今日は懐かしい人と会った。

 わたしはこの5年間仕事のために彼が住んでいる街を通り過ぎていた。

 現役で頑張る彼は平日は出社。わたしは平日に仕事に行く日が多いので、巡り会えなかった。

 それが、彼は仕事を辞めた。いまや自由人になったのである。

 今日は、仕事でなんと午前8時に出かけた。

 苦痛ではない。

 10時に病院に着いた。

 退院が決まった。

 概算の支払額を聞いてから、病院を後にした。

 友人に電話し、落ち合う場所を決める。

 同じ大学の友人が亡くなったことを知らせてくれたのがその友人である。

 その通夜の日以来の、5年ぶりの再会である。

 この友人とは、房総半島を歩き、彼の出身地である九州旅行を共にした仲である。

 気が合ったのであるが、わたしの都合でこの5年間は交流がなかった。

 先だっては中学時代の友人に会った、今度は大学時代の友人である。

 過去のつながりしかないのである。

 そう思いながら、過去のつながりを甦らそうと思うわたしである。


 吾も病み彼も病みても寒き冬

 4月に消費税が5%から8%に上がる。

 必要な高額商品があれば購入したほうが得だと、駆け込みを促す風潮がある。

 わたしは車は嫌いなので殊有していない。

 冷蔵庫、洗濯機、エアコン、電子レンジは動作中である。

 わたしが必要な宝飾品は思いつかない。

 金は投資であるから論外である。

 さて、さて、買うものがあるのだろうか。

 日用雑貨の食器はどうか。

 銀座にある箸やはよく覗くが、高価すぎて欲しいと思わない。

 いい陶製の茶わんが頭にとまった。

 しかし、日用品なので必要になれば購入でいい。

 漆わんもそうである。

 ハラダのラスクは来週大目に購入する。

 3月の最終週にスイカに入金刷れば足りる。

 得をしたい気持ちはあるが、どうも駆け込みたいものはないことに気がつく。

 せいぜい、冷凍食品とか、災害時の食べ物とかを買っておこうと思い、思考を停止させた。

 昨晩から絶え間なく細い雨が降り続いている。

 その雨を見ながら出かけるのは止めたいと思った。

 しかし、請求書は届いたら銀行に出かけようと折り合いをつけた。

 午前11時を過ぎたところで郵便ポストを見に行った。

 請求書が届いていた。

 観念して近くの銀行に赴いた。

 内心では利用客がいないのではないかの期待があった。

 現金自動支払機に列はなかった。

 すぐに操作をしたが、登録したはずの支払先がない。

 あきらめて、支払先の確認のため自宅に戻った。

 「うん、確か支払先は他行であったな。ゆうちょではない」

 間違いに気づいたが、遅い。

 仕方なく、午後一番に再度銀行に行った。

 ほかの用事、定期預金の解約もしてしまおうと考えたわけである。

 午後も待ち人はおらず、スムーズに振込と解約ができた。

 わたしは行った先に人がいないところに行きたがる性格がある。

 平日と冬が活動日になる。

 これからは、銀行は雨の日にしようと妙に確信した。

 小糠雨降る、御堂筋に人は多く歩いていたのかなあなどと思いを巡らせ悦に入っている。 

 近くの梅の名所に今日も出かけた。

 天満宮には、わたし以上の年代の人であふれていた。

 日本人は梅が好きなのであろう。

 絵を描く人、梅とのツゥショツトを撮る人など梅園は人だかりであった。

 昨日の閑散とした状況ではなかった。

 人間は正直である。

 天気の良さが人手を決める。

 わたしもその一人である。

 この天満宮の梅を矯めつ眇めつ見た。

 白梅、薄紅、紅梅。

 ほぼ満開であるが、つぼみだけの梅の木もある。

 なんとも、気ままなのである。

 これが自然の息遣いなのである。

 われわれ人間は個性を無くしてきた。

 自然の気ままさに学ばなければならないのだろう。

 まだ、梅の花びらは散ってはいない。

 小柄の花びらは、わたしによく見て帰れとつぶやく。

 思わず、わたしは花びらを見やった。

 季節を忘れるところだった。

 今日は午前中から図書館に行った。

 図書館のアプローチには紅白の梅の木がある。

 なんと満開であった。

 春が来たことを知らせててくれているのである。

 図書館の中に入るのも忘れ観賞した。

 雪のせいで、春を忘れていた。

 わが街にもいたるところに残雪が凍り付いている。

 よく出かけている八王子では昨日も雪かきをしていた。

 ところが、春告げ花が満開なのであった。

 わたしは、わが街の梅の名所天満宮へ足を運ばせた。

 人はいないが、梅は満開であった。

 白い梅、ピンク色の梅、紅梅と見事に咲き誇っているではないか。

 桜の花の芽の具合は見ていたが、まだ咲きたいとは思っていないと受け止めていた。

 ところが、春一番で咲く、梅は季節を裏切らずに咲くときに咲くのである。

 わたしは自分のうかつさをしかりつけるとともに、春の訪れを祝っていた。

 雪がわたしを惑わしていたが、梅は微動だに季節を知らせてくれる。

 自然の力を感じているわたしであった。

 小雨降る中、出かけざるを得なかった。

 被後見人のグループホーム家族会と被後見への見舞いのためである。

 わたしを含めて5人が参加していた。

 家族を案じるため、医療機関との関係やグループホーム内での事故について多くの質問や意見が出された。

 どうも、服薬管理と転倒事故が多く発生するのが気になり、改善を要望した。

 わたしは家族の代理として出席しているため、本物の家族に比べると発言は最小限に抑えるようにしている。

 家族への想いは半端ではないと感じた。

 

