Thu 090115 近くで「不発弾」発見 東大・安田講堂落城についての番組2つ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 090115 近くで「不発弾」発見 東大・安田講堂落城についての番組2つ

 17日、アワビ騒動があり、激しい嘔吐と吐瀉物の爆発があって、私の中でも激しい1日だったのだが、そういう日には自分の周囲にも熱さや激しさが渦巻くものであって、自宅近くで何と「不発弾」が発見され、周囲をヘリコプターが飛び交い、クルマの通行も遮断される大騒ぎになった。「不発弾」と言えば、もちろん第2次世界大戦中にアメリカが落としていった爆弾の残骸である。
 

 アメリカの本格的東京空襲が始まったのは昭和19年の秋からである。最近のテレビドラマだとその辺の時代考証がでたらめで、昭和16年12月に戦争が始まって、いきなり灯火管制があったり「空襲警報発令!!」とか軍人が回って歩くシーンがあるが、それはウソである。昭和17年に1回だけ空襲があって、後は19年秋までなし。サイパンや硫黄島を占拠しないと、日本まで飛行機の航続距離がなかったのだから、空襲どころではなかったのだ。しかし、それでもいまだに「不発弾」が残っているのだから、戦争というものは恐ろしい。しかも、当時の世田谷は、完全に郊外、原っぱと、緩やかに流れる小川と、低い丘陵地帯の続く田園だったのだ。こんなところにまで爆弾を落としていったとすれば、まさに「アメリカ軍恐るべし」である。


 残骸とはいっても、65年も経過してまだ「爆発するぞ、爆発するぞ」という意気軒昂なところが残っていて、近隣住民には避難指示が出たらしい。テレビで中継されているのを見たら、真っ赤に錆びたシッポのところにまだ金属のかわいい羽のようなものも残っていて、その意気軒昂ぶりはたいへんなもの。「まだまだ若いものには負けんぞ」という様子である。ただし、発見場所は世田谷区北沢。代々木上原駅周辺とはいっても、私の自宅からは相当な距離があったから、まあ安全である。避難もせずにのんびりしていたのが、夜になって胃袋が爆発するきっかけになったのかもしれない。


 TBSだったかNTVだったかの特集番組で「東大落城」というのがあって、本来夕食をとった後に酒を片手にくつろぎながら見るような番組ではないのだが、2時間半にわたって結局最後まで見てしまった。東大落城が1月18日から19日にかけての攻防戦。40年後の17日18日にはセンター試験があって、40年前にここで何があったのか全く知らないし全く興味も持たない高校生たちがここで戦うことになる。

 

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(東大・安田講堂)


 陣内孝則の演ずる佐々淳行が少しカッコよすぎないか、しかも徹底して弾圧側に回った彼が、番組の最後で「今の若者は燃えなさすぎる。40℃の高熱は困るが38℃ぐらいは出してもらわないと」などと無責任な発言をするのを聞いたのも、アワビで食中毒になり高熱を出すきっかけになったかもしれない。しかも番組は思想的背景や安田講堂を占拠した学生たちの考え方なり心理の動きに光を当てることをほとんどせず、あたかも戦国時代の攻城戦を描くかのように、催涙弾と火炎瓶、ノコギリと投石、そういう暴力の応酬ばかりを強調するのにも、大きな疑問を感じた。


 同じ事件を扱った番組でも、さすがにNHKとなると描き方が全く違う。1月17日午前中にNHK総合で放送した「NHKアーカイブス・安田講堂落城 あの日から40年 学生たちのその後」は、視聴率は全くとれそうにないが、安田講堂に立てこもった学生たちのその後の40年の人生を丹念に追いかけた点で秀逸。再放送があるかどうかわからないが、もし再放送があったら出来るだけ多くの人に見てもらえるように、もっともっと事前に広告を打ってほしいものである。


