Sun 090118 センター試験は大キライだ(3/3) 昨日を見て明日を論ずるな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 090118 センター試験は大キライだ(3/3) 昨日を見て明日を論ずるな

 今日の記事はあくまで昨日からの続きであって、昨日から読み続けていただかないと脈略がつきにくい。ぜひ昨日に戻ってお読みいただきたい。さて、センター試験で失敗して、志望校を変える、変えざるを得ない、そういう状況に苦しんでいる受験生が、今日もまた予備校の周囲をほとんど無数に徘徊していると思う。悲しい制度である。この季節には、本当に心の底からセンター試験がキライになる。特に医学部の受験生は、センター試験の得点でほとんど大学が序列化されている状況だから、今頃はさぞかしたいへんだろう。しかし問題はさらにずっと大きいのである。青年の夢を4~5日間のデータのやりとりで奪ってしまう制度を、理性的な制度と呼んでいいのか。データの数字と他人のアドバイスに従って危険を回避し、安全を優先して夢を捨て去る行動が、青年として理性的なのかどうか。つまり、「正しい理性とは何か」の問題にまで来てしまうのである。


 誤解してもらっては困るので、慌てて言っておくが、(1)自分の経験が東京大学と早稲田大学に限られているので、それに基づいて書いているが、もちろんこの話は九州大学でも大阪大学でも名古屋大学でも京都大学でも、医学部を含め全国全ての大学を夢みてきた全ての受験生に関しての話であり、(2)これは予備校の機関誌などに掲載できるような予備校講師としての公式見解ではなくて、あくまでブログに書くべき個人的見解である。


 もちろん、「センターで失敗しても果敢に第1志望にチャレンジしたまえ、失敗したらもう1年浪人して頑張ればいい」というのではない。浪人する1年は、ムダである。20年も前なら1年浪人するぐらいは当たり前、「1浪」を「ヒトナミ」などと読み、1浪なら「人並み」ということだなどといって、その程度のことをギャグだと思って面白がっていた時代があった。しかし、今では浪人は流行らない。流行かどうかというより、時代遅れである。早く大学に合格して、合格した大学で先の勉強に励む方が時代に合っている。


 センター試験を見ても、受験した54万人のうち、浪人生は10万人ほど。来年はさらに激減しそうである。その10万人以下の小さなパイを食いあう浪人生対象の予備校が、2月から厳しい生徒の取り合いで生き残りをかける。だから相当な勢いで「浪人すべし」「第1志望は浪人してでも譲れない」という浪人礼讃を始めると思うが、そういう意味の話ではない。あくまで「あれほどこだわって志望してきた第1志望を、チャレンジさえせずに諦めるのか、その程度の夢だったのか」ということである。

 

1022

(新刊書ボツ写真その3 東大安田講堂前で。後ろの緑の看板がボツの理由)

 九州の人間にとっての九州大学、北海道で育った人間にとっての北海道大学、東北人にとっての東北大学は、ただ単に憧れの対象というのではない。その地域の文化や人々の生活を担っていこうという、極めて生意気ではあるがしかし真摯な夢とともに、ほとんど幼稚園児の頃から身体に擦り込まれ、血液に染み込んでしまった、自分の人生についての思い入れでもあるはずだ。だからこそ当然のようにそれを目指し、1年も2年もかけてしっかり準備したのである。それなのに、1月18日19日にやってきた、顔のない門番ロボットさまのお気に召さなかったからといって、それを諦めなければならないのか、そういうことである。


 昨日書いた通り、こういうせっぱつまった立場に立たされた時、人は「理性」を口にする。データがあり、合格可能性が示され、「もう学歴社会ではない」「大学名にこだわる時代は終わった」と理性的に諭す大人がいて、受験生の理性は中途半端に目覚め、「危険をおかすのはバカだ、安全策をとろう」と考え、多くはそこで夢を捨てる。しかし、その時の「安全策」とは、いったい未来をどこまで見通した上での安全策なのか、それをキチンと考えなければならない。明日の安全や明後日の安全が確保されればいいのか、それとも20年先や30年先を見通した安全策なのかで、理性の判断は全く別の選択に変わってくるはずだ。
 

