【世界史人物23】カール大帝「知と行」 | 技術士を目指す人の会

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勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史の人物を紹介します。

今回は、カール大帝 です

山川の教科書のP125、《カール大帝》で登場します。

 

●いつの時代?

AD800年(戴冠)

 

●どこの人?

フランク王国

 

●何をした人?

フランク王国の王様。

事実上の初代神聖ローマ皇帝。

 

 

●ヨーロッパの歴史

フランク王国の話をする前に、まず、ローマ帝国分裂の話をしておく必要があります。

ローマ帝国は、イタリア半島を中心に、広大な領土を有していました。

しかし、AD330年、コンスタンティヌスが皇帝の時、東西に分裂することになります。

(※ コンスタンティヌスについては こちろ をどうぞ)

イタリアを中心とする西ローマ帝国と、ギリシア、トルコを中心とする東ローマ帝国です。

コンスタンティヌスは、イタリアを立ち去り、東ローマ帝国の皇帝になります。

地中海北部の中心が、西から東に移ったわけです。

国が2つに分裂したわけですから、教会も2つ必要です。

こうしてキリスト教も分裂することになります。

イタリアを中心とするローマ教会(後のローマカトリック教会)と、ギリシアを中心とするコンスタンティノープル教会(後のギリシア正教会)が誕生します。

4世紀のヨーロッパは、①東ローマ帝国+コンスタンティノープル会、②西ローマ帝国+ローマ教会、という2つの勢力が存在していたわけです。

ところがです。

5世紀になると、黒海北部のフン人がヨーロッパ西に移動してきます。

フン人は騎馬民族で強力でした。

この影響を受け、ヨーロッパ北部から、ゲルマン人が移動します。

この時代、気候変動により、世界は寒冷期でした。

ゲルマン人は、温暖な地中海を目指して移動しました。

ゲルマン人の大移動です。

ただ単に移動するわけありません。

当然、居住するわけですから、既存地域の民族と戦争になります。

ゲルマン人は、地中海周辺の小国家より強かったです。

こうしてヨーロッパ西部に、西ゴート王国、東ゴート王国、ランゴバルド王国、ブルグンド王国、フランク王国等、多くのゲルマン人国家が存在するようになります。

こうしたゲルマン人の勢力拡大に対して、ローマも対抗していました。

東ローマ帝国は、強大な力を持っていましたから、ゲルマン人に攻め込まれても、撃退することができました。

一方、西ローマ帝国は、そんな力を持っていませんでした。

330年の時点で、コンスタンティヌスが多くの機能を東に移設したわけですから当然です。

西ローマ帝国内は、ゲルマン人よって、AD476年に滅ぼされてしまいます。

こうして、ヨーロッパの東は東ローマ帝国が君臨し、西には、ゲルマン人による国家が複数存在することになります。

 

●キリスト教世界

ここで、キリスト教世界に目を向けて見ましょう。

この時代、コンスタンティノープル教会は、東ローマ帝国からの財政的なバックアップがあったわけですから、キリスト教世界の中心でした。

影響力を持っていました。

一方、ローマ教会ですが、AD476年に西ローマ帝国が滅んでしまったわけですから、バックアップを失ったわけです。

ローマ教会は、本家本元を自負していましたから、影響力が失われたことを問題視していました。

ローマ教会は、ゲルマン人への布教に力を入れていました。

この布教活動を進めるにあたって、ローマ教会は聖像を使っていました。

ところが、726年、コンスタンティノープル教会が、聖像禁止令を発しました。

実は、聖書では、神様の絵を描いたり、像を作ることを禁じられています。

だから、聖像禁止令は当然のことを言っているだけなんです。

ところが、ローマ教会は布教活動を行う上で、聖像が必要でした。

西ローマ帝国というバックアップを失って年月が過ぎ、新たにゲルマン人の国家と手を組みたかったわけです。

こうして、コンスタンティノープル教会とローマ教会は激しく対立するようになります。

これ以降、同じキリスト教でありながら、二つの教会は完全に分立します。

コンスタンティノープル教会はギリシア正教会、ローマ教会はローマカトリック教会と呼ぶようになります。

この時代、ギリシア正教会の方が圧倒的に大きな力を持っていました。

ビザンツ帝国のサポートがありましたからね。

だから、ローマ教会としては、丁度いい後ろ盾を探していたわけです。

そして、、この時代ついに、ローマ教会は後ろ盾を発見します。

それがフランク王国です。

 

