世界史の人物を紹介します。
今回は、ウィリアム1世 です。
山川の教科書のP128、《外部勢力の侵入とヨーロッパ世界》で登場します。
●いつの時代?
AD1066年(ノルマンコンクェスト)
●どこの人?
ノルマン朝、ノルマン人
(現在のイギリス)
●何をした人?
イギリスで王朝を打ち立てた
●イギリスの歴史
以下の文章は、山川の教科書のP128に書いてある内容です。
①大ブリテン島の中南部を占めるイングランドに成立していたアングロサクソン王国もノルマン人の侵入に悩まされ、
②9世紀末にアルフレッド大王が一時これを撃退したものの、
③1016年でデーン人のクヌートに征服された。
④その後アングロサクソン系の王家が復活したが、
⑤1066年ノルマンディー公ウィリアムが王位を主張して攻め込み(ノルマンコンクェスト)、ウィリアム1世として即位してノルマン朝をたてた。
①〜⑤の番号は僕がつけたものです。
これがイギリスの歴史なんですが、すごく分かりにくいです。
この①〜⑤について、解説したいと思います。
まず、①についてです。
本文中に大ブリテン島というのが出てきます。これ、一般的にはグレートブリテン島と言います。
下図の右の大きな島です。
ちなみに、僕らが普通にイギリスと言う場合、右の島をイメージします。実際、ロンドンも右の島にあります。
左の島は、アイルランド島です。アイルランド島の北部はイギリスですが、南部はアイルランド、別の国です。
右の大ブリテン島ですが、2世紀頃は、ローマ帝国時代が支配していました。
この頃、ブリタニアと呼ばれていたようです。そう言えば、ブリタニアとブリテンは同じですね。
その後、4世紀、ゲルマン人の大移動が始まります。攻め込んできたわけです。
この時代、ローマ帝国が東西分裂して、力が弱まっていたので、ヨーロッパ各地にゲルマン人王国が成立しました。
現在のフランスにフランク王国、スペインに西ゴート王国、イタリアに東ゴート王国、そしてイギリスにアングロサクソン王国が興ります。
その後、8〜9世紀になると、ノルマン人の移動が始まります。
ゲルマン人が支配していたヨーロッパに、今度はノルマン人が攻め込んできたわけです。
ノルマン人は、フランス北部にノルマンディー公国、ロシア西部にノヴゴロド国、イタリアのシチリア島に両シチリア王国を作りました。
ノルマン人はイギリスのアングロサクソン王国にも攻め込んでしました。
次に、②についてです。
ノルマン人の中でも、デンマーク周辺に住んでいた人々をデーン人と呼びます。
9世紀、デーン人はアングロサクソン王国を攻め込みます。
デーン人は強く大ブリテン島の一部を奪っていました。
イギリス人は、デーン人のことをヴァイキングと呼んで、敵視しています。
9世紀末、デーン人と戦いこれに勝利して領土の一部を奪回したのが、アルフレッド大王でした。
大王と付くぐらいですから、イギリス人は英雄視していたわけです。
次に、③についてです。
アルフレッド大王はデーン人に勝利しましたが、1016年、アングロサクソン王国はデーン人のクヌートに征服されます。
デーン人のクヌートがアングロサクソン王国の王に即位します。
この後以降、大ブリテン島の王様をイングランド王と呼ぶことにします。
次に、④についてです。
クヌートは1033年に亡くなります。
その息子が即位しますが、1042年に亡くなります。
そして、この後、アングロサクソン系のエドワードがイングランド王になります。
こうしてアングロサクソン系が復活したわけです。
最後に、⑤についてです。
本文の中に、「ノルマンディー公ウィリアムが王位を主張」とあります。
これについて説明します。
大ブリテン島のイングランド王がエドワードの時代に、フランス北部のノルマンディー公国ではウィリアムがトップでした。
ノルマンディー公国は、フランスの一部でしたので、フランスにはフランク王がいたので、ウィリアムはノルマンディー公国のトップという肩書でした。
ウィリアムは、エドワードと親交がありました。
エドワードは、ウィリアムが次のイングランド王になること約束します。
さらに、エドワードの兄のハロルドを難破船から助けたことがあります。
ウィリアムは、ハロルドからも次のイングランド王になることを約束されます。
ところが、エドワードが亡くなると、ハロルドがイングランド王に即位します。
これに怒ったウィリアムは、自らの王位を主張したわけです。
こうして、1066年、ノルマンディー公国のウィリアムとイングランド王のハロルドが戦います。
結果、ウィリアムが勝利します。
ウィリアムはイングランド王に即位して、ノルマン朝を興します。
これがノルマン・コンクエストです。
ノルマン・コンクエストをイギリスの誕生とする見解もあるので、重要な出来事ですね。
イギリスの王様の血筋を辿ると、全ての人がウィリアム1世にたどり着くのだそうです。
ですので、イギリス人のルーツはノルマン人という見方もできます。
ところが、先程の①、②、③はアングロサクソン系目線で書かれています。
本文を見ても「デーン人の王クヌートに征服された」となっています。
デーン人を敵視しているわけです。
デーン人もノルマン人でしたね。
それから、アルフレッドのことを大王と呼んでいますが、イギリス史の中で大王が付くのはアルフレッドだけなんだそうです。
アルフレッドはアングロサクソン系、つまりゲルマン人です。
つまり、イギリス人のルーツは、ノルマン人ではなく、アングロサクソン、ゲルマン人だという見識もあるわけです。
事実、アングロサクソンという言葉は現在も存在します。
一方、最後の⑤は、ノルマン人目線です。
アングロサクソン系目線であれば、征服されたとなるはずです。
しかし、「ウィリアム1世として即位してノルマン朝をたてた」となっています。
ノルマン朝をたてとなっていますから、ウィリアム1世目線ですね。
不思議な感じです。
ウィリアム1世は、ノルマンディー公国のトップだったため、フランスから封建制度をイギリスに持ち込んで支配を行いました。
イギリスは、最初から王権が強かったわけです。
しかしながら、国民は昔ながらのアングロサクソン人なんです。
アングロサクソン人からすれば、支配されているわけです。
ここからは、僕の考えですが、イギリスは、ノルマン人の王族と、アングロサクソン人の市民の対立構造が存在していて、アングロサクソン人が自らの権利を主張するため、世界でも早くから議会が成立したのではないかと思うわけです。
●ウィリアム1世の名言
ウィリアム1世について、ネットで検索しましたが、名言がヒットしません。
ウィリアム1世はイングランド王ですが、ノルマンディー公国のトップでもあります。
ノルマンディー公国はフランスの一部です。
つまり、ウィリアム1世は、イングランド王の立場ならフランス王と対等ですが、ルマンディー公国のトップといつ立場ならフランス王の配下です。
複雑な関係ではありますが、ウィリアム1世のおかげで、イギリスはフランスとのつながりができたわけです。
同時に、意見できる国家に成長します。
そして、ウィリアム1世の孫の世代になると、フランスと対等な国家に成長を遂げます。
ノルマン・コンクエストを直訳すると、ノルマン人による征服という意味になります。
イングランドは、ノルマン人に征服されたという見方もありますが、ウィリアム1世によって強国に成長したわけです。
そういう意味で、イングランドは海からの外敵を克服したとも言えます。
コンクエストは、克服という意味もあります。
というわけで、ウィリアム1世を表す言葉として
克服
を使いたいと思います。
●ウィリアム1世の画像
画像参照元:ウィキペディア
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