既にホットな話題から遠のいてしまったが、7/25、女優・島田陽子さんが亡くなられたと、「Yahoo!ニュース」で知った。
いつかこんな日が来るとは思っていたが、それは10年、あるいは20年位先のことだろうと漠然と思っていただけに、突然の出来事に思える。
享年69歳。古希にも満たない。
記事によると、実は3年まえから大腸がんを患っており、ストーマ装着を医師から勧められていたとの由だが、女優業に差し支えるとして、その選択はせず、人知れず闘病されていたが、7/21の大量下血後、急に容態が悪化し、還らぬ人となったとあった。
近年、当blogの更新も滅多にしなくなってしまったが、それはある程度の文章を纏めようとすると、かなりの長時間を要するからである。新型コロナ禍で時間が空くと当初は思ったが、生活スタイルが変われば変わったで、なかなか纏まった時間が確保できない。
とはいえ当blogを始めたきっかけを思えば、この方との早すぎる別れについては、やはり触れないわけにはいかない。
今はどんな長さになるのか、想像もつかないが、始めたいと思う。
俯瞰すれば毀誉褒貶が激しい人だったとはいえ、嘗ては「誉」、「褒」一色の好意的な捉えられ方をしたものだし、更には時の人となったことさえあった。
後年になればなるほど残念ながら「毀」と「貶」でしか捉えらえれず、“スキャンダル女優”、”お騒がせ女優”のレッテルを貼られ、近年ではめっきりメディアで取り上げられることもなかった。
この方が活躍され、人気を博していた頃を知るのは、今となってはかなり年齢のいった人たちであろう。
そんな中にあって、私は還暦にもまだ遠い、相対的に若い"島田陽子ファン”と言って差し支えないと思う。
同世代、同年齢でも、悪いイメージしか抱かぬ者も多いようだ。
それが十分わかっているので、私は滅多なことでは"島田陽子ファン”であることを周囲に口外しないことにしている。
実際、今から10年少し前、こんなことがあった。
高校時代の当時の友人たちと3人で会った時のことである。
Aはその少し前からふとしたことがきっかけで時折会ったり連絡し合ったりしていた。Bとは学生時代は寧ろより親しい友人であったが、この時会ったのが8年ぶりであった。
美術展の後、遅い昼食の席で、映画鑑賞趣味のある私に、Aが最近観た映画を尋ね、私は『華麗なる闘い』を挙げた。
有吉佐和子の『仮縫』を原作とする本作。若き内藤洋子が、オートクチュールの縫子として勤め始め、野心を抱くも、岸恵子演ずる経営者に格の違いを見せつけられる話である。
Bが内藤洋子といえば『氷点』のヒロインだったが、『続氷点』では島田陽子に変わったと知識を披露した時、Aがすかさず「島田陽子といえば、〇〇君」と私に水を向けた。
私は内心、「余計なことを言うな」と思ったが、特に口止めしていたわけではないからこの事自体は仕方がない。
それを聞いたBは、すかさず私のほうを向き、こう言ったのだ。
「ありゃダメだ。女性の趣味、大丈夫か?」
Bは元々、くそ真面目で面白味はないが、硬軟含めた多様性への包容のある人物だと思っていただけに、まさかこやつがそんなことを言うとは全く想定外で、咄嗟に私は何も言えなかった。
「島田陽子については、言いたい事は色々あるが…」
そう言いかけたところで、Bに発言を遮られた。
人それぞれ、考え方の違いはあってもいい。
ただ、いやしくも大学で議論を交える経験と教育を受けてきた者同士。
反論するにせよ否定するにせよ、異なる考えの持ち主の意見も一応は聞いてからというのが、人としてのマナー、良識ではないのか。
それが真の教養というものではないのか。
ましてこの時、8年ぶりに再会した旧友同士。
偶々好きな女優の名が知れ、それが自分の考えと違おうが、"女性の趣味”云々まで言われ、マウントを取られる筋合いは全くない。
最初から彼らとは、互いに相手を無遠慮にけなしたり、乱暴な言葉をかけあったりする付き合い方をしてはいない。
それは互いを「君」付けで呼び合うことからも想像がつこう。
