Mon 081208 蛍光ペンを使うな アンダーラインを引くな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 081208 蛍光ペンを使うな アンダーラインを引くな

 「するな」シリーズはキチンとまとめて1冊の本にすることになり、たくさんの小見出しや項目ごとの「結論」をつけた形で整理して、某出版社に原稿を提出。早ければ2月、遅くとも3月初旬には書店に並ぶ予定になった。

 だから、とりあえずこのブログで「するな」というタイトルの記事を書き続けることはないだろう、というのが3日前の判断。しかし何となく桑原先生のことを思い出して書き、すると浜名先生や小柴先生の「ひとくちヨーカン」を思い出し、「ありゃりゃ、そういえば駿台予備校の記憶として一番大事な鈴木長十先生について今まで書いたことがないぞ」と思い、そんなことをしているうちに時間が経過して昨日に至り、少年時代の憧れの対象が世を去ってしまった(081207参照)。

 昨日はまだショックが大きかったのかもしれない。書棚を9つ並べた冷たい廊下に早朝から座り込んで、著作集を箱から取り出し、「読書術」をパラパラめくり、朝風呂を沸かして本を持ち込み、1時間も長風呂して身体中ふやけた挙げ句に、午前中からビール、ついでにウィスキーを2杯飲みながら、まだいろいろ読み返しているうちに、何だか寒気を感じ、「やれやれ参ったね、こりゃ風邪でも引いたかね」と思ってニヤニヤしていたら、日曜日は簡単に昼を過ぎた。

 昼を過ぎたら寒気は全くなくて、感じていたのは、眠気。眠いのが先で、寒いのは実際に北風が吹き荒れる1日だったから、暖かいネグラが恋しかったに過ぎない。確かに前日の東京での竜巻以後、寒冷前線が通過して急激に気温が下がっていたのだった。

 

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(マドリード・バラハス空港の免税店で見つけたTシャツ「BAD TORO」。昨日の写真の鋭い視線に憧れて育った私が、雑然と雑食の末にたどり着いた勘違いの視線に酷似した、イケナイ雄牛である。もっとたくさん買ってくればよかった。)

 アランだったと思うが「読書しながらノートをとるのは愚かである。ノートを取らなければ忘れてしまうようなことは、もともとどうでもいいことだからである」と述べた有名な哲学者がいた。

 私がノートを取らないのは、単に怠惰だからに過ぎないのだが、世の中には驚くほど美しいノートを作成する人がたくさんいて「東大合格生のノートは必ず美しい」らしいから、ノートを美しく作るのは学力向上には必須の条件なのかもしれない。

 ここで問題にすべきなのは、ノートを「授業を聴きながらとる」「読書しながらとる」のか、「授業後にノートをまとめる」「読書後にノートにまとめてみる」のか、どちらにすべきかということである。

 一般的なのは、「授業中にとったノートが美しい」ということである。特にアンケートがうるさい予備校では、先生方が7色の色チョークをつかってカラフルに工夫して板書するから、目の前で作成される板書(それをカッコよく「パネル」と呼ぶことはすでにいつか書いた)を、生徒たちも7色のサインペンと7色の蛍光ペンを駆使して綺麗に写し取れば、それで十分「必ず美しい」ノートが出来上がる。

 しかし、そうして板書(パネル)をそっくりそのまま綺麗に写し取って作成した美しいノートの持ち主が、成績がいいか、その科目が得意か、東大合格生になれるか、という話になると、全く別である。

 むしろ、パネルの美しい先生の授業というものは、評判はいいが成績が上がらないことのほうがが多いようである。パネルを写しているだけで勉強しているような気にはなれるし、家に帰って復習しているときにも、その美しいノートをウットリ見ているだけで復習した気になってしまうから、「知識を定着させる」「定着した知識を引き出しから取り出す」つまり得点力をつける訓練を怠ってしまいがちなのだ。

 

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(同じく、空港免税店で発見した「BAD TORO」のマグカップ)


 美しいノート、というのは、「授業を聴きながら」「読書しながら」作成するものなのではなくて、「授業後」「読書後」に作るべきものなのである。授業ではメモをとる程度、読書しながら走り書きする程度で、決して写し取る作業に没頭するのではない。

 私は授業中冗談のようにいうのだが、綺麗なパネルを綺麗に写すだけなら、別にデジカメで板書の写真を撮るだけでいいのだ。1枚の板書が出来上がったら、その時点で立ち上がってみんなで「パシャ」と1枚とる。どうでもいいことだが、スペイン語では「パシャ」を「パハリート」という。

 7色のサインペンと蛍光ペンを、先生の使う色チョークに合わせて100人も200人もの生徒たちが、あっちをとったりこっちをとったりしてカタカタカタカタやっているのは、きわめて20世紀的な時代遅れの風景。そんなことをやっているヒマがあったら、先生のパソコンから生徒たちのパソコンに板書のデータを送れば済むことだ。

 授業中は、先生の話を聞くことに没頭すべきだし、先生もそのように指導すべきである。授業中には走り書きのメモで済ませて、復習するときに、メモと記憶を頼りに自分なりの美しいノートを作成するのが理想なのである。

 メモと記憶を材料に、自分なりのパネルを立体的に作る工夫をするからこそ、内容が美しく定着するのであり、そうやって美しく定着させた記憶は得点力につながりやすい。それこそが「自分なりの絵画を描いてみる」ということである。

