【世界史人物21】ムハンマド「喜捨」 | 技術士を目指す人の会

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勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史の人物を紹介します。

今回は、ムハンマド です

山川の教科書のP102、《イスラーム教の誕生》で登場します。

 

●いつの時代?

AD610年(イスラム教をとなえる)

 

●どこの人?

アラブ人

 

●何をした人?

イスラム教の創始者。

 

 

●アラビア半島

5世紀の世界では、アジアではササン朝ペルシア、ヨーロッパではビザンツ帝国が力を持っていました。

これら2つの国は領土が広く、2大勢力を成していました。

両国間の争いは絶えなかったようです。

アジアとヨーロッパの中間に位置する、アラビア半島には、小さな国は多くあったようですが、統一国家は存在していませんでした。

この時代の地図をを見ると、アラビア半島には、何も色が塗られていませんね。

 

 

 

※画像:「山川の世界史図録」より抜粋

 

ただ、アラビア半島に人がいなかったわけではありません。

貿易が栄えていたので、多くの人がいました。

ササン朝ペルシアは、チグリスユーフラテス川の中流域、クテシフォンを首都にしていました。

クテシフォンから、ローマ等の西ヨーロッパに行くためには、ビザンツ帝国を通る必要があります。

ところが、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国が争っていたわけですから、そんなことはできない。

このため、アラビア半島、アラビア海・紅海経由で、地中海に抜けるルートが重要視されることになります。

というわけで、アラビア半島は、貿易が栄えていて、多くのアラブ人が住んでいたわけです。

中でもメッカは、主要都市として機能していました。

 

ムハンマドは、570年にメッカで誕生し、610年頃イスラム教を興します。

同時のアラビア半島にも、各地に多神教の宗教が存在しましたが、イスラム教が急速に普及していきます。

さらに、ムハンマドは、政治的・軍事的な改革により、アラブ人の部族の統一を図ります。

そして、わずか20年足らずで、これを実現します。

ここから、世界史におけるアラビア半島、イスラム帝国の歴史がスタートするわけです。

ムハンマドは、イスラム教の創始者であると同時に、帝国の礎を作ったわけです。

 

 

●アラブ

ムハンマドは、632年に亡くなります。

ムハンマドはイスラム教の創始者ですが、同時に、アラビア半島における政治上のトップでもあります。

ムハンマドが築いたアラビア半島の国家ですが、便宜上、アラブ国と呼ぶことにします。

ムハンマドは、イスラム教とアラブ国のトップでしたから、後継者もこれを引き継ぐことになります。

宗教と政治、2つの権力を継承することになります。

キリスト教で言えば、教皇と皇帝を兼務するようなものです。

絶大な権力を有するわけです。

この絶対的なリーダーのことを、イスラム教ではカリフと呼びます。

初代カリフはアブー・バクルでした。ムハンマドの親友であり、義父でもあります。

二代目カリフはウマルでした。

この頃、イスラム教の布教と領土拡大が進みます。

636年、ヤルムークの戦いではビザンツ帝国を破ります。

そして、642年、ニハーヴァンドの戦いでは、ササン朝ペルシアを破り、チグリスユーフラテス川を手に入れます。

最終的には、651年、ササン朝ペルシアを滅ぼします。

カリフの意思のもと、アラブ国は領土を拡大していき、大国になっていきます。

ところが、四代目カリフのアリー(ムハンマドの従妹)の時、内乱が起きます。

アリーは暗殺されてしまいます。

反アリー派の中で、最も有力だったムアーウィヤが国のトップになり、661年にウマイヤ朝を興します。

 

 

●ウマイヤ朝とアッバース朝

ウマイヤ朝は、侵略により領土を拡大していきます。

東はインド、西は北アフリカ(現在のモロッコ周辺)、イベリア半島(現在のスペイン)まで拡がります。

720年頃までは無敵状態でした。

 

 

 

 

 

 

しかし、732年、トゥールポワティエの戦いで、フランク王国に敗れてしまいます。

これが大きな分岐点になり、ウマイヤ朝が抱えていた問題が拡大することになります。

 

ウマイヤ朝が抱えていた問題は2つありました。

1つ目の問題は、平等に関するものです。

ウマイヤ朝のトップは、カリフを名乗っていましたが、宗教的な指導者ではなく、皇帝としての側面が強く出ていました。

ウマイヤ朝は、アラブ人第一主義をとっていました。

その最たるものが租税システム

アラブ人に納税を課していませんでしたが、非アラブ人には課税していました。

最初の頃は、これでうまくいっていたのかもしれませんが、非アラブ人の中にも、イスラム教徒が大勢存在します。

当然ですが、非アラブ人は不満が溜まっていたわけです。

イスラム教のコーランには、全ての信者は平等であることが説かれています。

つまり、ウマイヤ朝のカリフは、イスラム教の教えを守っていないことになるわけです。

 

2つ目の問題は、アリー派の存在です。

先程も説明したとおり、ウマイヤ朝というのは、四代目カリフのアリーを暗殺して作った国家です。

カリフは、イスラム教徒の頂点であり、崇めるべき存在です。

崇めるべき存在を殺されたわけですから、その恨みが消えることはありません。

国家としては反アリー派が主流になっても、アリー派は脈々と存在していたわけです。

アラブ人の中にも、ウマイヤ朝に対する反乱因子が存在してわけです。

 

トゥールポワティエの戦いでの敗戦を契機に、アリー派のアラブ人と非アラブ人が手を組んで、反乱を起こします。

その結果、ウマイヤ朝は滅亡します。

750年、アリーの有力者だったアブル=アッバースがアッバース朝を興します。

ちなみに、アッバース朝では、アラブ人も非アラブ人も、イスラム教徒であれば、租税は同じになりました。

教徒の平等性が確保されるようになったわけです。

 

 

●ムハンマドの言葉

イスラム教には、六信五行というものがあります。

六信は、教徒が信じるべき六つの事柄です。

具体的には、❶神(アッラー)、❷天使、❸啓典、❹預言者、❺来世、➏天命です。

五行は、教徒が行うべき五つの事柄です。

具体的には、①信仰告白、②礼拝、③喜捨、④断食、⑤巡礼です。

つまり、ムハンマドの言葉を一言で表すならば、六信五行の実践になるわけです。

 

今回、六信五行のうち、クローズアップしたいのが「喜捨」です。

六信は、信仰の対象です。

五行のうち、信仰告白、礼拝、断食、巡礼は、信仰に関わる直接的な行為です。

ところが、喜捨だけは違います。

喜捨は、寄付を行うことです。

神に捧げるのではなく、困っている人に捧げるんです。

 

イスラムの教徒は皆平等です。

しかしながら、貧富の格差は生じます。

そこで、成功者が富を蓄えるのではなく、社会に提供することで、格差を是正することを義務化したわけです。

私利私欲を戒め、助け合うことの大切さを解いたわけです。

これにより、家族間だけではなく、教徒間での助け合いの精神が浸透しています。

ムハンマドが、喜捨を宗教行為に組み込んだことの功績ですね。

 

 

●ムハンマドの画像

ムハンマドの顔については、崇拝の対象にならないよう、白い布で覆われて描かれたものが多いようです。

画像参照元:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95

 

 

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