世界史の人物を紹介します。
今回は、則天武后です。
山川の教科書のP92、《唐の動揺》で登場します。
久々の世界史です。
6月1日から3か月半、電験の勉強をしていました。
試験が終わったので、再び世界史の勉強をしています。
大分、忘れてます。
調べて、整理して、考えて、アウトプットする、この繰り返しが大切ですね。
●いつの時代?
AD690年(即位)
●どこの人?
唐
中国人
●何をした人?
唐は中国の王朝です。
則天武后は、中国史上、唯一の女性皇帝です。
●中国の歴史
則天武后の話をする前に、中国の歴史のおさらいです。
7世紀までは、概ね、以下の①〜⑪の時代区分になります。
①殷(BC1600〜BC11世紀)
②周(BC11世紀〜BC770)
③春秋時代(BC770〜BC403)
④戦国時代(BC403〜BC221)
⑤秦(BC221〜BC206)
⑥前漢・新・後漢(BC202〜AD220)
⑦三国時代(AD220〜AD280)
⑧西晋(AD280〜AD316)
⑨五胡十六国時代(AD304〜AD439)
⑩南北朝時代(AD439〜AD581)
⑪隋(AD581〜AD618)
ざっくりと考えるなら、①〜⑧までは漢民族の国家です。
漢民族同士の争いの歴史です。
ところが、⑨五胡十六国時代になると、遊牧民族の胡人が力を伸ばしてきます。
漢民族 VS 胡人という対立構造が生まれます。
⑩南北朝時代になると、胡人の力が強大になります。
ついには、胡人が漢民族を南部に退け、2つの民族が国土を二分するようになります。
北部は胡人が支配しました。国家としては、北魏→西魏・東魏→北周・北斉 と移り変わります。
南部は漢民族です。国家は、宋→斉→梁→陳 と移り変わっていきます。
北部では、AD581年になると、北周の楊堅が隋を建国します。
楊堅は、北部を統一した後、AD589年、南北を統一します。
ついに、胡人により中国が統一されるわけです。
しかしながら、隋は長続きしませんでした。
二代目の煬帝の時、黄河と長江を結ぶ大運河を整備しました。
世界レベルの大河をつなぐわけですから、大事業です。
水上交通の利便性は飛躍的に向上したはずです。
当然ですが、重機なんてありませんから、膨大な数のマンパワーが必要です。
国民に大きな負担を強いることになります。
それから、無給で国民を働かせることはできませんから、国の支出も相当なものになりました。
国庫が底をつきそうになったはずです。
そんな時、国のトップがやることは2つです。
増税、そして、侵略戦争です。
隋は、朝鮮半島の高句麗遠征を行います。
これが成功すればよかったのでしょうが、この戦争がうまくいきません。
高句麗は強かったんですね。
隋は高句麗に敗退します。
これで、国民の不満が爆発します。
各地の有力貴族が反乱を起こし、天下を取りに行きます。
その結果、隋は滅亡することになります。
反乱を起こした者の中で、最も力を持っていたのが李淵でした。
ちなみに、李淵は煬帝のいとこです。
AD618年、李淵は唐を建国します。
隋は、日本史おいても登場する馴染みのある国ですが、わずか30年で滅びました。
一方、唐は約300年続くことになります。
資料参照元,山川の世界史
●唐の歴史
唐の歴史は、約300年ですが、ざっくりとまとめると以下のようになります。
教科書等は、最初の100年の出来事について多く語られています。
①618年 李淵(高祖)が唐を建国。
②626年 李世民(太宗)が即位。治世が安定した。これを「貞観の治」と呼ぶ。
③649年 高宗が即位。高宗の時に領土最大。
④690年 則天武后が即位。
⑤712年 玄宗が即位。治世が安定「開元の治」。ただし、後半はうまくいかず安史の乱を招く。
⑥751年 「タラス湖畔の戦い」でアッバース朝(イスラーム)に敗戦
⑦792年 徳宗が即位。両税法の導入。
⑧875年 黄巣の乱
⑨907年 朱全忠により唐滅亡
751年の「タラス湖畔の戦い」は、唐とアッバース朝との戦争です。
国家間の本格的な戦争です。
