
それを書くにあたっていろいろ調べてみると、本田技研工業の創業者・本田宗一郎の言葉が興味深かったので、いくつか紹介したいと思います

昭和30年代の本田技研工業は、スーパーカブの好調により生産が追いつかなくなり、新しい工場の建設が急務になりました。
そこで、土地の話があると本田宗一郎氏と副社長の藤沢武夫氏とその他一行はあちこちに行きましたが、行ったところでは土地の説明はそこそこに、「後は夜のお席を用意しておりますので」と接待攻撃を受けますが、これにはうんざりし、本田さん(本田氏と言うよりこちらの方がしっくりします)は 、
「そんな席に俺は来たんじゃねぇ❗」
と言って、他の人たちを残して一人で出ていったそうです。
そして、本田さん一行は三重県鈴鹿市にやって来ました。
当時の鈴鹿市は、戦時中の飛行場や海軍工厰の広大な跡地に頭を悩ませていました。
その時の季節は夏真っ盛り。
本田さん一行が市役所に到着して、当時の鈴鹿市長・杉本龍造氏が出したのは、おしぼりと熱いお茶。
本田さん一行はおしぼりで汗を拭いながら、熱いお茶をすすりました。
しかし、これで喉の乾きが止まったそうです。
鈴鹿市は伊勢茶の産地。ちゃんとわかっていたのでしょうね。
それからすぐに土地の話になりますが、その場ではなく、車を走らせて現地で行われました。
現地に到着するなり杉本氏は手拍子を1つ打ちました。
すると広大な荒れ地に旗が何本か出てきました。
すると杉本氏は「旗が見えている辺りまでが10万坪です。」と言って淡々と説明を始めました。
それからまた手拍子を打ち、別のところに旗が出ると「この旗までですと15万坪です。こんなところでよろしければお使いください。」
熱いお茶といい、旗といい、何の飾りっ気もなく極めて現場的な対応に本田さんは感銘したらしく、市役所に戻る車中で藤沢氏に
「おい、ここにしようか」
と即決したそうです。
これで本田技研工業鈴鹿製作所が誕生したわけです。

鈴鹿製作所が稼動してしばらくし、製作所の厚生施設を造る提案会議の席で本田さんは
「俺はレースをするところがほしいんだ。クルマはレースをやらなくてはよくならない。」
この一言が日本初の本格的なロードサーキットの誕生の源となりました。
候補地は何ヵ所かあり、結局鈴鹿市に決まりますが、予定地には水田地帯が含まれていました。
「大切な米をつくる田んぼをつぶしてはならない。」
本田さんのこの地元を思いやる一言で山を切り開いてコースを造ることになり、世界的に見ても特異なコースを造ることになりました。
それから、コースの設計や舗装など様々な困難を克服し、1962年に完成しました。
鈴鹿サーキットの誕生です。


こんなエピソードもあります。
ポロシャツ姿で作業場に現れた本田さんが部品をいじってると、新入社員が「おじさん、ここは制服着た人しか入れないんだよ。」
神様のような人におっさん扱い。
普通の会社なら最悪の処分を覚悟しなければなりません。
しかし、筋が通っているゆえ、本田さんは素直に黙って制服に着替え、お咎めはなかったそうです。
後に本田さんの功績が認められ、勲一等瑞宝章を受賞し、その表彰式に出るのですが、実用本意の本田さんは、
「技術者の正装とは真っ白なツナギた。」
ツナギとは上下がくっついた作業服のことで、これを着て出席しようとしましたが、周囲に止められ、結局礼服で出席したそうです。
工場やサーキット建設の際には地元を思いやる気配りを見せた本田さんですが、東京・南青山の本社ビルを建設するときには
「万が一地震が起きたときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい。」
と指示し、全フロアにバルコニーが設置されました。
あと、生前には
「自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけない。」
と公言し、実際に本社と鈴鹿、和光(埼玉県)、熊本の各製作所でささやかなお別れ会が行われただけでした。
明治生まれの頑固職人、それでいて周りや地元に気を配り、義理人情に厚く自分や身内には厳しい本田さんは、会社ではオヤジと親しまれたそうです。
最後に、わたしが最も感銘を受けた職人・本田宗一郎の言葉を紹介します。
「努力したが結果がダメだったのでは努力にならない。
仕事の中に能力を活用しなかったり、方法を選ばなかったりしたら、それは途方という一種の道楽に終わる。
努力には、創意と工夫が必要である。」
本田宗一郎氏と当時市長の杉本龍造氏は、三重県鈴鹿市の名誉市民でもあります。