 それから、入院中の被後見人を見舞う。

 「私のことなんか忘れられてしまっていたと思っていた」

 と、わたしの姿を認めたとたん言ってくれた。

 グループホームの職員が交代で見舞いに行っているはずなのだが、直近の記憶は残らないようだ。

 わたしはおしゃべりだが、長すぎるのは嫌いなので、迷ったが、腰を据えて話を聞いた。

 「自分は迷惑をかけたくない」

 これが、本人の意思なのである。

 このことをしっかりと受け止め、今後に生かしていかなければならないと強く思った。

 わたしも気力、本人も気力が揃えば、解決の道のりが見えると考えた。

 冷たい小雨が降り続いている。

 出かける用事もないので、この雨は降り続いてもらっても差し支えない。

 人と会ったり、ここのところ行っていない小旅行の予定があったりすれば、雨は大敵である。

 テレビのスイッチを入れる。

 この雨の中、ラグビーの日本選手権でパナソニック対神戸製鋼、Jリーグのセレッソ大阪対サンフレッチェ広島の対戦が中継されていた。

 わたしはラグビーの大ファンである。

 実は、ラグビーの世界選手権が日本で開催されることを楽しみにしている人間なのである。

 世界の水準からみると日本チームの水準は低い。

 ラグビーは実力通りの試合しかできない。

 いまのままの日本代表チームであれば、開催国枠で出場し、健闘すらできないであろう。

 それでも大畑さんが女子大学のリーグ戦構想を実現しようとしたり底上げの動きが目立つ。


 そんな話をしたかったのではない。

 わたしが日本リーグの試合を観戦した時に、雨は降ったことがなかった。

 わたしは「晴れ男」なのではないかと、秘かに思っているのである。 

 3週間前に昼そばをしたが、緊急の用事ができたそうで1人欠席した。

 欠席した人間が、悪いと思っていたらしく、今日昼そばした。

 わたしとその人間とはやりとりはパソコンメールである。

 携帯メールはわたしは操作上苦手である。

 わたしはいつものようにきょうやには12時45分に着いて、日本酒を頼む。

 残念ながら、獺祭はなかった。

 佐久の花を頼んだ。

 ところが約束した人間が12時59分に姿を見せた。

 わたしにはパソコンメールで早めにつくと知らせたらしい。

 12時50分まで一番長く時間を共にすることができた。

 話の中心はわたしの話。

 わたしの被後見人の入院、手術の話である。

 それにしても怒りの心は長引く。

 楽しい話をしなければならない。

 そこで、回転寿司に行く話をした。

 寿司屋にラーメンにはあきれていたが、これは受けた。

 寿司を食べた後、わたしはラーメンは食べたいとは思わないが、食べてみたいとは連れの感想であった。

 わたしはニューヨークの朝食にオレンジジュースがついていたのには飛び上るほどの驚きがあった。

 今度は、日本で寿司の上にラーメンである。

 子どもたちが食のルールをわからないままに常識にしてしまう。

 あああ。

 本書は2004年12月10日に講談社から刊行された。

 わたしは作品に即して読むをモットーとしているため、漱石の周辺の本は江藤淳を読んだ以外は読まずにいた。

 暇で、時間がありすぎるから読もうと思ったのだ。

 本書の内容は、『吾輩は猫である』『坊つちゃん』『三四郎』の三作に登場する主要人物のモデルは誰かに焦点を当て詳述されている。

 この筆者は類書を読み、自ら調べ、推論し労作と呼べるものに仕上げている。

 しかし、わたしはモデルとされた人間のことなど知らない。

 筆者もそこまではわからないためモデルをほとんどの場合特定できない。

 ただ、この筆者に同感できたのは、漱石は女性を描くのがうまいという点だけであった。

 新しい女性、里見美禰子をはじめとして、多くの女性を登場させている。

 この女性を描くことによって漱石の作品は潤いのある人間世界を描ききったのではないかと思われる。

 漱石世界のモデル論は、面白いのだろうが、あまり意味のある事とは思えない。

 モデルは現実社会に存在した人間である。文学の虚構の世界に作家が創造した人物と引き比べてみても意味はない、とわたしは思う。

 最近で見たい映画は小さなおうちであった。

 山田監督が第二次世界大戦の経験を映画にしたいと考えていたらしいが、この作品の原作者中島京子さんは戦争を体験していないし、想像してもいないと思った。

 さすがに、わたしと同世代の女性が多く観客数は50人は超えていた。

 山田監督は20代の観客を期待していたと思う。

 赤い三角形の小さな家が、この映画の主役であったと思う。

 モダンではない男がつくったとは思えないモダンな家が昭和10年代にあったのだ。

 配役は旧山田組であった。べりルン国際映画祭で黒木華が最優秀女優賞を取ったのだが、わたしは倍賞千恵子こそふさわしいと思えるぐらい見事に演じていた。若者を称えてもいいが、この映画の主演は倍賞千恵子さんであると思う。

 映画作品とすると、この作品は山田さんが思ったことを撮りきったと思えないぐらい、薄いものに終っていた。

 つまり、反戦をうたうのであれば、戦争の悲惨さをきちんと撮らなければならない。

 登場人物すべてが戦争を称えていたのである。

 山田監督は老いた。この映画は訴えるものがない。

 男女の愛はいつも深い。しかしそれすら描ききれていない。

 戦争を否定する男女の愛こそ、この作品で描ききってもらいたかった。