本書には、偶然不信派・常識尊重派という言葉がしばしば登場する。偶然不信派が提唱する奇妙な仮説に対して、常識尊重派が懐疑的な見方を示すというパターンが幾度も繰り返されることになる。

 その構図はさながら政治でいう与党と野党の関係のようである。仮説を提唱する‘与党’

偶然不信派に対し、‘野党’常識尊重派が反論を試みる。その反論はいつも決まっている。「それは偶然に過ぎない。考えすぎだ」というものである。

 私は偶然不信派の仮説がどの程度正しいのか判断することはできない。しかしどうしても、偶然不信派の考え方の方が魅力的に、建設的にうつってしまう。結果、偶然不信派が勢力を保ち、思考をリードしていくことになる。

 その状態に、自分自身危うさを感じるときもなくはない。偶然不信派は提唱する仮説の中でさまざまな因果関係の存在を指摘するが、その因果関係の発生理由に具体的な描写を与えることはしない。そのための知識がまったくないからである。私の人生の中に偶然は存在しないという強い信念だけが偶然不信派の原動力になっている。

 

 上記のことを留意しつつ、「心はプルシアンブルー」が始まった理由について少々考察してみたい。

 私は生まれつき「心はプルシアンブルー」だったか――この問いに対する答えはYESでもありNOでもある。

 山梨学院大学陸上部は1985年度に上田誠仁監督をむかえ本格始動すると、破竹の勢いで強化をとげていく。1986年度に箱根駅伝初出場、留学生が加入した1988年度に3回目の出場で初のシード権獲得、そして6回目の出場で初の総合優勝を果たした。

 しかしその間、私は特に幸せではなかった筈である。そもそもまだ幼かったこの頃の精神状態に関しては記憶がない。それは記憶に残るような苦楽がなかったからだろう。

 このことからは、私は生まれつき「心はプルシアンブルー」ではなかったといえる。しかし「私」という言葉に精神的な意味合いを与えると話は変わってくる。私の心の中に欲望や苦楽がうまれ、自我が形成されていったのは1995年度以降のことである。そして1995年から「心はプルシアンブルー」が始まったと考えることは可能である。

 その意味で私の心は、「心はプルシアンブルー」しか経験していない。生まれつき「心はプルシアンブルー」であったというのも、その意味では真実である。

 しかし箱根駅伝の歴史を紐解いてみると、1995年度というのは、ちょうど山梨学院大学の破竹の勢いがストップした年にあたることが分かる。途中棄権のあった1995年度以降、山梨学院は箱根路で苦戦を強いられるようになり、現在に至っている。そう考えると、「心はプルシアンブルー」こそが、山梨学院の苦戦の真因なのではないか、というふうに思えなくもない。

 さて、「心はプルシアンブルー」が真に存在する現象であることを前提とした時、それが1995年度に始まったのはなぜか、という問いがうまれる。

 偶然不信派はこの問いに対して、2つの仮説を提唱する。

 1つはインターネット関連説である。

 「Yahoo! の歴史 Yahoo! JAPANの歴史」というタイトルのウェブページには次のような記述がある。

「1995年3月、ヤフー・コーポレーションが設立され、同社は本格的にYahoo!サービスを開始しました。
また、急成長を見せる日本のインターネット利用者に同等のサービスを提供すべく、1996年1月、ヤフー・コーポレーションは日本のソフトバンク株式会社と共同でヤフー株式会社を設立しました。
そして、同年4月1日、いま皆さんが利用している日本語によるサービスYahoo! JAPANがスタートしたのです。」

 時系列的な観点からは、「心はプルシアンブルー」開始とインターネットの開始を結びつけることは不可能ではない。そしてこのような社会的変化と自らの変化を結びつけて考えることは、偶然不信派の得意とするところである。

 インターネットが表面的な部分だけを見ても、社会に大きな影響をもたらしたことは明らかである。しかしそれに加えて、人間の精神の部分にも超常的な特殊な作用をもたらしたのだろうか。実をいえば、私には、インターネットに特殊な作用があると考える理由が、もう1つあるのだが、それについては後述することにする。

 しかし普通に考えて、インターネットはこの先も長く、人類に利用されていくに違いない。少なくとも私が死んだ後もインターネット社会は続いているだろう。すると「心はプルシアンブルー」も末永く、死後に至るまで続くということになるのだろうか。

 さて、「心はプルシアンブルー」1995年開始の理由については、もう1つ仮説がある。この仮説の説明には少々手間を要する。

 まず、以下の2つのジンクスについて説明する。以下の文章に含まれる動詞は、いずれも五十嵐久敏を主語としている。

 

(キッズ・ウォージンクス)

ドラマ「キッズ・ウォー」シリーズを見た翌年、陸上競技部に所属する。また陸上競技部で活動するのは、「キッズ・ウォー」を見た翌年に限る。

 

(ドラマ30ジンクス)

ドラマ30枠のドラマを見た翌年、走力が向上する。

 

 高校時代、陸上競技部に所属していたことはすでに書いた。山梨学院に行きたくて熱心に練習をしたが、思ったような成果をあげられなかったのだった。

 偶然不信派は、この陸上競技体験にも通常と異なる解釈を与える。キッズ・ウォーを含むドラマ30枠の昼ドラを見たから陸上競技に取り組むようになったというのが、偶然不信派の考えである。

――読者は「キッズ・ウォー」シリーズをご存じだろうか? かつてドラマ30とよばれる枠で放送された昼のドラマのタイトルである。1999年8~9月に放送された第1シリーズを皮切りに、2003年8~9月の「キッズ・ウォー5」まで続編が放送され、2003年11月のファイナルスペシャルで完結した。2001年放送の「キッズ・ウォー3」はドラマ30枠史上に輝く高視聴率をマークしたという。

