【世界史人物19】孝文帝「合理的判断」 | 技術士を目指す人の会

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勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史の人物を紹介します。

今回は、孝文帝です

は、山川の教科書のP82、《分裂の時代》で登場します。

 

●いつの時代?

AD471年(孝文帝の即位)

 

●どこの人?

北魏

中国人

 

●何をした人?

北魏は中国の王朝です。

孝文帝は、北魏の皇帝です

 

●中国の歴史

孝文帝の話をする前に、中国の歴史について説明しておきます。

唐までの王朝は以下の通りです。

 

①殷(BC1600〜BC11世紀)

②周(BC11世紀〜BC770)

③春秋時代(BC770〜BC403)

④戦国時代(BC403〜BC221)

⑤秦(BC221〜BC206)

⑥前漢・新・後漢(BC202〜AD220)

⑦三国時代(AD220〜AD280)

⑧西晋(AD280〜AD316)

⑨五胡十六国時代(AD304〜AD439)

⑩南北朝時代(AD439〜AD581)

⑪隋(AD581〜AD618)

⑫唐(AD618〜AD907)

 

③春秋時代(BC770〜BC403)、④戦国時代(BC403〜BC221)、⑦三国時代(AD220〜AD280)、⑨五胡十六国時代(AD304〜AD439)は、統一王朝が存在しない時代です。

 

④戦国時代は、7つの大国がありました。

秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓です。

これらを戦国の七雄と呼びます。

秦が統一するまでの戦乱を描いた漫画が『キングダム』です。

 

 

それから、⑦三国時代。

魏・蜀・呉が天下を三分します。

三つ国の戦乱を描いたのが、『三国志』や『蒼天航路』です。

『三国志』は、蜀の劉備玄徳が主人公です。

 

 

『蒼天航路』は、魏の曹操が主人公です。

 

三国時代は、AD220年からスタートします。

この時、「魏」の王は曹操ではありません。

曹操の息子の曹丕が王でした。

漫画の『三国志は、「魏」は曹操、「蜀」は劉備、「呉」は孫権が王ですが、実際には、「魏」の王は曹丕だったんですね。

三国の中で「魏」が一番強大でした。

AD263年、「魏」が「蜀」を滅ぼします。

ところが、その2年後、AD265年、「魏」の将軍の司馬炎がクーデターを起こします。

結果、「魏」は滅びます。司馬炎が皇帝になって、新たに「晋」を建国します。

AD280年、「晋」は「呉」を滅ぼし、中国を統一をします。

 

これで戦乱の世が落ち着くのかというとそうではありません。

この頃、中国北部では騎馬遊牧民が力をつけていました。

遊牧騎馬民族の国が多く存在しましたが、中で力が強かったのが「匈奴」です。

「匈奴」は「晋」を攻め込みます。

そして、AD316年、「晋」は敗戦します。

これを永嘉の乱といいます。

都の洛陽は「匈奴」に落とされましたが、華南(中国南部)にも「晋」の一族がいました。

この一族が、都を建康(現在の南京)として、AD317年に「晋」をリスタートします。

AD316年以前を「西晋」、AD317年以降を「東晋」と呼びます。

その後、AD420年、「東晋」は滅び、「宋」が建国されます。

中国南部の華南は漢民族の支配が続きます。

 

一方、「西晋」のあった黄河流域エリアは、「匈奴」が支配していました。

ただし、騎馬遊牧民の国家は「匈奴」だけではありませんでした。

匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの民族がありました。

これらを五胡と呼びます。

こうした騎馬民族を胡人と呼びます。(これに対して古来からの中国人を漢民族と呼びます。)

他にもたくさんの小国があり、勢力争いをしたので、華北(中国北部)は統一国家が生まれず、戦乱が続きました。

これを五胡十六国時代と呼びます。

386年、鮮卑の拓跋氏という一族が「北魏」を建国します。

初代皇帝は太武帝です。

「北魏」は力を伸ばしていき、439年、華北を統一します。

 

こうして、華北は、胡人の「北魏」が支配し、華南は漢民族の「宋」が支配することになりました。

南北で統一国家が両立する、これが南北朝時代です。

 

南北朝時代は、約200年続きますが、この間、「北魏」は、「西魏」と「東魏」に分裂します。

さらに「西魏」は「北周」に名を変え、さらに「隋」に移り変わっていきます。

「隋」は、589年、中国全土を統一します。

中国史で初めて、胡人が中国を支配したわけです。

画像参照元:山川の世界史

 