この戦争に唐は敗れ、アッバース朝が勝利しています。
ちなみに、この戦争の約20年前の732年、「トゥールポワティエの戦い」がありました。
これはフランク王国とウマイヤ朝との戦争で、フランク王国が勝利しています。
わずか20年の間で大きな戦争が2つあったわけです。
その両方にイスラーム国家が絡んでいて、その勝敗は西高東低です。
その後の歴史を見ても、この傾向が続くため、この2つの戦争は、世界史の大きな流れが構築された重要な出来事だったと思います。
●則天武后
いろいろな話をしてきましたが、今回、クローズアップするのは、則天武后です。
則天武后は、李世民(太宗)の後宮に入ります。後宮は大奥みたいなものです。
太宗の寵愛を受けたそうですでが、子供が生まれず、皇后になれませんでした。
しかし、則天武后は魅力的な人だったようです。
太宗の子である高宗が即位した際、高宗からも寵愛を受けます。
そして、高宗との間に子供が生まれます。
こうして、則天武后は皇后になったわけです。
現代風に言うと、則天武后は、太宗のお奥さんの一人であり、同時に、その息子の高宗の本妻さんになったわけです。
太宗も高宗も、唐の領土を拡大した、歴史に名を刻んでいる皇帝です。
その皇帝二人の奥さんになったわけですから、とても魅力があったのでしょうね。
ただ、則天武后のストーリーはここで終わりません。
高宗は、病弱でした。
床に伏していることが多く、実質的な権限を則天武后が握るようになります。
そして、高宗が亡くなります。
ここからが則天武后のすごいところです。
ちゃんと息子がいたわけですから、通常であれば、その息子が次の皇帝になるはずです。
(ちなみに、後に、この息子は中宗になる)
ところが、則天武后は、自らが即位します。
そして、この前例のない事態を、配下が承認します。
これがすごい。
こうして、中国史上初で、唯一無二の女性皇帝が誕生します。
山川の教科書には、詳しく書かれていないですが、則天武后は、都を長安から洛陽に移します。
それだけではなく、国名を唐から周に変えたそうです。
変化を好んだようです。
ただ、在位が15年と短く、次の皇帝の時、すぐに名前が唐に戻ったため、このことは大きく扱われていません。
それから、則天武后は、科挙を積極的に採用しました。
科挙は今で言うところの公務員試験です。
つまり、筆記試験です。
筆記試験で国の従事者を採用するわけです。
科挙自体は隋の時代に導入されたものです。
それ以前は、王族の親族を採用したり、地方の有力者の推薦で決まっていました。
科挙の導入で、本当に優秀な人間を集めることが可能になりました。
則天武后は、この科挙の採用枠を拡大して、科挙を全面的に導入したわけです。
政治の担い手が、古い家柄の貴族から、試験に合格した者で構成する官僚制に、本格的に移行したわけです。
●則天武后の名言
則天武后は、書の達人だったそうで、詩も書いたそうです。
しかし、則天武后は悪女として歴史に名が刻まれています。
このため、ネットで検索しても名言はヒットしません。
名言こそありませんが、一つ言えることは、則天武后は「革新的」なことを好んだようです。
初の皇帝になったこと自体が「革新的」です。
女性として、ここまで広大な国を支配したのは、オンリーワンです。
前例踏襲的な権力者をやり込めて、女帝になったわけですから、相当な決断力の持ち主です。
それから、国名を変えたり、仕組を変えたりしました。
則天武后が「革新的」であったことは確かなことです。
というわけで、則天武后を表す言葉は、
「革新的」
だと思います。
則天武后は、科挙を採用することで、客観的、定量的な判断に基づき人を判断していたわけです。
見方によっては、努力を評価した人であり、努力が評価される時代を築いたことになりますね。
●則天武后の画像
画像参照元:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
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