「気づき」と「人間力」の教育 一尾塾 -2ページ目

「気づき」と「人間力」の教育 一尾塾

学校、塾、キャリア、子育て、家族、心理学、脳の活性化!全部やります!
趣味は「教育」!!

不登校はなくならない。

この場合の不登校に、引きこもりは含まない。(もちろんこれも厳密に区分けできるものではないが)

少なくとも家族と会話をし、外出もする。

そういう状態で、学校に行けない、行かない生徒を対象ということにする。

 

これは学校が悪いわけでも、家族が悪いわけでもない。

社会が変化した結果起きていることだと思う。

いくつかある変化のうちで影響が大きいと思うのは、「縦社会」の力が弱まったこと。

それには、さまざまな要因があるとは思う。

だれでも情報が得られるようになったこと。

性差間の距離感(看護婦さん→看護師、保母さん→保育士、営業マン→営業職やニューハーフタレントや同性婚の認定など)

年功序列、終身雇用の終了。

ネットによる横、あるいはその名のとおり、ウェブ状のつながり。

学歴の飽和(先生だけが大学にいって学んだわけではなく、昔に比べると大卒の保護者が増え、そこにおける上下関係の喪失)

価値観の多様化

などなど。

これらによって、縦社会が弱まり、上下関係も弱まった。

そして、それらがシステムの主幹だった学校で、その力が弱まったことにより、大人よりも敏感に空気を読み取る子どもたちが、飛び出るようになったとしても、なんら不思議ではないと思う。

きっとこれからどのような対策をとったとしても、減ることはないと予想している。

 

学校が悪いとか、親が悪い、とかそういうものではないと思う。

ましてや、そういう社会が悪い、といったところでどうしようもない。

もうそういう流れなのだから、止められないのだと思う。

 

そう思うと、できることは、選択肢を増やすこと。

できれば、横の関係で成り立つ「学校」を増やすことが大切だと思っている。

もちろん従来の学校もとても大切だと思っている。だからそこを失くしてはいけない。

 

それも踏まえたうえで、子どもたちがその能力に応じて等しく教育を受ける権利と、親が子どもに普通教育を受けさせる義務とを気持ちよく達成できるようにしていくことが、不登校がゼロとかどうこういうよりも大切なことだと思う。

そのためにも瀬戸ツクルスクールのような学校は不可欠だと思っている。

今日の新聞で、「二人目の子どもを産むのは、教育費を考えると・・・」

というような記事があった。

 

子どもを立派に社会人として育て上げるためには、小さいころから習い事に行かせ、塾にいれて、大学まで行かせて、あるいは少なくとも専門学校に行かせて、しっかり知識や技術をつけて・・・

確かにそう考えると、教育費はかなりかかるだろう。

そして、その今は成り立っているかどうかわからない、このたった一つの方程式しか、子どもを育てる道がないと思っている。

そんな風に思っていれば、そりゃぁ2人目に関しては、一歩踏みとどまってしまうよな、と思う。

 

そんな社会でいいのだろうかと思う。

 

子どもにかけるのはお金じゃない。

愛情と信頼と尊敬。

それらを心から大切にしていけば、子どもたちが自立して幸せな人生を送れるような大人になれる子育ての道、教育の道もあるんだよ、というものをつくりたいと思っている。

そして、そういう社会にしたい。

そういう社会であることで、きっと子どもを産むことをためらう気持ちも変えてくれると思う。

 

そんな想いも瀬戸ツクルスクールにはこめている。

だから瀬戸ツクルスクールは無料。

瀬戸ツクルスクールに来ている生徒には、塾に行く必要はない。

高校も大学も専門学校もなくても大丈夫。

それでも20歳になるころには、自分1人分くらいは自分で稼いでいけるようになっている。

もちろんそのためにはたくさんの方に協力をお願いすることになる。

でも、もしそういったことが可能なのであれば、「お金をかけない教育」のひとつのやり方として、これからの社会に微力ながら役に立てるのではないかと思っている。

 

お金をかけるな、といっているわけではない。かけたい人、かけられる人はかければいいと思う。

でも、お金をかけなくても、かけたと同じくらい自立的であり、幸せな人生を送れる大人になるという道も必要なのだと思う。

今日もクラス会議の勉強をママたちと。

クラス会議の土台がアドラー心理学なので、当然そこもやる。

 

今回は「劣等感」について。

現代のアドラー心理学では、あまり劣等感には注目していないよう。

アドラーの劣等感の捉え方は、「羨望や嫉妬、妬み」を変化させるものだと思う。

 

「劣等感は、自分と他者とを比較して、自分は劣等であると感じるということではなく、理想の自分(自己理想)と現実の自分(自己概念)とを比較して、現実の自分は劣等であると感じることです。」

(アドラー心理学教科書 ヒューマン・ギルド出版部)

 

「Sさん、ユーモアたっぷりで話せていいな~」というままだと、Sさんに対して意識が向かっている状態。

もちろん自分がSさんになれることは100%ということは、うすうす気づいているから、そこにモチベーションは生まれにくい。

ただただ羨望の眼差しを向けているだけで、現実は一向に変わらない。それがまだ無力感で終わるなら自己責任でよいにしても、嫉妬や妬みになると本当にたちが悪い。相手を攻撃してしまうまでに至るかもしれない。

 