●フランク王国とローマ教会

フランク王国は、AD481年、クローヴィスが国王になります。

メロヴィング朝の誕生です。

クローヴィスは、順調に領土を拡大して、フランク王国は大国になります。

732年、イスラムのウマイヤ朝がフランク王国に攻め込んできます。

これをフランク王国の宮宰カールマルテルが撃退します。

こうしてカールマルテルは、フランク王国の中心人物になっていきます。

そして、AD751年、カールマルテルは自らが王様になり、カロリング朝を開きます。

この頃、ローマ教会はカールマルテルに接近します。

コンスタンティノープル教会に対抗するため、大国が後ろ盾になって欲しかったわけです。

一方、新たに王朝を開いたカールマルテルにとっても、ローマ教会の接近は丁度よかったです。

自らが王様であることを対外的に示すことができるような、何らかの権威が欲しかったわけです。

ローマ教会とフランク王国はwin=winの関係だったわけです。

こうして、ローマ教会とフランク王国の結びつきが強くなっていきます。

カールマルテルの子、ピピンが王様になった時です。

ピピンは、イタリアのラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進します。

歴史上初めて、教皇が領土を持ったわけです。

その後、ピピンの子、カールが王様になります。

カールは戦が上手でした。

東方から侵入してくるアヴァール人を撃退します。

西方では、イスラムの後ウマイヤ朝を退けます。

南方はランゴバルド王国を滅ぼし領土を拡大します。

これら3つは全て、フランク王国の敵であると同時に、ローマカトリック教会の敵でもありました。

こうした功績が高く評価され、ローマ教会はカールを皇帝に任命します。

これが、800年のカールの戴冠です。

ジャスト800年です。

世界史を勉強する人は必ず憶えてください。

 

カール大帝は、武力で領土を拡大しました。

さらに、拡大した地域には伯を置きました。

それから、巡察使を派遣して、状況を常に監視しました。

中央による支配を徹底したわけですね。

カール大帝は、武人であると同時に、政治家でもあったわけです。

さらに、アーヘンという都市に王宮を作って、そこで、アルクィンという学者を招き、古典教養の復興に尽力します。

文人でもあったようです。

 

●カール大帝の名言

カール大帝について、ネットで検索したら、名言がヒットしました。

次のとおりです。

 

「2つの言語を持つとは、2つの魂を持つことだ」

 

カール大帝は、ラテン語の教育を重視していました。

当時で言うところの古典はラテン語で書かれていたので、その勉強を推奨していたようです。

フランク王国はゲルマン人の国です。だから、公用語はドイツ語系です。

カール大帝も、勉強熱心だったようで、ラテン語をしゃべれたそうです。

「2つの言語を持つとは、2つの魂を持つことだ」という言葉を残していますが、母国語以外の言語を習得することで、2つの思考をインプットできるということなのでしょうね。

 

カール大帝の名言は、他にもあります。

次のとおりです。

 

「正しい行動は知識だけより良いものだ。

 しかし、正しいことをするには、何が正しいか知る必要がある」

 

これは「知と行」ですね。

というわけで、カール大帝を表す言葉としては、

 

知と行

 

がいいと思います。

カール大帝は、知に行が宿るという考え方を持っていたようです。

それから、カール大帝は、武人でしたが古典を大切にしていました。

知を重んじていたからこそですね。

ちなみに、カール大帝による古典回帰の取組のことを、カロリング・ルネッサンスと呼んでいます。

 

●カール大帝の画像

画像参照元:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%A7%E5%B8%9D

 

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