【世界史人物20】則天武后「革新的」 | 技術士を目指す人の会

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勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史の人物を紹介します。

今回は、則天武后です

山川の教科書のP92、《唐の動揺》で登場します。

 

久々の世界史です。

6月1日から3か月半、電験の勉強をしていました。

試験が終わったので、再び世界史の勉強をしています。

大分、忘れてます。

調べて、整理して、考えて、アウトプットする、この繰り返しが大切ですね。

 

●いつの時代?

AD690年(即位)

 

●どこの人?

中国人

 

●何をした人?

唐は中国の王朝です。

則天武后は、中国史上、唯一の女性皇帝です。

 

 

●中国の歴史

則天武后の話をする前に、中国の歴史のおさらいです。

7世紀までは、概ね、以下の①〜⑪の時代区分になります。

 

①殷(BC1600〜BC11世紀)

②周(BC11世紀〜BC770)

③春秋時代(BC770〜BC403)

④戦国時代(BC403〜BC221)

⑤秦(BC221〜BC206)

⑥前漢・新・後漢(BC202〜AD220)

⑦三国時代(AD220〜AD280)

⑧西晋(AD280〜AD316)

⑨五胡十六国時代(AD304〜AD439)

⑩南北朝時代(AD439〜AD581)

⑪隋(AD581〜AD618)

 

ざっくりと考えるなら、①〜⑧までは漢民族の国家です。

漢民族同士の争いの歴史です。

ところが、⑨五胡十六国時代になると、遊牧民族の胡人が力を伸ばしてきます。

漢民族 VS 胡人という対立構造が生まれます。

⑩南北朝時代になると、胡人の力が強大になります。

ついには、胡人が漢民族を南部に退け、2つの民族が国土を二分するようになります。

北部は胡人が支配しました。国家としては、北魏→西魏・東魏→北周・北斉 と移り変わります。

南部は漢民族です。国家は、宋→斉→梁→陳 と移り変わっていきます。

北部では、AD581年になると、北周の楊堅が隋を建国します。

楊堅は、北部を統一した後、AD589年、南北を統一します。

ついに、胡人により中国が統一されるわけです。

しかしながら、隋は長続きしませんでした。

 

二代目の煬帝の時、黄河と長江を結ぶ大運河を整備しました。

世界レベルの大河をつなぐわけですから、大事業です。

水上交通の利便性は飛躍的に向上したはずです。

当然ですが、重機なんてありませんから、膨大な数のマンパワーが必要です。

国民に大きな負担を強いることになります。

それから、無給で国民を働かせることはできませんから、国の支出も相当なものになりました。

国庫が底をつきそうになったはずです。

そんな時、国のトップがやることは2つです。

増税、そして、侵略戦争です。

隋は、朝鮮半島の高句麗遠征を行います。

これが成功すればよかったのでしょうが、この戦争がうまくいきません。

高句麗は強かったんですね。

隋は高句麗に敗退します。

これで、国民の不満が爆発します。

各地の有力貴族が反乱を起こし、天下を取りに行きます。

その結果、隋は滅亡することになります。

反乱を起こした者の中で、最も力を持っていたのが李淵でした。

ちなみに、李淵は煬帝のいとこです。

AD618年、李淵は唐を建国します。

隋は、日本史おいても登場する馴染みのある国ですが、わずか30年で滅びました。

一方、唐は約300年続くことになります。

 

資料参照元,山川の世界史

 

 

●唐の歴史

唐の歴史は、約300年ですが、ざっくりとまとめると以下のようになります。

教科書等は、最初の100年の出来事について多く語られています。

 

①618年 李淵(高祖)が唐を建国。

②626年 李世民(太宗)が即位。治世が安定した。これを「貞観の治」と呼ぶ。

③649年 高宗が即位。高宗の時に領土最大。 

④690年 則天武后が即位。

⑤712年 玄宗が即位。治世が安定「開元の治」。ただし、後半はうまくいかず安史の乱を招く。

⑥751年 「タラス湖畔の戦い」でアッバース朝(イスラーム)に敗戦

⑦792年 徳宗が即位。両税法の導入。

⑧875年 黄巣の乱

⑨907年 朱全忠により唐滅亡

 

