【世界史人物22】サラディン「寛容」 | 新見一郎

新見一郎

勉学を通じて成長をナビゲートする講師。
2008年に技術士合格後、「技術士を目指す人の会」を立ち上げ、多数の技術士を輩出。自身も勉学ノウハウを活かして行政書士、世界史検定2級、電験三種に合格。

世界史の人物を紹介します。

今回は、サラディン です

山川の教科書のP108、《バグダードからカイロへ》で登場します。

 

●いつの時代?

AD1189年(第3回十字軍)

 

●どこの人?

クルド人

 

●何をした人?

アイユーブ朝の創始者

十字軍を撃退

 

 

●歴史を考える

歴史を勉強する時、定点観測をすることが重要です。

定点観測は、ある場所で何がどう変化するのか観測することです。

歴史の勉強において定点観測は、ある特定の都市を誰が支配していたのかその経過を把握するものです。

イスラームの歴史を考える上で、重要な都市は、バグダードとカイロです。

バグダードはイラクの首都です。

カイロはエジプトの首都です。

これらの都市は、現在も存在します。

これらの王朝の変遷を見てみます。

 

●バグダードの歴史(クテシフォンを含む)

バグダードはチグリス川の中流域の町です。

バグダードの近くに、南約10kmに位置にクテシフォンがありました。

現在は遺跡しか残っていませんが、かつてクテシフォンも栄えていました。

このため、クテシフォンをバグダードに含めて考えてみます。

バグダードを首都とした国家の歴史ですが、以下のようになります。

 

①パルティア(BC247〜AD226)

 ※首都はクテシフォン

②ササン朝ペルシア(AD226〜AD651)

 ※首都はクテシフォン

③ウマイヤ朝(AD661〜AD750)

 ※②と③の間にアラブ国による支配がある

④アッバース朝(AD750〜AD1258)

 ※アッバース朝自体は1258年まで存続する

⑤ブワイフ朝(AD932〜AD1062)

 ※946年からバグダード

⑥セルジューク朝(AD1038〜AD1194)

 ※1055年からバグダード

⑦アイユーブ朝(AD1169〜AD1250)

 ※首都はカイロ

 アッバース朝

  ※アッバース朝は従前から存在

⑧イルハン国(AD1256〜AD1353)

 ※首都はタブリーズ

⑨ティムール朝(AD1370〜AD1507)

 ※首都はサマルカンド

⑩サファビー朝(AD1501〜AD1736)

 ※首都はタブリーズ

⑪オスマン帝国

 ※首都はイスタンブール

 

①パルティア、②ササン朝ペルシアは、イラン系の国家です。

②ササン朝ペルシアの宗教は、ゾロアスター教でした。

610年、ムハンマドがイスラム教を興し、アラブ人国家が誕生します。

ムハンマドの死後も、アラブ人国家は領土を拡大していきます。

四代目のカリフにアリーが就任した時、内乱が起きます。

アリーが暗殺され、③ウマイヤ朝が誕生します。

これもアラブ人国家です。

ところが、アリーを崇めていたアラブ人が中心になって、内乱を起こします。

結果、ウマイヤ朝は滅亡します。

そして、④アッバース朝が誕生します。

これもアラブ人国家です。広大な領土でした。

アッバース朝では、アラブ人も非アラブ人も、イスラム教の信者であれば、皆平等という概念が浸透していました。

これはこれでよかったのですが、結果的に、非アラブ人のうちイラン人勢力が台頭するようになります。

イラン人は、サーマーン朝、ブワイフ朝を興します。

結果、アッバース朝は分裂することになります。

⑤ブワイフ朝が力をつけ、アッバース朝に代わって、バグダードを支配することになります。

イラン人による支配です。アッバース朝も存続していましたが、多くのアラブ人がカイロに移り、ここでフォーティマ朝を興します。

ブワイフ朝ですが、傭兵としてトルコ人を重宝していました。

次は、武力に秀でたトルコ人が台頭するようになります。

そして、トルコ人は⑥セルジューク朝を興します。セルジューク朝も広大な領土を有しました。


ここまでが、バグダッドの歴史の一区切りです。

バグダードの支配者は、イラン人、アラブ人、イラン人、トルコ人に移り変わっていったわけです。


次に、⑥以降の国家です。

ここからの国家は、首都がバグダードではありません。アラブ人でもありません。

⑦アイユーブ朝は、クルド人国家です。

⑧イルハン国は、モンゴル人国家です。

⑨ティムール朝は、モンゴル人国家です。

⑩サファビー朝は、イラン人国家です。

⑪オスマン帝国は、トルコ人国家

ただ、③以降、全てイスラム教の国家です。

(⑧はモンゴル人国家ですが、途中、イスラム教に改宗します)

 

●カイロの歴史

次にカイロです。

カイロはナイル川下流域の国家です。

先程のバグダードの①〜⑪と照らし合わせながら、見てみます。

 