 このブログでも既に紹介した最首悟(さいしゅ・さとる)氏も登場(Fri 081226参照)。安田講堂落城時は東大医学部助手で、助手共闘に加わり、その結果、東京大学ではその後一切昇進することが出来ず、教授はおろか助教授にもなれずに、助手のまま飼い殺し状態に放置され、助手のまま退官された先生である。40年前、30歳を少しばかり過ぎた段階で東大医学部助手、ということは、まさに日本を代表するエリートであり、知識人である。それでも反戦と平和と大学の自治、今ではすっかり古びてしまって高校生などにはほとんどアピールしそうにない理想のために安田講堂に残った男が、そのことのせいで40年飼い殺しになる、そういう大学である。


 彼がよく語っていたのが、事件後にさらされた東大内部の視線の冷たさ。「目で殺す、ということが出来るんですねえ」と優しい声で先生がおっしゃるとき、その目の奥にある深い苦々しさは忘れられない。もちろん私が最首先生とご一緒したのは駿台仙台校の夏期講習の飲み会で1回きりだから、まるで知り合いのように書くのは気が引けるのだが、「助手として、もし顔を見られたら、その後の東大での人生はすべて台無し」と知った上での籠城参加は、とにかく余程の覚悟と、余程の理想に燃えていない限り、出来るはずのないことである。

 

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(東大正門から、イチョウ並木を通してみる安田講堂)


 番組では、地域医療に尽くした今井医師の足跡も詳しく紹介。今井医師は2002年に亡くなったが、葬儀で山本義隆氏(Thu 081127参照)が圧倒的な葬送の言葉(弔辞という言葉では括りがたいもの)を述べるシーンは、その全てが放送された。もちろん東大全共闘議長である。当時の演説の様子も紹介され、安田講堂を満たす破裂しそうな熱気と緊張感も伝わってくる。彼らがあの後どうなっていったか、どういう人生を送ったか、それをしっかり追っていく番組づくりは非常にしっかりしていた。「東大闘争最大の損失は山本義隆を失ったことだ」とまで言われ、それでもアカデミズムの外側から奮闘を継続し、駿台で物理を教えながら、大佛次郎賞まで獲得した彼の活躍はむろん素晴らしいが、その他多くの者たちが、その後の40年をまさに全力で生き抜いたのである。

 

 もちろん、「革命ごっこ」と揶揄される部分も大きかった。それまであった伝統その他をすべてぶちこわしにしたという批判も大きかったし、1969年芥川賞受賞作品、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」の中にあるような「興味本意」の人々が大勢を占めたわけだし、冷ややかな目で見る者が大半で、実際にその年の東大入試は中止になったのだから、受験生諸君(といってももちろん私より遥かに年上だが)に大きな迷惑をかけたのも間違いない(Thu 080619参照)。しかし、そこには佐々淳行が民放の番組で語っていたあくまで真摯な熱気があって、それが今の大学生世代にあまり見られない、今になってみればきわめて好ましい熱気であったことも間違いないのである。


 私の世代は、彼らの弟の世代でさえない。当時はまだ小学生で、ポートボールやズル休みやソフトテニスのボールで野球ごっこをするのに夢中だったのだから、父や母が眉を顰めて報道を眺めているのを、横で見ているだけだった。「弟の世代」というより、「甥っ子の世代」である。しかも、怠け者だったせいで、東大にも合格すらできなかったダラしないヤツである。早稲田に入学した頃には、もうああいう熱気はすっかり過去のものになっていて、学生会館とか、講堂の地下とか、そういう陽の当たらない不気味な暗がりの中に、特殊な字体で書かれた立て看板の残骸が積み上げられ、妙に年齢層の高いヒゲボウボウの男たちがヒソヒソ話し合い、捨てられたビラがたくさん風に舞うのを、かけ離れたものを眺めるような視線で眺めていただけである。


 加藤周一・大江健三郎・小田実の世代が始め、山本義隆や最首悟の世代が引き継いだこういう理想のタスキを、その後に続く世代が引き継ぎそこね、いまではそのタスキは泥の中で踏みにじられている。本来、踏みにじることなく再び引き継ぎを継続しなければならないもののようなのだが、まあとにかく17日からはセンター試験である。受験生諸君には、全力を出し切って、何よりもまず第1志望を突破してくれるように、心から祈るばかりである。