冗談口では済まされないのである。
それでも私は暫くは「理解されないのは仕方がない。俺が我慢すればいいだけだ」と思おうとしたが、何でそこまで悪しざまに言われなければならないのだろう。
又、議論を一方的に封じ込めたBという男の8年間の変貌ぶりに愕然とし、次には腹を立て、遂にはその人間性への信頼を失うという結論に至った。
「お前がダメだ。」
口にこそ出さなかったが、そう思った。
こんな横柄に成り下がった人物と、ただ旧友というだけで無理して付き合っていく意義は最早何もない。
結局、このBという奴とはそれきりで絶交することにした。
最後までこちらから抗議も反論も意見も一切せず、ただ一方的に関係を絶った。序に言うと、この時のおしゃべり男・Aともほどなく別のきっかけにより絶縁した。こちらは私の生き方について知った風な口出しをし始めたことを鬱陶しく思ったからだ。
それで良かったと思っている。
学生時代からの友達で、ずっとその感覚で付き合いが持続するとこちらは思っていても、相手が必ずしも同じとは限らない。
久しぶりに再会してみれば、妙なマウントを取り、自分のほうが優っていると主張したがる、料簡の狭い人間に堕してしまう者だっている。
因みにその席で、助け舟の積りだったのか、AがBに「じゃあB君は誰が好きなの?」と問うたら、綾瀬はるかと仲間由紀恵の名前が出た。
両名に恨みはないが、「何てミーハーな…」と内心思った。
思い返せば、このBという男は、学生時代から、くそ真面目なくせに、流行りものを追いかけ、取り敢えずそれに乗っておかねばならないという付和雷同型のミーハーな面があったことを後になってから思い出した。
見方を変えれば、その時々で無難な好みを言っておけば、何か言われることもない。そんな小狡い料簡さえ感じ取れる。
結局自分がない奴なのだ。
こう記すと、途端に子供の喧嘩じみて滑稽に映るだろうが、どう考えても、少なくとも若い頃においては、この両名よりも、島田陽子さんのほうが、女性としての魅力は遥かに上。格の違いを感じる。
今もその見解に変わりはない。
聊か格好つけた言い方をするならば、私は自らの”島田陽子ファン”を貫き、代わりに旧友2名を捨て去った。
「そんなことで…」と思われたり、或いはBの意見に賛同する方もおられるかも知れない。結局自分が損していると思われる向きもあろう。
だが私にとっては、特に女性の好みの不一致というよりは、議論を一方的に遮断するという対話の否定こそが、決して捨て置けない許しがたい蛮行に思えてならなかったし、今もそう思えてならないのである。
そんな経験が、私の”島田陽子ファン”度をより強固なものにした。
秘すれば花。
そんな言葉が古くから我が国にはあるが、この機会を逸すれば島田陽子さんのことを詳しく記すこともまずないだろう。
以下は、相対的に若い一ファンの、私的な追悼文と回顧録である。
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島田陽子さんの顔と名前が一致したのは、私の場合、1981年春放映の『将軍 SHOGUN』によってであった。
それまで名を覚えた女優といえば、堺正章版『西遊記』による夏目雅子さん、『クイズダービー』による竹下景子さん位しかいない。
女優の名を本格的に覚え始めたのは、1983年のNHK大河ドラマ『徳川家康』、更にその後の昼ドラマ等がきっかけであった。
恐らくはその前にも、例えば幼少期『仮面ライダー』の再放送を見ていた時、初期にだけ登場する野原ひろみを意識せずに見ていたかもしれない。
少し時代は下って、角川映画『犬神家の一族』(1976)が大ブームとなった。今でいうメディアミックスの先駆けともいえる作品である。
島田陽子さんは言わずと知れた珠世さん役として名を馳せたが、小学生時代、横溝正史という原作者の名前すら怪しく、専ら志村けんの「八つ墓村のたたりじゃ~ひえ~」というギャグでしか横溝作品を認識していなかった子供の私には、凛とした佇まいの綺麗なお姉さんではなく、無表情な佐清のゴムマスクと、その下の恐ろしい傷跡、更には湖上に逆さYの字になって晒された死体の絵面、おぞましい真相が、強烈な印象に残った。