●孝文帝の功績

「北魏」は胡人の国家です。

胡人は遊牧民族です。平野で定住する生活よりも山間部で移住する生活を好みます。

黄河流域よりもかなり北の平城(現在の大同)を都にしていました。

この生活スタイルを一変させたのが孝文帝です。

471年、孝文帝が第6代皇帝に即位します。

孝文帝は、都を平城から、黄河流域の洛陽に遷都します。

利便性を重視したわけです。

同時に、遊牧民による場当たり的な国家体制から、農耕を中心とした国家体制に移行できました。

さらに、孝文帝は、漢民族の文化面でもリスペクトしていました。

服装、言語、姓に至るまで漢風に変更します。

これを漢化政策と言います。

 

「北魏」にも、自国の文化があったはずです。

しかし、孝文帝は、戦争に負けて占領されたわけでもないのに、自国の言語、姓、服装を全て撤廃して、漢民族のものに変更したわけです。

これは相当大胆です。

これは僕の推測ですが、孝文帝は、中国統一を目論んでいたのだと思います。

孝文帝は、漢民族のシステムが優れていたことを知っていました。

中国統一後、漢人を胡人化するよりも、胡人が漢化した方が合理的だと判断したのではないのでしょうか。

孝文帝は、中国統一を行うことができませんでしたが、「隋」は中国を統一しました。

胡人による漢民族の支配です。

漢民族にとって屈辱的なことだったはずです。

ところが、この時、既に胡人は漢化していました。

「隋」の支配が始まったものの、言語や姓は、漢民族のものでした。

農民や商人にしてみれば、支配者が漢民族から胡人に変わっただけで、何もも変わりません。

こうして、反乱等も起きず、胡人による中国統治が進んでいったというわけです。

これは、孝文帝による漢化政策が適切だったわけですね。

 

それから、孝文帝は、仏教を保護していました。

竜門石窟を作ったことでも有名です。

画像参照元:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%96%80%E6%B4%9E%E7%AA%9F

 

●土地制度

中国の土地制度は、「魏」の屯田制、「西晋」の占田・課田法、「北魏」の均田制が有名です。

農民に土地を耕させ、そこから税を徴収するための仕組みです。

まず、「魏」の屯田制です。

三国時代は戦乱が続きましたので、多くの農民が田畑から逃げ出してしまいました。

荒れた田畑を国有化して、農民を配置して耕作させたわけです。

収穫物に課税することで税収を得ました。つまり、税収アップが目的です。

次に、「西晋」の占田・課田法です。

占田法は、農民が裕福になって力をつけるの避けるため、土地活用の上限を設定したものです。

課田法は、収めるべき税を定めたものです。つまり、土地活用の下限値を設定したものです。

最期に「北魏」の均田制です。均田制を導入したのが孝文帝です。

この頃、地方の豪族が、農民を使って土地開墾をしていました。

これは私有財産です。農地がどんどん広がり、豪族が裕福になり、力が増していきます。

力を持った豪族が、国家への反逆を企て、反乱を起こすと国が滅びてしまいます。

これを阻止するため、私有財産の上下限を設定したのが均田制です。

土地面積がみんな一緒ならば、富の集中、力の集中が発生しにくいわけです。

 

ちなみに、日本は、「北魏」の影響を大きく受けています。

遣隋使によってもたらせた情報の多くは、「北魏」の時代に導入されたものが大半です。

例えば、班田収授法は、均田制の考え方を取り入れたものです。

それから、奈良時代の平城京は、「北魏」の都が平城だったことが名前のルーツです。

 

●孝文帝の名言

孝文帝の名言について、ネットで検索してもヒットしません。

孝文帝は、戦争に負けたわけでもないのに、自国の言語、姓、服装を全て撤廃して、漢民族のものに変更しています。

合理的な判断に基づいたものです。

また、豪族の台頭を抑えるため、均田制を導入しています。

これも合理的な判断です。

というわけで、孝文帝を語る上で、重要なキーワードは次のとおりです。

 

合理的判断

 

●孝文帝の画像

画像参照元:世界の歴史マップ

https://sekainorekisi.com/glossary/%e5%ad%9d%e6%96%87%e5%b8%9d/

 

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