昨日の続きです。
今日は天守内部と岐阜城資料館の紹介です。
天守の入口です。
麓の信長館は天主と書きますが、山頂にも「てんしゅ」があり、
こちらは「天守」と書きました。「天守」は池田輝政時代に改変
され、岐阜城廃城(1601年)及び、加納城築城によって他の
建物と共に加納城二の丸北東隅櫓「御三階櫓」として移築さ
れましたが、1728年の落雷によって焼失します。古地図によ
ると、元々4層だったものを3層に改変された跡があります。
なので、元々4層4階、又は4層5階だった可能性があります。
現在の城は1956年に鉄筋コンクリートで復興された、模擬
天守です。3階までは史料展示室、4階は展望台となっており、
長良川や岐阜市街を一望する事が出来ます。1階:武具の間、
2階:城主の間、3階:信長公の間、4階:望楼の間と呼んでい
ます。
城主の豊臣秀勝が朝鮮に出陣して、唐島(巨済島)で病死します。去年のNHK大河
では、彼が百姓をかばったリしていました。次の城主として信忠の長男「吉法師」が、
織田秀信として城主になりました。家臣の反対を押しきって、西軍に味方して戦いま
した。激しい戦いであったために、岐阜城はかなり壊れました。そんなことで1601年
に廃城になります。
それでは天守内部の展示を一部紹介します。
1階:武具の間です。
1階にある吹き矢です。先端に工夫があります。
次に2階です。
2階:城主の間です。「井の口」を改めて「岐阜」と命名して
450年目です。
初めてここに砦を築いたという、鎌倉幕府の執事
だった、二階堂山城守行政の像です。
古地図です。川は水色を塗りました。
ルイスフロイスの書簡と訳文です。
1階から2階の階段です、
1700年頃の岐阜城古地図です。これまでの説明で引用しました。
廃城が1601年なので、その約100年後です。天守台しかありません。
伊奈波(いなば)神社所蔵です。なので稲葉城とあります。
上の古地図の説明板です。
3階の信長の間では
3階;信長の間にある織田信長像です。
京都大徳寺にある信長像のレプリカです。
本人に一番よく似た像と言われます。
斜めから見たところです。怖そうな感じの顔ですね。
信長の正妻濃姫の想像図です。(年配風だったので、若めの顔に修正しています)
天下布武の印です。(レプリカです)
信長はこの山の上に住んでいたと言われます。
山科言継の『言継卿記』には、「信長の許可を
うけ、武井夕庵の案内で、七曲道から登城した。
山上の城中で音曲・囃子などの後、信長のもて
なしで食事をご馳走になった。その後、城内を
信長の案内で見物したが、道があまりにも険し
く大変であったので、風景どころではなかった。」
と記されています。
4階の最上階は
4階の最上階です。夜景の展示がありますが、夜間特別開館
が期間限定であります。
グーグルより引用の岐阜城周辺地形です。
最上階からの風景です。
長良川と斎藤道三隠居の丘が見えます。
斎藤道三隠居の丘です。
壁にあった解説付きの写真です。
長良川です。
壁にあった解説付きの写真です。
壁にあった解説付きの写真です。
岐阜城資料館が見えます。昔は武器庫と食糧庫でした。(再建です)
今日はここまでです。明日は岐阜城資料館からです。
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