 

751年の「タラス湖畔の戦い」は、唐とアッバース朝との戦争です。

国家間の本格的な戦争です。

この戦争に唐は敗れ、アッバース朝が勝利しています。

ちなみに、この戦争の約20年前の732年、「トゥールポワティエの戦い」がありました。

これはフランク王国とウマイヤ朝との戦争で、フランク王国が勝利しています。

わずか20年の間で大きな戦争が2つあったわけです。

その両方にイスラーム国家が絡んでいて、その勝敗は西高東低です。

その後の歴史を見ても、この傾向が続くため、この2つの戦争は、世界史の大きな流れが構築された重要な出来事だったと思います。

 

●則天武后

いろいろな話をしてきましたが、今回、クローズアップするのは、則天武后です。

則天武后は、李世民(太宗)の後宮に入ります。後宮は大奥みたいなものです。

太宗の寵愛を受けたそうですでが、子供が生まれず、皇后になれませんでした。

しかし、則天武后は魅力的な人だったようです。

太宗の子である高宗が即位した際、高宗からも寵愛を受けます。

そして、高宗との間に子供が生まれます。

こうして、則天武后は皇后になったわけです。

 

現代風に言うと、則天武后は、太宗のお奥さんの一人であり、同時に、その息子の高宗の本妻さんになったわけです。

太宗も高宗も、唐の領土を拡大した、歴史に名を刻んでいる皇帝です。

その皇帝二人の奥さんになったわけですから、とても魅力があったのでしょうね。

 

ただ、則天武后のストーリーはここで終わりません。

高宗は、病弱でした。

床に伏していることが多く、実質的な権限を則天武后が握るようになります。

そして、高宗が亡くなります。

ここからが則天武后のすごいところです。

ちゃんと息子がいたわけですから、通常であれば、その息子が次の皇帝になるはずです。

(ちなみに、後に、この息子は中宗になる)

ところが、則天武后は、自らが即位します。

そして、この前例のない事態を、配下が承認します。

これがすごい。

こうして、中国史上初で、唯一無二の女性皇帝が誕生します。

 

山川の教科書には、詳しく書かれていないですが、則天武后は、都を長安から洛陽に移します。

それだけではなく、国名を唐から周に変えたそうです。

変化を好んだようです。

ただ、在位が15年と短く、次の皇帝の時、すぐに名前が唐に戻ったため、このことは大きく扱われていません。

 

それから、則天武后は、科挙を積極的に採用しました。

科挙は今で言うところの公務員試験です。

つまり、筆記試験です。

筆記試験で国の従事者を採用するわけです。

科挙自体は隋の時代に導入されたものです。

それ以前は、王族の親族を採用したり、地方の有力者の推薦で決まっていました。

科挙の導入で、本当に優秀な人間を集めることが可能になりました。

則天武后は、この科挙の採用枠を拡大して、科挙を全面的に導入したわけです。

政治の担い手が、古い家柄の貴族から、試験に合格した者で構成する官僚制に、本格的に移行したわけです。

 

●則天武后の名言

則天武后は、書の達人だったそうで、詩も書いたそうです。

しかし、則天武后は悪女として歴史に名が刻まれています。

このため、ネットで検索しても名言はヒットしません。

 

名言こそありませんが、一つ言えることは、則天武后は「革新的」なことを好んだようです。

初の皇帝になったこと自体が「革新的」です。

女性として、ここまで広大な国を支配したのは、オンリーワンです。

 

前例踏襲的な権力者をやり込めて、女帝になったわけですから、相当な決断力の持ち主です。

それから、国名を変えたり、仕組を変えたりしました。

 

則天武后が「革新的」であったことは確かなことです。

というわけで、則天武后を表す言葉は、

「革新的」

だと思います。

 

則天武后は、科挙を採用することで、客観的、定量的な判断に基づき人を判断していたわけです。

見方によっては、努力を評価した人であり、努力が評価される時代を築いたことになりますね。

 

●則天武后の画像

画像参照元:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9

 

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