そこで、こう考える。

「Sさん、ユーモアたっぷりで話せていいな~」→「ということは、私はユーモアたっぷりで話せるようになりたい、と思っているのか・・・?」

と、意識の矢印を自分に向ける。

「確かにそう!私はもっとユーモアたっぷりに話せるようになりたい!」と思うのであれば、それに向けて何かしらのトレーニングを積んだりして努力していけばいい。

でも、もしかしたら、「ユーモアたっぷりで楽しかったし、確かにいいなっておもったけど、自分がそういう風になりたいか?って考えると、それほどでもないな・・・」となるかもしれない。そうなってしまえば、そこから嫉妬や妬みにつながることもないだろう。そもそも自分はそうなりたくないわけだし。

 

ということで、もし他者に対して、羨望や嫉妬、妬みがでてしまったとしたら、そこから意識をくるっと反転させて、

果たして自分は本当にそうなりたいのか?

と改めて問えば、その羨望や嫉妬、妬みが明確な目標となり、自分の背中を押すきっかけになるかもしれないし、別にそんなのいいやと思って、消化されていくかもしれない。

哲学の入り口。

名前だけ知っている人がたくさん(笑)

とりあえず一通り読んでいるから、どんな人が何を言ったかまではまだ覚えておらず・・・

そんななかでも、気持ちが引っかかった。

サルトルさん

「人間は自由の刑に処されている」or「人間は自由に呪われている」

どうやらこの言葉で有名らしい。

まぁ勉強されている方からしたら、「知らないのか!」って感じか(笑)

 

この言葉を聞いて、なんとなくツクルスクールのような学校が受け入れられないのが納得。

「すべてが自由」ということは、「すべてを自分で責任を負わなくてはならない」ということが明確になる。

それだけは勘弁してくれ~って感じなのかな。

 

ちらっと読んだだけだから、このサルトルさんがこの言葉にどれくらいのものを託したのかはわからないけれど、

「結果がどうなるかは誰にもわからないのに、自分で選ばなきゃいけないし、その結果に対する責任を負わなければならない。」

こういう身もふたもない世界に放り込まれること自体が「刑」っていうことらしい。

まぁ「自己責任」ってことかな。当たり前といえば当たり前なんだけれど、今まで「王道」と呼べる道をつくり、それが正しい結果につながっていると思い、その上をなぞって歩いてきた日本人にとっては、まさに「自由」は「刑」のようなものなのかもしれない。

 

でも、そろそろ気づきたいところ。

誰かが歩んで成功した道だろうが、多数が歩んでいるだろうと思う道だろうが、そして、親として自分自身が歩んできた道であっても、そうでなかった道であっても、結果がどうなるかなんかは、誰にも分からない。

そして、結局自分の人生の責任は自分で取るしかない。

だとしたら、少なくとも本人が「自分が決めたんだ!」という意識をもつことは大切だと思うし、子どもの決定をどうこういうのではなく、ただただ尊重して、信頼して関わっていくことが大切なんじゃないかな。

義務教育とは?

知っているようで、実は知らない。

学校に行くこと=義務教育だと思っている方多数。

教育基本法によると、

(義務教育)
第五条  国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2  義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3  国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4  国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

 

このあと学校教育法でまたいろいろあるから、学校に行く、行かないということはとりあえず置いておき、その上位にある教育基本法で考える。

 

普通教育の目標としてはまったく問題ないと思う。

 

ただ、時代が変化し、特に考えなければいけないところがあると思う。

 

「社会」とはどんな「社会」を示しているのか。

明治時代、大正時代、昭和時代、平成と社会は大きく変化している。21世紀に入り、更なる変化が起きている。特に社会の変化のスピードはかなり速い。

少なくとも3倍のスピードで変化していると思う。

 

例えば、一生同じ会社に勤めることができなくなりつつある社会。

30年は安泰だった会社が10年になってしまうということ。

私の周りでも今の50代以上の方が聞いたら、「そこに入ったら一生安泰だろう。」という会社であっても、働き盛りのときにリストラで辞めざるを得なくなっている現状がある。

これが、子どもたちが大人になるころは、さらに加速する可能性がある。

これは会社でだけではない。スキルもそう。英語が話せることが、果たして10年後に意味があるのかどうか。

子どもたちはそういう社会を生きていくことになる。

 

そして、そういった変化の速い社会では、「指示があるまで待っていて、言われたことだけする」という力はおそらく役に立ちにくい。

しかし、実際学校では、「とにかく言われたことをしっかりやること」が最優先される。

そして、それに追い立てられる。

そして、気が付けば、ただ言われたことをやるだけの力しかない人間になっている。

果たしてそれで普通教育と言えるのだろうか。

これからの社会で「自立的に生きる基礎」になりうるのだろうか?

 

確かに昔は大多数がそれでOKだった。

しかし、今はどうかというと、ある子どもにはなり得るし、ある子どもにはなりえないだろう、という不確定要素がかなり多くなった。

なぜなら、変化のスピードが速くなっただけではなく、会社の構造も大きく変わったから。

もう昔のように一本道をみんなで歩いていける時代ではない。

そういう細い細い一本道、しかも不安定な一本道にみんながよってたかるからしんどい。

 

そして、その道を敷くときに大きな影響をもたらすものは、間違いなく「学校」だと思う。

だから、新たな道を敷ける「学校」がいるのだと思って、今「学校」をやっている。