カイロについては、

①パルティア(BC247〜AD226)の頃は、ローマ帝国が支配していました。

②ササン朝ペルシア(AD226〜AD651)の頃は、ビザンツ帝国です。

③ウマイヤ朝(AD661〜AD750)の頃は、ウマイヤ朝です。

④アッバース朝(AD750〜AD1258)の頃は、アッバース朝です。

⑤ブワイフ朝(AD932〜AD1062)の頃は、ファーティマ朝です。

⑥セルジューク朝(AD1038〜AD1194)の頃も、ファーティマ朝です。

この後、

⑦アイユーブ朝(AD1169〜AD1250)が支配するようになります。

⑧イルハン国(AD1256〜AD1353) の頃は、マムルーク朝です。

⑨ティムール朝の頃も、マムルーク朝です。
⑩サファビー朝以降は、⑪オスマン帝国が支配することになります。

 

 

●東と西の対立

カイロの歴史で述べたとおり、2世紀以前は、パルティアとローマ帝国が対立していました。

3世紀になると、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国が対立するようになります。

東洋の大国と西洋の大国が対立していたわけです。

ただし、これは民族間の領土争いです。

これが、ムハンマドによりアラブ国が成立した後は、様相が変わります。

東洋VS西洋から、イスラム教VSキリスト教の対立構造に変化します。

8世紀、アッバース朝が全盛期を迎えた頃には、イベリア半島もイスラム圏になっていました。

イスラム教VSキリスト教の対立は、イスラム教有利な状況でした。

キリスト教国家の中でも、勢力地図が大きく変化しました。

これまで力を有していたビザンツ帝国は弱化し、神聖ローマ帝国(ドイツ)、フランク王国(フランス)、イングランド王国(イギリス)の3国が力を有するようになっていました。

ビザンツ帝国はギリシア正教会です。

神聖ローマ帝国、フランク王国、イングランド王国はローマカトリック教会でした。

このため、ローマカトリック教会が大きな権力を持つようになっていました。

10世紀になると、イスラム教はセルジューク朝が中心になります。

セルジューク朝は、ビザンツ帝国を侵攻します。

ここでビザンツ帝国の皇帝は、本来はギリシア正教の信者ですが、ローマカトリック教会の方に助けを求めます。

なぜなら、ローマカトリック教会が大きな権力を持っていて、神聖ローマ帝国、フランク王国、イングランド王国を動かすことができたからです。

本来、ビザンツ帝国はギリシア正教会ですから、助ける義務はありません。

しかし、ローマカトリック教会は、勢力拡大を続けるイスラム教国家から、聖地イェルサレムとイベリア半島を奪回するため、軍隊を送ることを決定します。1095年、クレルモン宗教会議です。

1096年、第1回十字軍を送ります。

セルジューク朝は、この戦いに敗退します。

十字軍がイェルサレムを占領することになります。

その後も、イスラム教国家の反撃に対して、ローマカトリック教は、1147年に第2回十字軍を送り込みます。

この頃は、キリスト教が有利な状況でした。

そして、サラディンが歴史に登場することで、この西高東低の状況が一転します。

 

●サラディン

サラディンは、最初ファーティマ朝に属していました。

しかし、ファーティマ朝の衰えを見て、自らアイユーブ朝を興します。

これが1169年です。

 

サラディンは、エジプト、シリア、チグリスユーフラテス川中流域まで領土を拡げます。

そして、1187年、イェルサレムに在中する十字軍に打ち勝ち、イェルサレムを奪回します。

当然ですが、ローマカトリック教会が黙っていません。

1189年、神聖ローマ帝国、フランク王国、イングランド王国を主力とする、第3回十字軍を派遣します。

神聖ローマ帝国は皇帝フリードリヒ1世、フランク王国はフィリップ2世、イングランドは獅子心王リチャード1世が参加しています。

対するは、アイユーブ朝のサラディンです。

普通に考えれば、十字軍が勝利して、イェルサレムを奪回されそうなものです。

ところが、遠征の途中、皇帝フリードリヒ1世が死んでしまいます。

フランク王国はフィリップ2世は、引き上げてしまいます。

こうして、サラディンは、十字軍という名をひっさげたイングランドを迎え撃つことになります。

アッコンという都市は奪回されますが、サラディンはイェルサレムを守り切ります。

そして、1192年、休戦協定を結び、十字軍を追い返します。

こうして、サラディンは第3回十字軍に打ち勝ったイスラムの英雄として、歴史に名を刻むことになります。

 

●サラディンの言葉

第1回十字軍はイスラム教の捕虜を皆殺しにしています。

また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も虐殺を行っています。

しかし、サラディンは敵の捕虜を全員助けています。

捕虜を殺さなかった寛容さについては、西洋においても英雄として評価を受けています。

サラディンを表すには、次の言葉が適切です。

 

寛容

 

それから、サラディンはキリスト教徒によるイェルサレムの巡礼を許可しています。

また、サラディンは、贅沢をすることなく、私財を惜しみなく公につぎ込んだそうです。

国を第一に思っていたわけです。

亡くなった時、自身の財産は葬式代以外ほとんどなかったともいわれています。

 

●サラディンの画像

画像参照元:ウィキペディア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3

 

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