 多くの予備校でやっている単なる板書写しの作業は、いわば塗り絵に過ぎないのであって、塗り絵というものは、やってもやっても自分で絵を描く能力を育成することはできない。

 東大合格生のノートが美しいのは、そういうノートだからである。科目が何であれ、授業中に先生の板書だかパネルだかを書き写しただけのものが美しいのではない。だから「東大生のノート」ではなく「東大合格生のノート」なのである。

 東大生のノートは、あくまで走り書きのメモ。文字も汚いのが多い。しかし彼らは、受験勉強をする際に、多くがそのメモを自分なりの絵画的ノートにまとめ直す仕事をやったのだ。そこのところを間違うと、先生の板書をキレイに写し取ることに夢中になってそれで終わってしまうから要注意である。

「アンダーラインを引く」「蛍光ペンで塗りながら参考書を読む」ということについても注意が必要。昔から、「ダメな受験生ほどアンダーラインだらけ」「アンダーラインで教科書が真っ赤」「参考書が蛍光ペンの7色でギラギラ」の状態になるものだが、一方で、出来る生徒の参考書は、「アンダーラインが1ページに1カ所ぐらい」なのである。

 ごく簡単に言えば、ダメな生徒は「読みながら色塗りをしているだけ」なのに対して、出来るヤツは全体を読んだ後で、全体の中で何が大切なのかを判断して、どうしてもアンダーラインが必要だと判断した部分にのみ、やむを得ず下線をひく。

 本来ならそんなことをして本を汚すのはイヤだし、アラン流に言えば「アンダーラインを引かなければ記憶できない程度のことなら、記憶しなくてもいい」のであるが、記憶力にそこまでの自信がないし、余りにも重要なのでやむを得ず線を引くのである。

 ここでもまた「観の目、見の目」が登場する。ものを読むときにも、先生の話を聞くときにも、まず見の目で全体をマクロに見る、あるいは人物画を描くときに背景を先に描く、料理で言えば出汁を先にとる、それと同じことが必要だ。

 全体がどういう構成になっているのかわからないのに、いきなりミクロの目で「ここが大事」と判断して行き当たりばったりに蛍光ペンで塗りまくるのでは、楽しい読書は出来ないし、美しい絵は描けない。教科書や参考書のページが塗り絵化するだけである。

 日本的な論理展開にダマされることもある。細かな事実を詳細に論じ立てたうえで「 … ではない」とまとめて否定するのが、日本語の文法であるが、いきなりミクロの目で読んでいくと、「これも大事」「ここも大事」と盛んにアンダーラインをつけ蛍光ペンで色塗りをした挙げ句に「 … ではない」と否定されて唖然とすることになる。

「読みながら線を引く」のではなく「読み終えて線を引く」のでなければならない。もちろん、線など引く必要はもともとないのだが、「ここが重要」という判断自体、一度全体を理解した上でなければ出来るはずのことではないのである。

 

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上:マドリード・チャマルティン駅の自動販売機で発見したヒマワリの種のスナック。キャラクターは「MISS PALOMITA」。下:もちろん不二家ミルキーのペコちゃん。可能性1:パロミータがパクリ。可能性2:ペコちゃんがパクリ。可能性3:両者が提携関係にある、その他。

 「何が重要なのか」は、本1冊を通読した上で決まることだし、授業を1本受け終えてチャイムが鳴った後でなければわからない。蛍光ペンが登場するのは、1冊読み上げた後、あるいは1章またはワンセクション読み上げた後なのだ。「美しいノート」を作るのが、授業中ではなくて授業後の仕事であるのと同じである。

「情報は1冊のノートにまとめなさい」という本が27万部売れるベストセラーになり、今朝の朝刊を見たら、その第2弾ということで「読書は1冊のノートにまとめなさい」という本の広告が掲載されていた。

 アランが言う通り「ノートなどとる必要はない」のだが、こういう本を読んで、もしどうしてもノートを作りたくなったら、「読みながら」ではなくて「読んだ後」でなければならない。

 しかも、その仕事は非常にクリエイティブな仕事であって、そういう仕事を通じてつける学力は、ノートを写すのに予備校でお金を払うのとは別格の学力。論述力をつけるのに、おそらくこれ以上の方法はない。

 一昨日書いた桑原岩雄先生は、力のつく参考書は、「大きな活字でなければならない」といつもおっしゃっていて、実際に「古文要説」の本文は驚くほど大きな活字で印刷され、はしがきにも「この本の大きな特徴はそれだ」と明記している。

 はしがきの最後には「本文には。傍線や書き込みは決してしないこと。鮮明な字面で繰り返し味読することが力をつける最高の方法である」、さらに続けて「やむを得ず傍線をつける時も、何度か復習して、特に重要と思うところにのみ、なるべく少なく、しかも目立たないようにすること」とある。昭和51年3月、の署名があるから、今から30年以上前、実に素晴らしいことをおっしゃった古文の先生がいたのである。

1E(Cd) Festival International de Sofia:PROKOFIEV/IVAN LE TERRIBLE
2E(Cd) Schüchter:ROSSINI/DER BARBIER VON SEVILLA
3E(Cd) Cohen:L’HOMME ARMÉ
4E(Cd) Vellard:DUFAY/MISSA ECCE ANCILLA DOMINI
7D(DvMv) MULHOLLAND DRIVE
10D(DvMv) JFK
total m50 y2029 d2029