 スポーツをやった人ならわかるだろうが、今日の試合に勝ちさえすればいいのか、それとも1年後の全国選手権大会で優勝したいのか、いったいどちらなのかで、理性の命ずるところは変わるのだ。同じように、今さえよければいいのか、10年後に笑顔でいたいかで、行動は変わる。アドバイスする側だって、今だけニコニコさせておきたいのか、20年後に「あのときの先生のアドバイスを感謝しています」と心から思ってほしいかで、アドバイスは変わる。
 

 つまらない例で誠に申し訳ないが、先日のラグビー大学選手権決勝についてのコメントで(Tue090113参照)「前半5分の大チャンスで、帝京大学はPG狙いで行くべきではなかった、たとえリスクを冒すことになっても、FWで力ずくのトライを取りにいくべきだった、あそこは安易なPG狙いが敗因」と指摘しておいたのも、実は今日のこの記事の伏線。センター試験で失敗した受験生諸君に、あくまで私的に非公式にアドバイスするのだが、「安易に目先の小さな幸福を拾いにいくな」「目の前の小さな得点は、むしろマイナスになりやすい」逆に「リスクを冒して、例え失敗しても、それが最終的な勝利につながる可能性はむしろ高い」のである。

 

1023

(新刊書ボツ写真その4 東大で。いまだに屈辱を忘れていないカタい表情がボツの理由)

 つまり「昨日を見て、明日を論ずる」という姿勢を、本当の理性と呼べるかどうか、ということである。言わば、歴史観の問題なのかもしれないし、判断の視点をどこに置きどういうパースペクティブで物事を考えるかという哲学の問題になるかもしれない。他人事か天体の動きでも見るように客観的に判断できる問題ではないだけに、逆に人間の力量がしっかり試されるような気がする。「昨日の試験の成績で、これから4~5週間先の幸福を求める」というのは「昨日を見て明日を論ずる」という姿勢、きわめて短期的な視点である。

 

 それとも「一昨日を見て明後日を論ずる」のか「10年間を見て10年後を論ずる」のか。ここはリスク覚悟でFWで押しまくってみて、失敗しても後悔を残さない、次のチャレンジに向けてスッキリとしたスタートの可能性を高める、そういう選択肢を選ぶだけの力量があれば、むしろそれを理性と呼ぶのではないか。あくまで非公式の感情論であるが、「理性的判断」と呼ぶに値するのは、目先の小さな得点を重視して何かを大きく失う行動とは思えないのである。リスクを冒してハイリターンを求めるだけの体力があると思う自信に漲る若い諸君なら、ぜひ(可能性が残っている限りは)周囲の短期的理性に言い負かされるのでなくて、第1志望チャレンジを貫いてほしい。
 

 以上のような言い方は、またまた誤解される可能性が高いから、もう1度慌てて確認しておくが、決して超優秀な受験生にだけ当てはまることではない。経済危機のせいで「記念受験はヤメておく」みたいな風潮が支配的になる中、せめて受験生ぐらいは、無茶に見えるほどに元気でいてほしい。「お前なんかが、早稲田に行けるはずがないだろ」「ヤメておけ、慶応なんて、どうせ合格できないぞ」の類いの罵り合いを友人同士でしている姿は、ほとんど受験デフレ・スパイラルである。
 

 大人になる寸前の初めての勝負の時期に、何のチャレンジもせずに安全策だけとって、それで平然としている青年ばかりでは、デフレは止まらない。それこそ佐々淳行が心配顔で語っていた「青年が熱くならない」である(Thu 090115参照)。そこだけはしっかり彼と同意見なのであるが、せめて38℃ぐらいの熱を出してほしい。ただしそこで食中毒になって、クマさんみたいに大量のゲロを吐かないように、身体に気をつけながら。そういう注意書きも付け加えながら、これから1ヶ月の大逆転劇を信じている。

 なお、私の一昨日の爆発的ゲロ(Sun 090114参照)は、ノロウィルスだったかもしれないし、インフルエンザを一晩で自力で治療してしまったのかもしれないし(6年前にもそういうことがあったのだ)、4回ゲロしたということは実は私はクマというより、胃袋が4つあるウシにちかいということなのかもしれない(BAD TOROか? Mon 081208参照)し、まだ結論は出ていない。ナムナム。