊藤の逆」をやろうと決意し、「特設単科」として、当時の東大後期試験・東京医科歯科大・慶応SFCなどをターゲットにした「速読講座」を開講。4月、申し込み即日満員締め切り。お茶の水ばかりか、池袋も大宮も柏も締め切り。タイトルは「ENGLISH FARM」、授業では英語雑誌のカバーストーリーや英字新聞の社説を毎週1本読破して、その要約を作る。

 その程度のことは、優秀な中高一貫校などであれば普段当たり前にやっていることで、別に大したことをしたわけではないのだが、「伊藤和夫の世界」「伊藤和夫の構文主義」以外は一切認めなかった駿台の英語の授業としては、当時は画期的なものであった。

 毎週一回出張していた福岡校で、関西の表三郎師に出会い、表先生にも大いに褒めていただいた。入院中の伊藤先生が、当時のあまりに攻撃的な私についていろいろ心配なさっていたのを聞いたのは、先生が亡くなる直前である。

 


 しかし、それにも関わらず、コンプレックスを持った息子みたいな反抗はこれでは収まらない。97年、代ゼミに移籍したのも原因はそこだろう。代ゼミに移っても、それでもやりたいことは伊藤先生への反抗。その中で書いた本3冊が「パラグラフリーディング」シリーズ3冊。特にシリーズ第1巻は、売り切れを繰り返して話題にもなり、物議をかもしもした。

 そこから先のことは以前書いたから今日は省略する(080609参照)。もう10年も前のことだから、思い出とか追憶とか、その程度の感傷に留めておいていいだろう。

 ただし、「パラグラフリーディング」シリーズは、大学側の「悪ノリ問題」には今でも有効。大人の日々の読書のためにはもっと有効(だと愚かにも信じている)。近いうち(といっても2年ぐらいかかるかもしれないが)受験生用ではなく、大人のための読書論として出版し直す予定である(「代々木ライブラリー」から出したので、東進移籍のとき絶版にされてしまったのだ)。

 


 東進に移籍した3年前からは、そういう反抗とか「ちょっと目立つことを言って注目されたい」とか、そういう気持ちは一切なくなって、「地道に生徒の学力を伸ばしてあげたい、それに専念したい」という強い思いのみで仕事ができるようになった。

 東進とはそのような地味で真摯な精神を受け入れてくれる予備校であり、私としては一番いい時期に一番いい職場に恵まれたという感謝で一杯である。

 しかし、伊藤和夫先生の答案採点に対する真剣な姿を思い出すたびに、大学側の出題の悪ノリ(あくまで私見)や、採点基準を開示しようとしない怠慢(あくまで私見)や、その他一切に対して、これからはもっと積極的に発言しなければならないこと、しかもその発言の頻度を高めていかなければならないことを痛感するのである。

 ついでに、この2~3日のブログについても反省しなければならない。ついマジメになりすぎ、つい陰気になり、つい攻撃的にもなり、ついイタリア紀行を忘れ、つい更新がおくれ、ついネコ写真ばかり多くなったかもしれない。すみません。これから気をつけたいと思います。ぺこり、ぺこぺこ、ぺこりぺこ。

1E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 1/6
2E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 2/6
3E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 3/6
4E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 4/6
5E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 5/6
6E(Cd) Kubelik & Berliner:DVOŘÁK/THE 9 SYMPHONIES 6/6
7E(Cd) Avner Arad:THE PIANO WORKS OF LEOŠ JANÁĈEK
8E(Cd) Akiko Suwanai:INTERMEZZO
9E(Cd) Akiko Suwanai:BRUCH/CONCERTO No.1 SCOTTISH FANTASY
10E(Cd) Akiko Suwanai:SOUVENIR
13D(DvMv) THE OTHERS
total m23 y1110 d1110