田宮二郎版『白い巨塔』は後に何度も見ているが、主演の田宮二郎氏が猟銃自殺を遂げるというショッキングなニュースを受けてか、最終回だけはリアルタイムで見ている。
転移、黄疸などという言葉を覚えたのはこの時である。
後に、「佐枝子さんが見たい」という特別な理由が生じたことも相俟って、随分と視聴回数を重ねたが、最終話放映当時は財前五郎の壮絶な死と苦悩の印象が強烈過ぎた。
最終話に限っては、前半に少し登場するだけの「お姉さん」に目が行くほど、ませた子供ではなかった。
『将軍 SHOGUN』は、丁度中学入学直前の春休みにテレビ朝日の8夜連続で放映されているのを視た。
放映前に頻繁にテレビで宣伝をやっており、リチャード・チェンバレンの
「ワタシはサムライ!」(「サ」の部分にアクセントがある)
という台詞を、クラスメートが頻りに口真似していた。
余りにその台詞ばかり事前に聞かされたので、てっきり按針が、その決め台詞(?)を口に、敵役をバッサバッサ。
そんな痛快ものを勝手に想像していた。
小6で日本史を学び、男子は概ね、俄か歴史ファンになっているから、虎長=家康、石堂=石田光成…と、懸命に照合していく。
当時、思春期にはまだ少し早い年頃。それに当時は男尊女卑が今よりずっと強かった。
猛々しい武将や、按針ことブラッドストーンには注目しても、女性陣については触れないという「不文律」のようなものがあり、まり子さんを美しいという者は誰も周囲にはいなかった。
あまりに凛としていて、子供が安易に語ってはならぬ雰囲気があったからでもあろう。
ずっと母と一緒に見ていたが、
余りに有名な入浴シーンや、逆光に浮かぶ裸身を見て、
「…島田陽子がこんな役をするなんて…」
と母が言っていたのを、昨日のことのように覚えている。
随分後で、そのことを話したら、母はすっかり忘れてしまっていた。
物語後半の、虎長に命を賭して進言する場面で、白装束を纏ったまり子さんが、武将どもの前で、まさに自ら喉をつかんとする寸前のところで、進言が受け入れられ、自害を逃れるのだが、当時の曖昧な記憶で、「まり子さんが切腹しようとしている」と思い込み、それで亡くなったのだと、暫く勘違いしていた。
矢部というフランキー堺演ずる虎長の重臣が突如裏切り、それが原因で爆風に煽られ按針は一時的に視力を失い、まり子さんは非業の死を遂げることとなる。
役柄と役者の人柄は必ずしも一致せず、それを重ねて見てしまうのは、一種のバイアスなのだが、視聴者にしてみればどうしても避けることができない。
現在、悪評高いNHKの朝ドラ『ちむどんどん』にしても、ヒロイン役・黒島結菜のことを”無神経で自己中心的なバカ女”、にーにーこと賢秀役・竜星涼のことを”金銭トラブルと騒ぎばかり起こす救いようのないがさつな駄目男”、ヒロイン相手役・和彦役・宮沢氷魚のことを”言うことだけは一丁前だが自分では何もできないクズ男”…役者自体のことをも役柄にダブらせてそう思い、既にかなりの割合で彼ら自身を嫌いになりつつある。
視聴をリタイヤするのも時間の問題であろう。
それと同様、フランキー堺のことも、顔を見ただけで私は随分後になるまで「こいつのせいでまり子さんが爆死した。裏切り者め!」と悪印象を抱いていた。
その見立てを拭うには、後年再放送されたTVドラマ版『あ・うん』の視聴迄待たねばならなかった。
更にもっと後で東宝ミュージカル映画『君も出世ができる』の視聴に及び、完全に"フランキー堺=矢部=悪い奴"という呪縛から、漸く氏を解き放つに至った。
ともあれ、この時、島田陽子という女優のことを、着物の似合う上品で綺麗なお姉さんだな、とは思ったが、後にここまでこの方の大ファンになろうとは、当時は夢にも思わなかったのである。
ついでだから記すが、私にとって『将軍 SHOGUN』の視聴経験には、ちょっとした運命のいたずらがあった。
