八幡山城(続日本100名城)  10 本丸 村雲御所瑞龍寺 前編 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

前回の続きです。

今回は本丸にある豊臣秀次菩提寺の

村雲御所瑞龍寺です。

 

村雲御所瑞龍寺の唐破風

玄関前です。

近づくと

 

下図A付近から撮影しました。

本尊は三宝尊(法華宗・日蓮宗の本尊。

仏・法・僧の三宝を祀るための仏像)

です。

拝観料600円で拝観しました。

 

本堂のB付近に行くと

 

本尊の撮影許可をもらい撮影

しました。

 創建した智(とも)は実子のない

弟:豊臣秀吉の養子に、長男の秀次

を出しました。秀次は秀吉の跡継ぎ

として、関白になります。

しかし、実子の秀頼が生まれます。

 

豊臣家系図

 

1595年に秀次は秀吉と対立し蟄居

先の高野山で切腹しました。その後、

秀次の妻子は三条河原で処刑され、

智の夫であり秀次の実父である三好

吉房も流刑となります。

長く権力の座にいた秀吉は、思いや

りややさしさの無い鬼と化していた

のです。

智は処刑された子や孫の菩提を弔う

ために出家し、以前から帰依してい

た日蓮宗による寺院を建てようとし

たところ、1596年この話を聞いた、

後陽成天皇より嵯峨の村雲(現・

二尊院の北側)の寺地と「瑞龍寺」

の寺号・寺領1000石・菊紋・紫衣

を賜って創建されます。これにより

瑞龍寺は日蓮宗寺院で唯一の門跡寺

院及び勅願所となり別名を村雲御所

と称して、以後、代々皇女や公家の

娘を貫首として迎えました。

江戸時代には嵯峨から西陣の堀川

今出川付近の地(現:上京区村雲

町。)に移転します。

 

Googleで村雲町の位置です。

 

1788年の天明の大火により全焼

しますが、中興の祖9世:日尊尼

が1824年から28年の歳月を掛け

て再建を果たします。

1961年(昭和36年))に11世

の日浄尼の代に京都堀川今出川か

ら秀次ゆかりの八幡山城の跡地に

寺地を移します。日浄尼は完成を

見ず亡くなります。

1968年(昭和43年)に小笠原氏

出身の12世:日英尼は家庭の不幸

から出家に追い込まれ、以後の生

涯を瑞龍寺の再建に捧げました。

その後を嗣いだのが、宝塚歌劇団

卒業生であった桜緋紗子こと13世

:日凰尼です。日凰尼は2002年

に89歳で亡くなるまで、瑞龍寺

の再建に寄与します。14世日澄尼

・15世日英、そして現門跡16世

詫間日郁尼(京都府南丹市長久寺

より入山)は執事長職からの就任

です。なので、今は皇族の女性が

住職ではありません。

 

下図C付近にある拝謁の間です。

 

 

拝謁の間です。

3月なので雛人形が飾

られています。

 

ひな人形が無い時はこんな感じです

かつては尼公猊下がお出ましになり、

拝謁しました。

 

拝謁の間を出て、

廊下DからE・F方向は

 

中庭が見えます。

廊下左側のハスの襖絵は

 

きれいな蓮が描かれています。

 

描いた絵師は木村英輝という方です。

 

今回はここまでで、次回は後編です。

 

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