2014年

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 横浜にある母の家は箱根駅伝の2区・9区のコースからほど近い。歩いてほんの数分の距離である。 

 例年、母は箱根駅伝を生で見るため、2区9区のレースの間、家を空ける。一方、私はその間もテレビの前にかじりついているのが常であった。

 この年の1月2日も2区にタスキがわたると、母は家を出、私は一人残された。

 山梨学院大学2区のオムワンバの走りに異変が生じたのは、その後のことだった。

「オムワンバが足をひきずっています!」

アナウンサーの実況とともに、映像が映し出される。私は思わず我が目を疑った。

(私の精神状態からして山梨学院はシードを取る。それに海外小説も読んだから、神奈川大学を上回るはずだ。大丈夫、大丈夫だ)

 そう思ってはみたものの、オムワンバの走りは明らかに大丈夫そうではない。

 ほどなくオムワンバは前に進めなくなり、審判が赤旗をあげ、途中棄権が決まった。山梨学院の途中棄権は18年ぶり2度目のことだった。

 途中棄権に際して真っ先に思ったのは次のことである。

(ネット上で予測を公開したことがこの悲劇につながったのだ。前回はモグス、今回はオムワンバ、交通事故と途中棄権、形こそ違えど同じ失敗を繰り返してしまった)

 

(ネットジンクス)

五十嵐久敏がネット上で、「心はプルシアンブルー」に関する経験について発信すると、山梨学院大学に在籍する留学生に悲劇が見舞う。

 

 世間一般の常識にしたがえば、これはただの偶然である。私が予測を公開しようがしまいが、オムワンバは棄権していたと考えるのが普通の考え方である。

 しかし私にはこれがただの偶然だとは思えない。この点に関しても常識尊重派の出る幕はない。

 この時、私は次のような決意をする。

(少なくとも山梨学院に留学生が在籍しているうちは、ネットで発信するのはやめよう。知恵袋のはずれた予測だけが残ることになるが、致し方ない。)

―――しかし、この決意はある問題をはらんでいる。それは本書を読んだ読者がその感想等をネット上に書き込んだらどうなるのか、という問題である。この問題にはとりあえず目をつむり、本書を執筆している―――

 また、私がインターネットの特殊な作用をはっきり意識するようになったのはこの時からである。このことは「心はプルシアンブルー」開始理由に関するインターネット関連説がうまれるきっかけにもなった。 

 

さて箱根駅伝では、途中棄権があった場合、以降の区間の選手はオープン参加という形で走ることになる。そのタイムや順位は正式記録には残らず、参考記録という扱いになる。この年の山梨学院も、3区兼子侑大以下、8人が箱根路を駆け抜けた。

 復路のタイムは、全23校中9位相当という結果だった。

 尚、神奈川大学は11時間23分47秒で18位に終わった。海外小説ジンクス1は山梨学院の途中棄権で記録の上では崩壊したのに対し、海外小説ジンクス2はこの年も継続されたことになる。

 

 大会が終わり、私は帰途につく。帰りの電車内で考えていたのは次のことだった。

(今大会も山梨学院の選手の走りに、私の精神状態は反映されていたのだろうか? 「心はプルシアンブルー」はつながったのだろうか?)

 反映された、と考えることも可能だった。3区以降、調子が良かった区間調子の悪かった区間それぞれだったが、その中に自らの精神状態を見出すことは不可能ではなかった。

 このことは私にとって大きな救いだった。もしも「心はプルシアンブルー」が完全に否定されるような結果だったら、立ち直れないほどに落ち込んでいたに違いない。

 しかし、「心はプルシアンブルー」が今大会も健在だった、と言い切ってしまうことにはためらいを感じていた。

 過去「心はプルシアンブルー」を意識するようになって以降、山梨学院の結果は常に私の想定の範囲内だった。しかしこの途中棄権に関しては、明らかに想定の範囲外であった。

オムワンバが足をひきずる映像が流れるその瞬間まで、途中棄権のことなどまったく頭になかったのである。

(山梨学院と私の間に今まで信じてきたような深いつながりがあったら、途中棄権という駅伝の一大事をまったく感知できないなどということがあろうか?)

