二本松城(日本100名城) 15 最終回 大燐寺 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は二本松城の最終回で大燐寺です。

 

大燐寺の枝垂れ桜です。

 

巨邦山大隣寺は二本松藩十万七百石

の藩主、丹羽家歴代菩提寺として建立

された寺院です。
大隣寺の寺号は、初代丹羽長秀公の

戒名「総光寺殿大隣宗徳大居士」の、

大隣に由来します。
「徳大いに隣あり」は徳ある者は多く

の協力者があるという意味です。

 

丹羽長秀肖像画です。


また、寺紋として丹羽家の家紋

「違い棒(直違紋/すじかいもん)」

xを用いています。

 

歴史

 

江戸時代

 

1627年2月に二代長重公は、

棚倉(福島県東白川郡棚倉町)

より、白川(福島県白河市)に

国替えとなって入部しました。

同年の夏、初代長秀公(丹羽

家初の大名)の菩提を弔うため、

越前総光寺(福井市)より、

融法全祝大和尚を招いて、

白川の円明寺跡に大隣寺を

移転させました。

 

丹羽長重肖像画です。

 

1643年7月に三代光重公が、

白川より二本松に国替えとなり、

大隣寺もまた二本松に移され、

霞が城の東松渓山道光寺跡

に建立されました。

 

丹羽光重肖像画です。

 

1653年に方角等の関係から

城の南に位置する向原(二本

松市茶園)に移築されます。

この地は大手門があったとこ

ろの正面にあたり、菩提寺を

見下ろす格好になります。

1667年に向原より、城の西

に当たる、現在地に再び移

築されました。時に光重公は、

釈迦如来像を新造させて、

大隣寺の本尊として安置する

とともに、寺領を改め山林を

寄進します。

1669年に五世牧之黄牛大

和尚代に、山門を建立します。

1811年に全面改修が行わ

れ、現存する本堂はこの時

期のものです。

 

明治維新後

 

戊辰の役後は藩主の御謹慎

所に当てられ、さらに二本松

藩庁の仮事務所と藩校として

も使用されました。

 

大燐寺で謹慎した丹羽長国古写真です。

城代家老などの官軍と戦うのだという、

武闘派を抑えられなかったのでしょう。

三ノ丸下段で戦うか開城か激論があっ

たそうです。2代長重の遺言「徳川家に

忠節を尽くせ」が効いたのでしょうか。

名古屋城では藩主が佐幕派を惨殺し

て開城しています。御三家なのに名古

屋だけ将軍をだせなかった恨みでしょ

うか?

 

しかし、明治4年7月14日

(1871年8月29日)廃藩

置県によって、寺院の維持

管理が困難となり、山門・

鐘楼・僧堂・庫裡・回廊を

売却しました。当時を偲ぶ

建築物は、本堂と経蔵て

いどしかありません。

      (大燐寺Webページより)

 

大燐寺には二本松藩の歴代藩主

画像が伝えられています。

 

大燐寺境内案内図

赤い矢印から入りました。

 

大燐寺です。

左端に案内板があります。

 

大燐寺山門址への石段があります。

 

大燐寺解説板です。

二本松に国替えになる前の、

白河小峰城は次回紹介します。

 

坂の上に見えているのが、

江戸時代からある経蔵です。

遅咲きの枝垂れ桜が満開で

した。

 

坂の上から反対側を見ると、

二本松観光センター隊士館

があります。

 

グーグル地図です。

向かい側に二本松観光センター

があります。

 

二本松観光センター隊士館です。

拡大すると

 

二本松観光センター隊士館です。

少年隊士たちの人形が飾ってあ

ります。

 

桜が満開でした。

遅咲きの水仙も満開です。

 

 

 

山門跡から撮影した本堂です。

この枝垂れ桜はかなり散っています。

 

1811年頃に建てられた本堂です。

戊辰戦争後に藩主長国が謹慎し、

10万700石から5万石に石高を

減らされて、二本松城は焼失した

ので、ここが仮藩庁になりました。

 

境内図です。

 

 

 

左端に鐘楼があります。

 

少年隊士の墓です。

少年隊の隊長は木村銃太郎(22歳)

で、二本松藩砲術師範でした。

副隊長は二階堂衛守(33歳)で、

平隊員は12歳から17歳まで62

名いました。まさか官軍が射程距

離の長いライフル砲・ライフル銃を

持っているとは知らず、出陣前夜

は修学旅行に行く生徒のように、

はしゃいでいたそうです。

西軍の板垣退助隊が二本松城に

攻めてきたので、藩は兵力不足を

補うために、少年も動員しました。

1868年7月28日に城南要地で

ある大壇口に隊長・副隊長・隊員

25名が出陣します。7月29日朝、

2人の隊員が大砲につき、他は畳

の堡塁に隠れて銃を構えました。

眼下に官軍が来たので、引き付

けて大砲を3発発射し、砲弾は敵

の頭上で爆発します。

その後、多勢の官軍が大砲や銃

を、雨あられと打ちまくり、隊長は

敵の銃弾を腰に受け、介錯してく

れと頼み、副隊長が首を切り落

としました。副隊長二階堂に従い

大燐寺まで退却しますが、大燐

寺前の参道で副隊長も銃撃され

即死します。生き残った平隊員

はちりじりばらばらになり、二本

松城や会津城に逃げました。

大壇口で戦死した平隊員は8名

で、他でも6名が戦死しました。

二本松城は正午頃に焼け落ち

ました。

  (もらった資料3冊から引用)

 

二本松藩主の墓です。

 

墓所の解説板です。

すいませんボケました。

 

今回はここまでで、明日からは

白河小峰城の紹介です。

 

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