 「キッズ・ウォー」シリーズが放送されていた頃、私はごく一般的な思考回路を持っており、偶然不信派はまだ産声をあげていない。したがって上記のジンクスを意識することもなかった。2つのジンクスに思い至ったのはごく最近のことである。すでにドラマ30枠は放送を終了しており、ドラマ30ジンクスの真偽を検証することはもはやできない――

 これらのジンクスに関する詳細については本書では省略する。

 しかし、このジンクスが存在するのは事実である。「キッズ・ウォー」を見た年(1999~2001、2003)の翌年のみ、私は陸上競技部に所属し活動している。またドラマ30ジンクスに関しても、ドラマ30を欠かさず見ていた時期(2003年4月~2004年7月)の1年後、長い距離が苦手のはずの私が、ハーフマラソンやウルトラマラソンを走れていた。反対にドラマ30を見るのをやめた時期(2004年8月)の1年後からは、ぱったりと走れなくなってしまった。

 偶然不信派が、このジンクスを説明する際に使うのが、サブリミナル効果という言葉である。私はこの言葉を「魔術はささやく」(宮部みゆき著/新潮文庫)という小説で知った。映像の中に隠されたサブリミナル効果を用いて、人の潜在意識を、さらには行動をもコントロールできる―――現実にこんなことが可能かどうかはさておき、フィクション作品の中では存在する概念であり、現象である。

(キッズ・ウォーに含まれていたサブリミナル的な作用が、私を陸上競技へと導いたのだ)

というのが偶然不信派の主張である。この主張の背景には、「キッズ・ウォー」に対する尋常ならざる思い入れがある。「心はプルシアンブルー」を意識する前、もっとも夢中になったのが自らの競技生活であるとともに「キッズ・ウォー」シリーズであった。2003年に「キッズ・ウォー」シリーズの放送が終わった時には、すべてを失ったかのような測り知れないショックを受けたほどである。

(「キッズ・ウォー」には大きな感銘を受けた。その感銘の背景にあったのは、実は目に見えないサブリミナル効果だったのではないか)

 ここで注意したいのは、「キッズ・ウォー」の製作者が人為的になにかの加工を施したなどということは、まったく考えていないという点である。そうではなく自然発生的にサブリミナル的な作用が宿ったのではないか、というのが偶然不信派の主張である。

 これに対して、常識尊重派は次のように反論する。

(このようなジンクスはどこにでも存在する。高い確率で偶発的にうまれうるものだ。多くの人の人生の中にこのようなジンクスを発見できるに違いない)

 ここでも我が胸中、偶然不信派の方が広く支持される。サブリミナル効果を認めるこれらの考えを採用することで、話がさらに進むというメリットがあるからである

 私はサディストである。特に、恐怖に怯える女性の顔を見るのを好む。その歪んだ性欲を思う存分に満たす際に使われるのが、フィクション作品である。私は小学3年生になる前に録画したある刑事ドラマの映像を繰り返し見て、自らの性欲を満たしてきた。その再生回数はゆうに10000回を超えることだろう。

偶然不信派はこの経験をもとに、次のような仮説を提唱する。

(キッズ・ウォーが表面的・肉体的な意味で私を陸上競技へと導いたのならば、この刑事ドラマが「心はプルシアンブルー」をうみだし内面的・精神的な意味で私を陸上競技へと導いたと考えることは不自然ではない。刑事ドラマを録画したのが1993年、「心はプルシアンブルー」の開始が1995年で、時系列的な観点からも仮説は成立する)

 対して、常識尊重派は次のように反論する。

(サディスティックな性欲と箱根駅伝が結びつくわけがないだろう。あまりにも馬鹿馬鹿しい仮説というしかない)

 これらの仮説に多少なりとも関係のありそうなことが書かれているのが、「洗脳護身術」(苫米地英人著/三才ブックス)である。以下、「洗脳護身術」から抜粋する。

 

「変性意識とは、臨場感を感じている世界が物理的な現実世界ではなく、映画や小説といった仮想世界にある状態を指す」

「洗脳には必ず変性意識が介在している。これは洗脳状態が「本来の物理的現実世界とは異なる、カルトなどの洗脳者によって築き上げられた仮想世界に臨場感が継続している状態」にあるから当然のことである。」

「変性意識下では、人間は意識を自在に操作されやすくなる。」

「仮想世界に臨場感が特に強いときは、超常的ともいえる色々な生態現象までもが起き得る。」

「カルトでは、恐怖と快楽をセットで利用するのが常套手段である。」

 

 これらの記述を見ると、ドラマ影響説も、あながちありえない話ではないようにも思える。もっとも「洗脳護身術」を読んだだけでは、ドラマを見ることと「心はプルシアンブルー」の発生の因果関係の本質的な部分は知りえない。

 それでも私の中では、フィクション作品が通常考えられている以上の影響力を持ちうる、という考えが根強く存在する。海外小説仮説もその系譜に連なるものである。

 こういったことをもっと深く勉強してみたいと思っているのだが、現状では具体的な手段はまったく思い浮かばない。

 さて、インターネット関連説とドラマ影響説の関係について、偶然不信派は次のような見方を示している。

(これらの仮説のうちのどちらか一方が正しいというわけではなく、両方ともに正しいと考えることも可能である。インターネットが普及したことも、私がオナニーにふけったことも連動していると考えればよい)

 この連動という発想が、偶然不信派の世界観の根幹をなしている。

 

 実はこれらの仮説について考えるようになったのは2014年に入ってからのことである。本来ならば2014年の部分に書くべきところであるが、分量のバランス等を加味し、2011年の部分に書いておいた。