私は両親共々神戸の出で、父の転勤により東京に越してきた。
詳しく書きすぎると本文から逸脱するので端折るが、漸く東京暮らしにも慣れ始めた頃、父が近く神戸へまた転勤になるかもしれないと言い出した。
家は西明石にあり、当時は人に貸していたが、そうなるとまたそこに戻ることになる。だが地元の中学は駅前の、ちょっとガラの悪い学校で、それなら神戸の私立を受けようという話になり、私は否応なく受験戦争に巻き込まれることとなった。
その時受けたX中学は、俄か準備でパスできる代物ではなく、レベルも当時の私には高すぎて歯が立たず、結局受験に失敗した。
実力不足、準備不足は自分でもわかっていたとはいえ挫折経験は当時の私には大きなダメージだったが、一方で、小学校の友達らと地元の公立中学へ通うんだと主張し、時には受験勉強ストライキを起こしたこともあるほどだったから、結局その望みが叶うことにもなり、ショックはすぐに消し飛んでしまった。
受験直前期に、父が音量を小さく絞ってテレビを見ていたが、その中に
『加山雄三のブラック・ジャック』というTVドラマがあった。
時折隙を見て一緒に見ていたが、口うるさい筈の父が何故か何も言わなかった。
歴史に「if」は禁物だが、もしあの時X中学に合格していたとしたら、明石からは到底通えなかった距離だし、家の借主にいきなり出て行けとも言えなかった筈なので、多分神戸市内にあった祖父母宅に母、妹と共に住まわせてもらい、そこから通うことになったと思う。
そうなると、毎日のように阪神電車に乗ることになったことだろう。
今でさえ、阪急、阪神の両電鉄は私の鉄道趣味の原点であり、強い思い入れがあるのだ。もし毎日のように乗車し、接することになっていたら、どれほど強度な阪急、阪神ファン(勿論この場合は鉄道の)になっていたか知れない。
そして、何よりもこの時点で関西人に戻ることとなり、もしかすると、今の生活拠点も近畿圏になっていたかもしれない。
結局この春はおろか、後に至るまで、父の神戸への転勤はなく、1981年の春休みは、少なくとも大きな環境の変化を伴うことなく平穏に終わった。
『加山雄三のブラック・ジャック』は同年4月初頭まで放映され、中学受験の重圧から解放された私は、後半を毎週欠かさず視る機会を得た。
本作は、私の記憶する限り、翌1982年春以外、後に「スカパー!」で放映されるまで一度も再放送がなかった。
DVD-BOXが出、レンタルにも出回っている今となっては信じがたいことだが、長らく「幻の作品」として、何よりも異色作として一部ファンの間で語り草となった作品であった。
受験勉強の最中から、江戸川乱歩の少年探偵シリーズに傾倒していたが、同年4月初頭、天知茂主演『江戸川乱歩の美女シリーズ』の『影男』が土曜ワイド劇場で放映され、家族皆で視た。
以来、同シリーズの視聴を欠かさなくなり、天知茂氏の急死(~自殺と記されているのを幾度か目にしたことがあるが、とんでもない!クモ膜下出血による急逝であった。享年54歳。この度の島田陽子さんよりも尚早世であった~)、北大路欣也氏が二代目明智を受け継ぎ、果ては江戸川乱歩原作ドラマも映画も、どんな駄作であっても全て視るようになった直接のきっかけが、当シリーズで、初視聴がやはりこの時なのである。
そして引っ越し準備に明け暮れていたら、勿論『将軍 SHOGUN』の8夜連続放送の視聴も叶わなかったに違いない。
この時に島田陽子さんの名前を覚えたのだから、人間の巡り合わせというものはわからないものである。
私にとって、この1981年春という時期は、属性においても、後の映像系趣味においても、好きな女優の名を覚えたという点においても、紛れもなく人生の大きな転換点であった。
そして『将軍 SHOGUN』をきっかけに、島田陽子さんは一躍時の人となっていった。
次回へ続く。
以上一部を除き敬称略。
















