 知恵袋のはずれた予測を見た人は、この質問者の考えはただの妄想であると感じたに違いない。私が逆の立場でもそう思った筈である。

 駅伝ポイント予測ということに関しては、レース直後に2区がどのようなタイムだったら予測が的中していたか、ということを計算していた。その結果出てきたのは、実際の記録の区間11位と区間12位の間のタイムである。完走22人中の11番と12番の間であるから、順番的にはちょうど真ん中のタイムということになる。

 このことはオムワンバが本来の力通り走っていれば予測より良い数値が出たこと、並の日本人選手と変わらぬ走りをしていたら予測が的中していたことを示している。

 もし仮に2区が区間中位の結果で予測が的中していたら、私は「心はプルシアンブルー」に対する確信を深めていたことだろう。しかし現実は途中棄権という結果だった。通常の感覚からすれば、区間中位で無難に完走するのと、途中棄権するのとでは天と地ほどの差がある。

(この天と地ほど大きな隔たりを無視して、「心はプルシアンブルー」を信じ続けてよいのだろうか?)

 この自問に対する答えは以下である。

(無視してかまわない。区間中位も途中棄権も、私の精神に影響を与えないという点では共通している)

 この自答の背景には、18年前の途中棄権時の経験がある。

―――70回大会、71回大会と2年連続で箱根駅伝を制した山梨学院大学は、3連覇をめざして72回大会に挑むことになる。3区を終えて3位につけ、4区中村祐二にタスキが渡る。この中村選手は、当時の学生長距離界では屈指の実力の持ち主であり、4区で首位に浮上する展開が充分に見込めた。しかし、中村選手は走り出して早々に足を引きずり出し、その後10km近く前に進んだが、結局タスキをつなげず、途中棄権となった。この時、同じく4区で途中棄権したのは他ならぬ神奈川大学である。

 2校も途中棄権があったせいか、この大会に限って、以降の選手の記録も正式記録として認める特例の措置がとられた。

 山梨学院は復路でも苦戦を強いられたが、9区平田雅人、10区渡辺高志が意地を見せ、復路は3位に入った。ゴール地点での見た目の順番では、総合3位の順天堂大学を上回っていた―――

 この大会があった1995年度、私は小学5年生だった。振り返ってみると、小学5年生になった頃から、私の人生に苦楽が発生したことが分かる。小学4年生までは多少の機嫌の上下はあっても、そこに幸福感を感じたり、自分を不幸だと思ったりということはなかった。

 後の転落人生からすれば信じがたいことであるが、当時私は優等生だった。勉強に対して熱い想いを持ち、必死の努力をしていた。その思い入れは時としてストレスにもなった。一方で初めて小学校生活を楽しんだのがこの年である。友達とファミコンで遊んだり、他愛もないことに楽しみを見出していた。

 全体的に見れば、95年の精神状態は決して悪くなかったように思う。

 実は、この95年の精神状態が、箱根駅伝の結果と連動していたのかどうかということは長らく疑問に思っていたことだった。途中棄権のわりには精神状態が良すぎたように思えたのである。

 しかし2013年度の経験もあわせて考えると、途中棄権は精神状態に特に影響しないという仮説がうまれ、そのもとに、1995年度、2013年度も「心はプルシアンブルー」であったとすることができる。

(とりあえず、今回も「心はプルシアンブルー」はつながった、そう考えておこう)

 このような結論に至ったのはある意味必然であった。そもそもオムワンバが途中棄権したのは自らのネット発信に原因があったと考えている状態である。そうしたものの考え方をしている以上、「心はプルシアンブルー」が続いていると考えてしまうのは当然といえる。

 横浜から名古屋に向かう電車内で私はこんなことばかり考えていた。周りの咳も大して気にならなかったほどである。

 さて、読者の中にはこの結論には納得できない、という方がおられるかもしれない。実を言えば、私自身もこの結論には違和感を抱いていた。

(途中棄権が影響しないという考え方はいくらなんでも無理があるのではないか)

 この考え方を採用すれば、区間下位に沈んだ区間は全部途中棄権しておいた方が私の精神には良いということになってしまう。これはもはや「心はプルシアンブルー」とは呼べない状態である。

 こうした違和感の存在がまた新たな問題を提起することになる。