今回からは水戸城(日本100名城)の
紹介です。
2021年8月7日に訪問しました。
令和3年復元された二之丸角櫓です。
下図二之丸の一番下にあります。
水戸城の現在地にある案内板です。
本丸にある水戸城解説板です。
1647年頃の水戸城絵図です。
本丸は現在水戸一高になり、
下の丸は現在下図グランドです。
水戸城(グーグル)
千波湖は埋め立てられて
小さくなりました。
水戸城は右上にあります。(グーグルより)
鎌倉時代
常陸国の大掾(守・介・掾の順地方官名)
であった、平国香の子孫である馬場資幹
により建久年間(1190~1198年)に築
かれたようです。以後、大掾氏(馬場氏)
の居城となったので、佐竹氏が入城する
まで「馬場城」と呼ばれていました。
その居館は上図下の丸にありました。
室町時代
1416年上杉禅秀の乱で、当主の大掾
満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利
幕府側についた江戸通房に敗れます。
1427年に大掾満幹が鹿島社の青屋祭
に奉仕するために常陸府中(石岡)に向
かった隙に、江戸通房が水戸城を占拠
します。
江戸氏が新城主となり、その支配は以
後7代(約170年間)続きました。
安土桃山時代
1590年に豊臣秀吉の小田原征伐では、
江戸重通は北条氏側につき、佐竹義重・
義宣父子は秀吉軍に参陣します。
このために佐竹氏は秀吉より常陸一国
54万石を与えられます。義重・義宣は
領地となった江戸氏の籠城する馬場城
(水戸城)を攻めました。
1594年に江戸重通を敗走させます。
義宣はそれまでの居城であった太田城
から、水戸城を重要な拠点と定めここに
本拠を移します。義宣は入城するとすぐ
に城を大改修して、城名も馬場城から
水戸城に改めました。
江戸時代
1600年の関ヶ原の戦いで、義宣は
曖昧な態度で終始します。
1602年に徳川家康によって水戸から
追放され、出羽国秋田(久保田藩)に
領地替えされます。
同年に家康は、奥州を睨む好地として、
五男の武田信吉を15万石で水戸に
入城させます。
1603年に嗣子無く没したので、十男
の徳川頼宣を20万石で入城させます。
1609年に頼宣には駿府藩50万石を
与え、末子で十一男の徳川頼房が、
下妻城より25万石で入城して以降は、
廃城まで水戸徳川家の居城となりまし
た。
徳川頼房(水戸光圀の父)
頼房は城と城下町を拡充して、
二の丸に居館を構えました。
櫓跡に三階櫓がありました。
天守代わりで破風のない、三階櫓
(内部は5階建て)を二の丸に建造
しました。
天守代わりの三階櫓です。
現在は焼失してありません。
櫓・多聞(長屋)がに少なく、石垣の
無い塀を多用します。
この質素さは水戸徳川家の家風とな
ります。
1841年に藩校弘道館は9代藩主
の徳川斉昭が三の丸に創建します。
弘道館本館
徳川斉昭(徳川慶喜の父)
翌年の1842年に徳川斉昭は
日本三名園の一つである偕楽
園を城の西部に造りました。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、
改革派の天狗党と保守派の諸生
党が対立します。
1864年(元治元年)に天狗党が
筑波山で挙兵して天狗党の乱が
起こります。この対立は明治維新
まで続きます。
1868年(明治元年)には水戸城
下で戦闘が行われ、弘道館に立
て籠もる諸生党を天狗党が攻撃
しました。この際に城内の多くの
建物が焼失しました。
明治維新後
1871年(明治4年) の廃藩置県
により廃城となります。
1872年7月に東京鎮台の歩兵
2個小隊が駐屯し、東京鎮台の
第4分営となります。同年に放火
事件が起こり、他藩出身者の入
城に反発した犯行とみられます。
1945年8月に水戸空襲で三階
櫓を焼失します。
2006年に水戸城は日本100名
城に選定されました。
大手門が2020年2月4日に
復元されました。
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