世界史の人物を紹介します。
今回は、 コンスタンティヌス です。
は、山川の教科書のP46、《西ローマ帝国の滅亡》で登場します。
●いつの時代?
313年(ミラノ勅令)
●どこの人?
ローマ
ラテン人
●何をした人?
コンスタンティヌスは、古代ローマ帝国の皇帝です。
●ローマの歴史
コンスタンティヌスの話をする前に、ローマの歴史をおさらいしておきます。
BC753年、イタリア半島にローマという国家が興りました。この時は王政でした。
BC509年、王様を追放し、共和政が始まります。有力な貴族で構成する元老院が中心でした。
BC60年、平民が力をつけ、カエサル、ポンペイウス、クラッススによる三頭政治がはじまります。
BC46年、カエサルがインペラトル(皇帝みたいな立場)になる。
BC27年、オクタヴィアヌスがアウグストゥス(初代皇帝)になります。
AD96〜AD180年、①ネルヴァル、②トラヤヌス、③ハドリアヌス、④アントニヌス・ピウス、⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌスによる五賢帝時代を迎えます。
平和な時代が到来します。
ここまでが一区切りです。
この後、時代が変わります。
五賢帝時代の最期の皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスが亡くなると、ローマ中央の力が弱まります。
世界史を見ていると、往々にして、哲学を志したリーダーがいなくなると、国が荒れます。
特に、ローマは国が大きくなっていました。地方まで目が行き届かないです。
こうした状況で、皇帝のカリスマ性が欠如していると、当然、武力を持った地方の軍人が強くなります。
皇帝に反旗を翻します。
皇帝を殺害し、自らが皇帝を名乗るようになります。
中央の貴族でも平民でもない、地方の軍人が国を支配するようになります。
ただ、有力な地方の軍人は大勢いました。
権力争いが生じ、次から次へと皇帝が代わります。
乱世です。
この状況がAD235〜AD284年の約50年の期間続きます。
50年間で70人の皇帝が乱立したそうです。
この時代のことを軍人皇帝時代と呼びます。
ただし、こうした乱世も、AD284年になると、ディオクレティアヌスが事態を収拾します。
この皇帝は、広大なローマを一人で治めることを止めます。
同じ過ちを繰り返さないためです。
帝国を東と西に分け、それぞれに正副の皇帝を配置し、4人で統治する仕組みを導入します。
これにより、再び皇帝を中心としたローマ中央の力が強くなります。
ただし、東西の分割統治の導入が、この先のローマにとって大きな分岐点になります。
一方、この時代、地球は寒冷化が進んでいました。
世界各国で農作物の不作が続いていました。
こうした状況が続くと、人は何かすがりたくなるものです。
神に救いを求めたわけです。
当時のローマは、ローマ神話の神々に対する信仰がありましたが、キリスト教の教えが民にフィットしたようです。
キリスト教が大流行します。
ディオクレティアヌスにしてみれば、キリスト教の流行はおもしろくありません。
なぜなら、皇帝を神のように崇めてほしかったからです。
そこで、ディオクレティアヌスはキリスト教の信仰を禁じます。キリスト教の弾圧です。
キリスト教徒は迫害を受けることになります。
●コンスタンティヌスの登場
コンスタンティヌスは、AD306年、皇帝になります。
コンスタンティヌスは、ディオクレティアヌスの後の皇帝ですが、就任当初は、キリスト教の信仰は認めていませんでした。
しかし、人間というのは、反対されればされるほどに、燃え上がるものです。
キリスト教は、ローマ帝国全域に拡がりを見せることになります。
コンスタンティヌスは、宗教と国政の調和をはかることが不可欠だと思ったのでしょう。
AD313年、ミラノ勅令を出し、キリスト教を公認します。
皇帝が積極的にキリスト教に関与したわけです。
国家と宗教の関係が大きく変化する分岐点です。
それから、コンスタンティヌス自身もキリスト教の教えをリスペクトしていたと思われます。
積極的にキリスト教に介入します。
325年、ニケーア公会議を開催します。
この会議は、アタナシウス派とアリウス派、どちらが正統か決定するものでした。
アタナシウス派は、キリストと神を同一視するもので、アリウス派は、キリストは人間であるとみなすものです。
会議の結果、アタナシウス派が勝利します。
これ以降、キリスト教はアタナシウス派が中心になるわけです。
コンスタンティヌスは、ディオクレティアヌスに続き、東と西に分割して統治するスタイルを継承します。
西がイタリア半島以西で、東がスカンジナビア半島以東です。
ローマ帝国というくらいですから、最初は西側が栄えていました。
当然、コンスタンティヌスは、西側のローマにいました。
ところが、この時代、穀物栽培の中心はエジプトで、エジプトに近い東側の方が栄えてきました。
330年、コンスタンティヌスは、東側のビザンディウムに遷都します。
ビザンディウムは、現在のトルコのイスタンブールで、遷都にあわせて、都市の名前をコンスタンティノープルに変更しました。
つまり、この時点で、ローマは西から東にシフトしたわけです。
政治的、軍事的だけではなく、宗教的にもコンスタンティノープルが中心になります。
その後、395年、ローマ帝国は分裂します。
ローマを中心としてイタリア半島等を支配する「西ローマ帝国」と、コンスタンティノープルを中心としてバルカン半島等を支配する「東ローマ帝国」です。
ただし、この時代、中心は東ローマ帝国でした。このため、東ローマ帝国は、1453年まで存続します。
一方、西ローマ帝国は、既に力が弱かったため、476年にゲルマン人によって滅ぼされてしまいます。
●コンスタンティヌスの名言
コンスタンティヌスについて、ネットで検索しても、名言がヒットしません。
名言はありませんが、コンスタンティヌスは、弾圧されていたキリスト教を国として公認した人物です。
この功績から、コンスタンティヌスは「大帝」と呼ばれています。
というわけで、名言ではありませんが、コンスタンティヌスの残したものとしては、次のことが重要になります。、
キリスト教
コンスタンティヌスは、ミラノ勅令により、キリスト教を公認しました。
国家としての統一感を、宗教の公認により実現したわけです。
これは国家という枠組が大きく変化する分岐点だと思います。
また、コンスタンティヌスは、325年、ニケーア公会議を開催しますが、これ以降、キリスト教はアタナシウス派が中心になるわけです。
アタナシウス派の教えは、簡単に言えば、イエス=神 です。
これにより、国民は、キリストという目に見えるものを信仰できるようになりました。
また、流派を一つにまとめたこと自体も大きかったです。
このことがキリスト教が世界に普及するきっかけになったはずです。
ちなみに、アタナシウス派は、最終的に三位一体の教えに到達します。
簡単に言えば、イエス=聖霊=神 です。三位一体の説明については、こちら をどうぞ。
●コンスタンティヌスの画像
※画像出典元:ウィキペディア
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