世界史の人物を紹介します。
今回は、ムハンマド です。
山川の教科書のP102、《イスラーム教の誕生》で登場します。
●いつの時代?
AD610年(イスラム教をとなえる)
●どこの人?
アラブ人
●何をした人?
イスラム教の創始者。
●アラビア半島
5世紀の世界では、アジアではササン朝ペルシア、ヨーロッパではビザンツ帝国が力を持っていました。
これら2つの国は領土が広く、2大勢力を成していました。
両国間の争いは絶えなかったようです。
アジアとヨーロッパの中間に位置する、アラビア半島には、小さな国は多くあったようですが、統一国家は存在していませんでした。
この時代の地図をを見ると、アラビア半島には、何も色が塗られていませんね。
※画像:「山川の世界史図録」より抜粋
ただ、アラビア半島に人がいなかったわけではありません。
貿易が栄えていたので、多くの人がいました。
ササン朝ペルシアは、チグリスユーフラテス川の中流域、クテシフォンを首都にしていました。
クテシフォンから、ローマ等の西ヨーロッパに行くためには、ビザンツ帝国を通る必要があります。
ところが、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国が争っていたわけですから、そんなことはできない。
このため、アラビア半島、アラビア海・紅海経由で、地中海に抜けるルートが重要視されることになります。
というわけで、アラビア半島は、貿易が栄えていて、多くのアラブ人が住んでいたわけです。
中でもメッカは、主要都市として機能していました。
ムハンマドは、570年にメッカで誕生し、610年頃イスラム教を興します。
同時のアラビア半島にも、各地に多神教の宗教が存在しましたが、イスラム教が急速に普及していきます。
さらに、ムハンマドは、政治的・軍事的な改革により、アラブ人の部族の統一を図ります。
そして、わずか20年足らずで、これを実現します。
ここから、世界史におけるアラビア半島、イスラム帝国の歴史がスタートするわけです。
ムハンマドは、イスラム教の創始者であると同時に、帝国の礎を作ったわけです。
●アラブ
ムハンマドは、632年に亡くなります。
ムハンマドはイスラム教の創始者ですが、同時に、アラビア半島における政治上のトップでもあります。
ムハンマドが築いたアラビア半島の国家ですが、便宜上、アラブ国と呼ぶことにします。
ムハンマドは、イスラム教とアラブ国のトップでしたから、後継者もこれを引き継ぐことになります。
宗教と政治、2つの権力を継承することになります。
キリスト教で言えば、教皇と皇帝を兼務するようなものです。
絶大な権力を有するわけです。
この絶対的なリーダーのことを、イスラム教ではカリフと呼びます。
初代カリフはアブー・バクルでした。ムハンマドの親友であり、義父でもあります。
二代目カリフはウマルでした。
この頃、イスラム教の布教と領土拡大が進みます。
636年、ヤルムークの戦いではビザンツ帝国を破ります。
そして、642年、ニハーヴァンドの戦いでは、ササン朝ペルシアを破り、チグリスユーフラテス川を手に入れます。
最終的には、651年、ササン朝ペルシアを滅ぼします。
カリフの意思のもと、アラブ国は領土を拡大していき、大国になっていきます。
ところが、四代目カリフのアリー(ムハンマドの従妹)の時、内乱が起きます。
アリーは暗殺されてしまいます。
反アリー派の中で、最も有力だったムアーウィヤが国のトップになり、661年にウマイヤ朝を興します。
●ウマイヤ朝とアッバース朝
ウマイヤ朝は、侵略により領土を拡大していきます。
東はインド、西は北アフリカ(現在のモロッコ周辺)、イベリア半島(現在のスペイン)まで拡がります。
720年頃までは無敵状態でした。
しかし、732年、トゥールポワティエの戦いで、フランク王国に敗れてしまいます。
これが大きな分岐点になり、ウマイヤ朝が抱えていた問題が拡大することになります。
ウマイヤ朝が抱えていた問題は2つありました。
1つ目の問題は、平等に関するものです。
ウマイヤ朝のトップは、カリフを名乗っていましたが、宗教的な指導者ではなく、皇帝としての側面が強く出ていました。
ウマイヤ朝は、アラブ人第一主義をとっていました。
その最たるものが租税システム
アラブ人に納税を課していませんでしたが、非アラブ人には課税していました。
最初の頃は、これでうまくいっていたのかもしれませんが、非アラブ人の中にも、イスラム教徒が大勢存在します。
当然ですが、非アラブ人は不満が溜まっていたわけです。
イスラム教のコーランには、全ての信者は平等であることが説かれています。
つまり、ウマイヤ朝のカリフは、イスラム教の教えを守っていないことになるわけです。
2つ目の問題は、アリー派の存在です。
先程も説明したとおり、ウマイヤ朝というのは、四代目カリフのアリーを暗殺して作った国家です。
カリフは、イスラム教徒の頂点であり、崇めるべき存在です。
崇めるべき存在を殺されたわけですから、その恨みが消えることはありません。
国家としては反アリー派が主流になっても、アリー派は脈々と存在していたわけです。
アラブ人の中にも、ウマイヤ朝に対する反乱因子が存在してわけです。
トゥールポワティエの戦いでの敗戦を契機に、アリー派のアラブ人と非アラブ人が手を組んで、反乱を起こします。
その結果、ウマイヤ朝は滅亡します。
750年、アリーの有力者だったアブル=アッバースがアッバース朝を興します。
ちなみに、アッバース朝では、アラブ人も非アラブ人も、イスラム教徒であれば、租税は同じになりました。
教徒の平等性が確保されるようになったわけです。
●ムハンマドの言葉
イスラム教には、六信五行というものがあります。
六信は、教徒が信じるべき六つの事柄です。
具体的には、❶神(アッラー)、❷天使、❸啓典、❹預言者、❺来世、➏天命です。
五行は、教徒が行うべき五つの事柄です。
具体的には、①信仰告白、②礼拝、③喜捨、④断食、⑤巡礼です。
つまり、ムハンマドの言葉を一言で表すならば、六信五行の実践になるわけです。
今回、六信五行のうち、クローズアップしたいのが「喜捨」です。
六信は、信仰の対象です。
五行のうち、信仰告白、礼拝、断食、巡礼は、信仰に関わる直接的な行為です。
ところが、喜捨だけは違います。
喜捨は、寄付を行うことです。
神に捧げるのではなく、困っている人に捧げるんです。
イスラムの教徒は皆平等です。
しかしながら、貧富の格差は生じます。
そこで、成功者が富を蓄えるのではなく、社会に提供することで、格差を是正することを義務化したわけです。
私利私欲を戒め、助け合うことの大切さを解いたわけです。
これにより、家族間だけではなく、教徒間での助け合いの精神が浸透しています。
ムハンマドが、喜捨を宗教行為に組み込んだことの功績ですね。
●ムハンマドの画像
ムハンマドの顔については、崇拝の対象にならないよう、白い布で覆われて描かれたものが多いようです。
画像参照元:ウィキペディア
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